三重県川越町で80歳の父親と52歳の長男が亡くなった。「葬儀無用」と書かれた紙があり、「こんな状態の父親を置いていけないので連れて行く」とケイタイ電話に残っていた。父親と長男はふたりで暮していたから、介護疲れによる無理心中ではと報じられた。介護疲れによる親族間の殺人の多くは「将来を悲観」したもので、子が親を殺害するだけでなく、親が「自分が死ぬと誰も(子どもを)介護してくれない」と子を殺害した事件もある。
それに最近、火事も多い。高層マンションの1室でここに住む老夫婦が亡くなる事件など、火事現場が老人世帯ということがよくある。火の始末ができないのか、それとも無理心中なのかと考えてしまう。私の住むマンションでもいつも顔を会せる人が続いて亡くなられた。「人の死」を耳にするのはやはり辛い。私のところに頻繁に電話してくる女性も妹とのふたり暮し。姉の頑固さと常識を超えた行為に妹は悩んでいるが、「どうしようもないです」と諦めている。
地域共同体から核家族化へと進み、人のつながりが希薄になった。資本主義社会がつくり出した必然なのだろう。優劣をつけず、白黒をはっきりさせず、曖昧なまま何でも受け入れ、自分たちの文化にしてきた日本も例外ではなかった。「孤立を恐れず」などと虚勢を張らずに、「みんなで仲良く」と思っている。15日には長女のダンナの姉から「蟹江の桜祭り」に誘わられている。翌日は我が家のチューリップを見に、カミさんの弟と妹が来てくれる。
来週のどこかで、マンションの友だちを招待して「チューリップを愛でる会」を開く。なんだかんだと口実を設けて集まり、食事したり酒飲んだりしているが、これこそ老後の楽しみではないかと思う。「過去の話ばかりしてくだらん」と中学からの友だちのひとりはクラス会を否定していたが、その彼も参加するようになったのに、今年はまだクラス会の案内が来ない。
「もっと生産的な話が出来ないのか」と彼は言うが、そんなことが出来るなら、きっとその方が盛り上がるだろう。けれど、この先に何があるのか、何かやれることがあるのか、そう考えると実に何もない。「仕事を趣味にするのか、夢にするのか」と論議していた頃が懐かしい。