愛はどこにあるのか。見返りを求めない「無償の愛」でなくてもいい。私利私欲の自己中心的な愛のどこが悪いのか。人間はいつも、何かを求め続けている。求めなければ生きてはいけない存在なのだ。「愛に渇望している」。それが人間なのだと思う。
水泳の池江璃花子選手が白血病と診断され、波紋を呼んでいる。まだ、18歳の若さなのに、新聞に掲載された池江選手のツイッターを読むと、彼女の前向きな決意が伝わってくる。高校生なのにずいぶんしっかりした文章だと感心した。
それに比べ、桜田五輪大臣はおそまつだ。正直な気持ちであることは分かるが、大臣が街のおじさんと同じレベルかと、「がっかり」してしまう。それを捕まえて、辞任を迫る野党議員の質問にも「がっかり」した。国政を審議する国会の場で、揚げ足取りではレベルが低い。
安倍首相が自民党の集会で、「悪夢のような民主党政権時代」と発言したことを捉えて、野党議員が「発言の撤回」を迫るのもおかしい。安倍首相が「撤回しません。表現の自由です」と答えていたがその通りだろう。ますます安倍首相は「信念の人」になってきた。祖父の岸さんがやり遂げられなかった改憲にまっしぐらである。
池江選手の文章の中に、「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉がある。先輩もよく使う言葉で、確か聖書にあった気がする。初期キリスト教の基礎を築いたパウロがコリントの信徒仲間に送った手紙にそのような文章がある。現実と信仰との間で揺れる仲間を励ますための手紙である。
池江選手がキリスト教を信じているかは定かではないが、「耐えて頑張れば報われる」と思わなければ、病気には勝てないだろう。自分で治すという不思議な力を、人間は身体の中に持っている。求め続けることが力になるのだ。