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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

何が良くて、何がいけないのか

2009年08月07日 21時50分17秒 | Weblog
 芸能通ではないので、多分かなり音痴だと思う。孫娘から聞いている範囲でしか知らないことが多いが、今日の酒井法子さんは知っている。何を知っているかと言えば、甲子園での入場行進に彼女の曲が使われたこと。それが何という題名の曲かとなると知らないところがおかしなところだ。なぜ、彼女の名前を知っているのか、理由はよくわからない。彼女が私の娘たちと同じくらいの年頃で、娘たちが高校野球に夢中になっていたためだったのかなと、一応関連付けてみたけれど、そんなになるほどと思えるようなことでもない。

 マスコミ各社は酒井法子さんが自殺でもするのではないか、いや自殺をすると決め付けたような報道だった。夫が覚せい剤を隠し持っていたくらいで、何もそんなに追い詰めることはないのではないか、これでは自殺でもしなければマスコミの期待を裏切るようなことになりそうだと、そう思っていた。ところが今日の報道では、事件に巻き込まれたかわいそうな夫人という位置づけから、覚せい剤を持っているあるいは使用していた容疑者となってしまった。

 覚せい剤がどんなものなのか、私は知らない。覚せい剤を使用し続けると、幻覚症状が起こり、殺人者になり易いということであれば、それは取り締まるべきであろう。しかし自分だけがいい気分であって、他人に危害を加えることがないのであれば、たとえ本人が命を短くする結果になろうともそれは自己責任ではないのかと思う。山登りの好きな人が山に登ったり、海に潜ることが好きな人がダイビングをやることと変わらないような気がする。

 たとえば、ローマでの世界水泳大会では男も女もまるで江戸時代の消防夫のような格好の水着を着用していた。水を通さない素材の水着で次々と新記録を打ち立てた。エロじいさんは「見ていても楽しみがない。いっそのこと全員裸で泳がせればいい」と過激なことを言う。水着によって新記録を狙いのも、薬によって狙いのも、目的は同じだ。だからドーピング違反のスポーツ選手は後を断たない。

 身体に悪いと断言されたタバコだが、喫煙者は減少したものの、若い女性の喫煙は増えているそうだ。カナダで生活した経験のある私の高校時代の友人は、「大麻はタバコほど害がないので、皆がやっているよ」と話していた。「皆」という意味がどこまでを指すのか疑問はあるが、へエーそうなのと思った。何がいけないもので、何は使用してよいのか、そもそもいけないとは何を指すものなのか、曖昧なことが多い。一般的に飲んでいる薬も、益と害があるはずだ。食べ物や飲み物は大丈夫なのだろうか。

 人間は一緒に食事をすることでコミュニケーションを図ってきた。今、一緒に食事ができない家庭が増えてきたそうだ。何が良くて、何が悪いのか、判断ができない時代になってきた。
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広島原爆の日

2009年08月06日 22時29分24秒 | Weblog
 おや、どうも変だ。一昨日辺りから、朝方にクシャミが出るようになった。昨日は左目に何かが入り込んだような異物感があったし、昨夜は痒くて眠れなかった。そして今朝はクシャミが続き、目が痒い。明らかにアレルギー反応の前兆である。長女の家には3匹の猫がいる。これがまた人懐っこく擦り寄ってくる。猫アレルギーか?今日は松阪まで出かけたが、車窓から見える稲田はもう穂が出ている。するといつもなら9月に表れる稲アレルギーか?真夏が来ないうちにアレルギーだけが先にやって来るとは何という皮肉か。

 人の力や智恵ではどうしようもないことは仕方がないと諦めることができるけれど、原子爆弾は人が造り出したものだ。ダイナマイトを発明したノーベルは、それが人を殺傷することに使われるとは思っていなかったと、子どもの頃に読んだ偉人伝には書いてあった。ところが原子爆弾はあくまでも大量破壊、大量殺人を想定した兵器だ。発明した科学者がいなければ造れなかったであろうし、使用を許可した政治家がいなければ投下はされなかったであろう。広島の原爆投下は人智を超えた結果ではなく、あくまでも人による行為なのだ。

 科学者は自分たちが研究しているものが何に使われるのか、あるいは自分たちが研究しているものが万が一、人に被害を及ぼすものであれば、研究の一切から手を引くと宣言して欲しいと思う。科学者の良心こそが問われるし、良心を持った科学者でなくてはならない。また、政治家も自分たちがやろうとしていることに自ら責任を果たして欲しい。国家のため国民のためなどというキレイごとで本質を隠してしまう政治家は政治の場から追放しなくてはならない。国のため国民のためと口にした政治家は嘘つきが多い。

