友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「笑い」と「いじめ」

2019年02月06日 17時25分55秒 | Weblog

 山口県の県立高2年の男子生徒の自殺について、調査検証委員会が「他の生徒からのいじめがあった」こと、そして「教職員もいじめに類する行為があった」ことも、認める報告書を知事に提出したという。詳しいことや経緯などは分からないが、こんな嫌なニュースばかり続き、ますます暗い気持ちになってしまう。

 先生は深く考えずに、冗談半分のからかうつもりの行為だったのかも知れない。いじめた側はほとんど記憶にないようだが、いじめられた側は永遠に心に残る。ほんの些細なことでも受けた傷は深く大きい。小学校のクラス会の2次会で入ったスナックで、4年生の時、いじめたボスにたまたま出会った。私もいじめられたが、私の隣りもいじめられたようで、ボスに向って、「よく、いじめられた」と言うが、当の本人は全く覚えていなかった。

 小学生の頃はプロレスが流行していて、身体の大きかったボスはプロレスごっこが好きだった。テレビの影響は今も強い。「笑い」を取る番組は、ほとんど「いじめ」である。「いじる」と「いじめ」は違うと言うが、もてあそばれる点では変わりない。受け手の側にとてもつらいものがあれば「いじめ」であろう。

 以前あったタモリの「笑っていいとも」をはじめ、バラエティーと呼ばれる番組は、必ず相手の身体の特徴とか間違いとかをネタに笑わせる。土曜日の昼の「吉本新喜劇」も、同じパターンで相手を、時に暴力まがいに叩いて「笑い」を取る。私も見ていて笑ってしまうが、時々後味の悪さを感じる。大人がこんな言葉や動作で笑わせているのだから、子どもが同じことをするのも当然な気がする。

 私は子どもの頃から、落語や漫才が好きだった。結婚して初めて「コント55」をテレビで観たが、果たしてあの頃のテレビの「笑い」もやっぱり相手の弱点をあげつらって、「笑い」を取っていたのだろうか。規制ばかり多くしたら、無味乾燥な「笑い」になってしまうだろうが、もうすこし、楽しく心から「ワッハッハ」と笑える番組作りをして欲しいと思う。それとも「笑い」と「いじめ」は表裏一体のものなのだろうか。

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