人間は弱い。弱いと自覚している時はきっと、周囲に気配りも出来ていた。ひとりでは生きられないから群れて暮らしてきた。群れているためには、勝手な行動は出来ないし、周りに気を配らなくてはならなかった。けれど、だんだん強い存在になってきて、いつしか気配りは薄くなった。
しかし、人間の社会には上下がある。命令する人間と命令される人間がいる。身分の高い人、社会的な地位の上の人、金持ちがいる。弱い立場の人がいるように、強い力を持っている人もいる。現代は、生きていくためのは気が抜けない、思いやりに欠けた不条理な社会だ。
今日、喫茶店で2月23日に行う「同年の集い」の打ち合わせをした。出席者は33人、「参加すれば若返る」ことは無理でも、「みんなが元気になれるような会にしよう」と幹事5人で話し合った。せっかく参加しても、隣の人と話せなかったということのないように、一緒に歌ったり、触れ合い、笑い合える会にしたい。
打ち合わせが終わって、雑談になった時、野田市の小4の女の子が虐待され亡くなった話や2歳の赤子が父親の虐待で死亡した話になり、「信じられない」と皆怒る。力の強い相手に挑む人はいない。ケンカも戦争も同じだ。相手が弱いから手を出す。暴力を振るう人は、弱い人に向かうとどんどんエスカレートしていく。
野田市の父親も2歳の赤子を死亡させた父親も、相手がプロレスラーなら決して手を挙げたりしないだろう。「助けて」「やめて」と懇願する、声も出せない弱い相手だから、自分が「強い」と思ってしまう。夫を止められなかった母親は暴力から逃げた。子どもに暴力が向かうことを知りながら、自分よりも弱い者を利用して逃げた。
高齢の両親が認知になったり障害があったりする。子どもは親のために、仕事を辞めて介護に専念すべきか、入所させるべきか、なかなか判断できない。相談する場所を知らない。家庭内の暴力、両親の介護、障害者の子どもの行く末、解決のことまで考えが回らない。人間は強い存在であるのに、個々の人間は脆く弱い。「どうにかなりませんか」と叫びたくなる。