昨夜、通夜に参加したら、余りにも参列者が少なかった。大和塾の仲間もそれぞれに事情があって今日の告別式には出られないと言うので、ヒマな私は「賑やかし」になればと思って参列した。コーラスなどの仲間の女性たちも「昨夜が少なかったので」と出席していた。享年86歳、ダンナに先立たれて20数年になるという。読書や映画が好き、演劇も音楽会もひとりでも出かけていたようだ。
連れ合いに先立たれると男は長生きしないが、女はそれからが人生のようなところがある。いろいろ辛抱して暮らしてきたのだから、思う存分に自分がしたいことをすればいい。今日の中日新聞の家庭欄に私の高校の大先輩である外山慈比古・お茶の水女子大名誉教授が、『家族のこと話そう』に出ていた。外山さんは大正12年生まれだから、私の父(明治44年生まれ)の後輩で、私も通ったあの校門を出入りしたことになる。
外山さんの生家は現在の西尾市で、醸造業なので「ちょっとした資産家」だった。お父さんは家業を継ぐより外国へ行きたかったようで、「自宅の蔵に米国や欧州などの風景が描かれた絵はがきが千枚ほどありました」と言う。外山さんは「英語を学びたい」と思ったけれど、「当時は太平洋戦争の前、学校の担任ら周りはみんな反対です。でも、おやじは『やれ』とも『駄目』とも言わずに黙って見守ってくれた」そうです。
生家から高校へ通うのは大変で、「高校へ進学すると、実家を出て寄宿舎に入りました。私が10歳ごろに母が病死して、新しい母親がやって来ました。寄宿舎に入ったのは自分の意思ではなく、おやじが勝手に決めた。(略)『家を追い出された』と恨めしくも思いましたが、振り返ればベストでした」。「親は子どもにとっての良い教師になれない。距離が近すぎて、変な期待が入って冷静にみられないんです。離れすぎても駄目だけど、ぶつからないような適度な〝車間″をちゃんと意識しないといけません」とあった。
生徒に教えるよりも我が子の方が難しい。適度な距離で子どもたちと接してきただろうかと今更ながら反省している。