人間の最期はどのようにやってくるのだろう。中東では相変わらず宗派の争いで、大勢の人が死んでいる。人を殺してまで得たいものとはいったい何だろう。ナイジェリアでもイスラム教の武装勢力が人々を拉致したり殺したりしている。ウクライナも停戦に至っていない。戦っている側からすれば、神のためであったり、民族のためであったり、国家のためであったりと崇高な目的のためなのだろうが、人を殺してまで実現したいものとは何だろう。
福島原発の事故が起きた時、放射能に汚染された施設に入って作業することは困難と言われた。もし、施設に入りボタンを押せば危機から救われるなら、ボタンを押すだけでは無理でも、もしハンドルを回すことさえできれば、放射能の拡散を抑えることができるという、本当に誰でも出来る作業で事故の拡大を防ぐことができるとハッキリしていながら、それができないのは施設に入り込む決死の人がいないからなら、私は志願しても構わない。そんな話を仲間で話したことがある。
それは私だけでなく、話し合っていた仲間たち全員の意思だった。若い人たちにそんな無茶な作業をさせることはできないが、私たちのような元気な年金生活者なら、そこで死を迎えることになってもいい。どちらにしても先はないのだから、せめて最期に、何か人様の役に立つなら本望である。人々に感謝され、英雄と称えられ、わずかでも身内に謝礼が渡されるなら、全国から決死隊に参加する人たちが大勢いるはずだ。人は誰かの役に立って死ぬ機会に巡り合うことはまずない。こんな名誉な死に方はないだろう。
「決死隊に選ばれて、残す日数は3日しかない時、何がしたいか?」という話になった。身辺整理はしてきた。会いたい人にも会ってきた。これといって食べたいものもない。もし許されるなら、好きな女の肌に触れて眠りたい。そうすればもう思い残すことはない。それって、70年前の特攻隊員の話じゃーないの。人間はいくつになっても変わらないのかねえー。酒が回るうちにすっかり原発決死隊の話ではなくなってしまった。