病院で順番が回ってくるまで、新潮社版の『ヴィヨンの妻』を読んでいた。たかが検査のために貴重な時間を無駄にしたくないためである。こんな風に書くと、物凄く充実した毎日を過ごしているようにみえるけれども、実体はグダグダと過ごしている。そうではあるが、病院の待合の時間ほど馬鹿らしい気がするものはない。それに知り合いでもいれば、「どうしました?」「歳なのですかね!」などと、しゃべりたくもないのに話さなくてはならない。しかし、読書に夢中になっていれば、相手も遠慮してそんなに話しかけてはこない。だから、決してよそ見などせずに、一心不乱に読んでいる姿を見せておくようにして読む。
私は中学・高校の頃、全く勝手な思い込みだけれども、日本人の意地汚い島国根性に自分が染まらないために、日本人の小説は読まないと決めていた。そしてまず西洋人の心の支えであるキリスト教を知ろうと思った。それから、欧米人の小説を読むことで、違う日本人を目指した。この歳になってみると、結果的には自分が嫌っていた日本人というものは、日本人のほんの片面でしかない。それに日本人に流れている気質は、どう逃れようと日本人である私の中にある。太宰治の小説は高校生の時に、無頼漢という言葉に引かれて、『人間失格』を読み、粋がっていたように思う。
新潮社版の『ヴィヨンの妻』は、太宰治が昭和21年から23年に書き上げた作品が8編収められている。どれも短いので、あっという間に読める。小説なのだから虚構であるはずだけれど、たとえば『家庭の幸福』では、「主人公の名前を、かりに、津島修治、とでもして置こう。これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである」と書いている。つまり津島修治という役人の話なのだとわざわざ断っているのだ。それくらいどの作品も太宰治の日常を描いた小説である。
太宰治の作品にキリスト教の聖典である聖書が、題材につかわれているのはどうしてなのだろう。太宰の生き方とか考え方とかにどこかで影響しているはずだ。『父』では、冒頭に聖書の「創世記」の「義のために、わが子を犠牲にする」アブラハムを持ち出している。「義」に生きる父に対して、小説では、「私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか」というような、どうしようもない小説家を描いている。どの小説に出てくる男も、飲んだくれで女にだらしがない。女にだらしがないというよりも、女に救いを求めているといった方が正しいかも知れない。
太宰の名前の由来は、「大宰府から」と先生は説明してくれたけれど、私はこの8編の小説を読んで、ますます名前の由来は「堕罪」にあると思った。
私は中学・高校の頃、全く勝手な思い込みだけれども、日本人の意地汚い島国根性に自分が染まらないために、日本人の小説は読まないと決めていた。そしてまず西洋人の心の支えであるキリスト教を知ろうと思った。それから、欧米人の小説を読むことで、違う日本人を目指した。この歳になってみると、結果的には自分が嫌っていた日本人というものは、日本人のほんの片面でしかない。それに日本人に流れている気質は、どう逃れようと日本人である私の中にある。太宰治の小説は高校生の時に、無頼漢という言葉に引かれて、『人間失格』を読み、粋がっていたように思う。
新潮社版の『ヴィヨンの妻』は、太宰治が昭和21年から23年に書き上げた作品が8編収められている。どれも短いので、あっという間に読める。小説なのだから虚構であるはずだけれど、たとえば『家庭の幸福』では、「主人公の名前を、かりに、津島修治、とでもして置こう。これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである」と書いている。つまり津島修治という役人の話なのだとわざわざ断っているのだ。それくらいどの作品も太宰治の日常を描いた小説である。
太宰治の作品にキリスト教の聖典である聖書が、題材につかわれているのはどうしてなのだろう。太宰の生き方とか考え方とかにどこかで影響しているはずだ。『父』では、冒頭に聖書の「創世記」の「義のために、わが子を犠牲にする」アブラハムを持ち出している。「義」に生きる父に対して、小説では、「私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか」というような、どうしようもない小説家を描いている。どの小説に出てくる男も、飲んだくれで女にだらしがない。女にだらしがないというよりも、女に救いを求めているといった方が正しいかも知れない。
太宰の名前の由来は、「大宰府から」と先生は説明してくれたけれど、私はこの8編の小説を読んで、ますます名前の由来は「堕罪」にあると思った。