竹島や尖閣諸島の問題で、自衛権を行使して美しい日本の海を守れと、自民党の総裁候補の安倍さんや石破さんは言う。実力行使となれば、もう後には引けなくなるだろう。そんなことをする意味がどこにあるのか、私には理解できない。人は多くの場合、たまたまそこに住み、そこを祖国としている。あの島は日本の国のものだと言うけれど、それは日本に生まれたからで、韓国に生まれていれば韓国のものだと言うだろう。
みんな、自分がたまたまその地に生まれたのだということを忘れている。地球はそこに住んでいる人々が生きていく場所だ。国があって、人が生まれてきたわけではない。人が国をつくったのだから、国などは仮のものに過ぎない。国を守れとか言う前に、人の命を守ることだろう。命を守るためにはどうしたらよいかである。みんながみんな、自分だけの利益や幸せを求めたら、決して平和に暮らしていくことはできないだろう。
今日のニュースでまた、中学1年生が生徒手帳に、「いじめられていて、死にたい」「死んだらどうなるのか知りたい」と走り書きを残して、自宅マンションから飛び降り死亡したと報じていた。あるいは、子どもが言うことを聞かないからと、しつけのために行なった行為で幼い子の命が奪われたことや、20代の学歴のある若者が小学生の女の子を誘拐する事件が続いた。
お爺さん、お婆さん、お父さん、お母さん、大家族での生活は、嫁いびりもあって大変だったけれど、誰かが子どもを見ていたから、今日ほどの孤立感はなかったのではないだろうか。人と話す機会を失ってしまったことが、悲惨な事件となっているように思う。貧しいがために、もっと豊かな生活を求め、そのために他人よりはまず自分、他所の家よりも自分の家、そうした気持ちが常にどこかにあったのかも知れない。それが今日の日本人の意志を形作っているのだろうか。
シリア政府側の民兵が、ひとり殺せば2万円(?)と麻薬がもらえるとテレビのインタビューで答えていた。こんな戦いのどこに大義があるのか、金のために人を殺すなら強盗と同じだ。けれどよく考えれば、自分の国が生きていくために戦うという大義も、金のために殺すことと同じことだ。殺される相手にも国があり家族がある。シリアやレバノン、イラクやイランという地域は、旧約聖書にも出てくる。ユダヤ人の祖先はこの地を彷徨った。
旧約聖書の時代でも、地元の人々がユダヤ人を客として暖かく迎え入れたり、それをいいことに虐殺して家畜を奪ったり、実に様々な非道なことが繰り返されている。心の支えとした宗教は違っていたが、そのために戦うこともあったけれど、宗教の違いを超えて仲良くしている時もある。人々がもっと仲良くするためには、相手も生きていることを知ることだろう。
さて、今日は誕生日会でのゴルフの日。ゴルフをしない私も「反省会」だけは呼ばれるので出かける。飲み過ぎないように、反省しなくてはと思っている。
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