知事選挙は思った通りの結果だった。結果が分かっていても、投票に行くことが大事と納得できるようになった。1票を投ずることだけが民主主義というのは間違いだと思うけれど、じゃ―どうするかとなると良い案は思いつかない。出来る限り狭い範囲で、自治を行う以外に1票が活かされることは無いように思う。
昨日は県下で3自治体が市長選挙を同時に行ったが、それでも投票率は僅かしか上がらなかった。尾張旭市の市長選挙に注目したけど、やはり保守には勝てなかった。どんなに適切な政策でも、どんなに正しい主張でも、だからといって有権者は投票してくれる訳ではない。国会での議論を聞いていても、攻める野党と守る与党に大きな差は見られない。
知事選挙は保守連合対共産だったが、「全ての人が輝く県政」と「一人ひとりが普通に暮らせるように」という程度の違いしか伝わってこなかった。「福祉や教育を重視」と一方が主張すれば、片方も「経済の発展で福祉や教育の充実」と訴える。地方自治体では、住民が抱える切実な問題でもない限り、いや、たとえあっても、なかなか選挙の争点にまで高めることは難しい。
どうしてそうなってしまうのだろう。私が高1の1960年、国政が変わるかと思った。東京で大学生だったいとこが私に、「東京においで。日本が変わるよ」と安保闘争を熱く語った。彼は県庁の職員となり、「愛知県から変える」と豪語し、確かに職員のトップに上り詰めたが、それだけだった。60年安保闘争は岸内閣を退陣させたが、次の選挙で自民党政権は継続された。
どのような国にするかは、二者選択の分かりやすい選挙だと思うが、日本人は鮮明な区別よりも中庸な曖昧さを選んできた。敵を作りたくない、敵と思われたくない、そんな心理が働くようだ。「みんなで仲良く」でいいと思う。でも、そのためには、「みんな」が徹底的に話し合うことが必要であるし、その場が保証されなくてはならない。