 広島の原爆平和記念式典はいつもながら感動的だった。秋葉市長の演説は平和を実現するためにどうあるべきか、具体的で行動的だ。子どもたちの平和への誓いは聞いていて涙が流れてくる。「あきらめません。平和への思いを訴え続けます」と聞いて、ぜひともそう願いたいと思う。いや本当は、まるで他人事のように任せるのではなく、戦後の社会を形成してきた私たちの責任において、世界に対して平和を実現する手立てを発信する責任が被爆国日本の私たちにはあると思う。

 残念ながら、式典に参加した麻生首相の口からは、通り一遍の原爆症認定の拡大により救済という選挙を意識した挨拶しか聞けなかった。原稿の読み間違いよりもましなどと陰口を言われていたが、ここまでが麻生さんとしては限度なのだろう。憲法第9条の意義も、世界平和に向けて日本がどのような価値を持っているか、麻生首相は考えたことはないのだろう。自民党が長く維持してきた政権の座を野党に明け渡さざるを得ないことも、ひょっとしたなら麻生首相は考えていないかも知れない。

 「誰も話さなければ、何も変わらない」とテレビで誰かが言っていたけれど、それが真実だと私は思う。
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今日は孫娘の誕生日

2009年08月05日 22時25分39秒 | Weblog
 中学3年の孫娘が誕生日を迎えた。ところが、あいにく今日は出校日。娘たちの時代もそうだったのか覚えは無いが、この日に提出しなければならない宿題・課題が山のようにある。孫娘はどちらかいえば生真面目なタイプだから、夏休みに入る前から計画を立ててやってきたはずだ。ところが昨日は「ヤバイよ。徹夜でも追いつかないかも知れない」と言う。

 考えて見れば、7月は水泳大会が続き、これに合わせてなのか早朝と夕方の水泳練習が重なり、学習塾も英語教室も集中授業が組まれていた。それだけでも大変だったはずのところへ、母親が次女を出産し、しかも産後の肥立ちが悪くて寝たっきり状態だったこと、そのために叔母である母親の妹がやってきて、8月2日まで一緒に暮らしていたことなどから、なかなか自分が計画したような生活ができなかったのだろう。

 昨日は読書感想文の指導は母親に、ポスターの指導は私に、それぞれの教科の課題については自分ひとりでやりぬくというスタイルで、残った課題と宿題を今日の朝までにやってしまおうということだった。「とにかく、明日(つまり今日のことだが)の午前8時まで頑張ればいいんだから。苦しいのはそこまで」と言う。これには参った。できなきゃーしょうがないと諦めてしまうのではなく、この場に及んでまだ時間はあるというのだ。

 今朝はぎりぎりまでやっていて、結局私が車で学校の近くまで送っていった。車の中で身支度を整える慌しさだった。下校した孫娘に「それで全部提出できたの?」と聞くと、「ウン、学校についてからも、始まるまでやっていた」と言う。「それで間に合ったの?」と聞き直すと、「課題の方は最後のページに先生が印を捺すので、最後のページからやっていった」と答える。できなかったページがあっても、とりあえずクリアできたわけだ。そんなずるがしこさも身についてきたのかと安心した。

 ただただ真っ直ぐで融通の利かない女の子と心配していたけれど、生きていく要領も少しは身についてきたのだろう。ずるくなれと奨励する気はないが、ずるいことがあると知った上で馬鹿正直の方がいい。人にはいろんなタイプがあるが、自分はこういう価値観、こういう生き方といったものを大事にして欲しいと思う。

 学校の3者懇談会で、担任から「何も言うことはありません」と言われたそうだ。孫娘は3年生になって成績が落ちていることが気になっているのだが、担任は「この子は頑張ることができる」と信頼しているようだ。中学3年になると、それまでは成績に関心が無かった男の子たちが勉強を始める。天才型の人間が勉強し始めると、彼女のようなコツコツ型の人間はいきなり抜かれて焦っているのだろう。「勉強は、どれだけ時間をかけたかで勝負だ」と彼女は水泳練習から自分に言い聞かせている。

 夏祭りの時、浴衣姿でつるんでいる中学生の塊に出会った。孫娘は「バカヤロウ!遊んでるんじゃーねえよ」と小声で叫んでいた。そろそろ彼女も青春かな?
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手段で政治をしてはならない

2009年08月04日 20時05分32秒 | Weblog
 選挙が近づいてきたせいなのか、私に声をかけてくれる人がいる。「いやもう選挙には出ません」と断ると、「もう一度挑戦してもいいじゃないですか」とまで言ってくれる。私は70歳までに全てを終わりたいと考えている。70歳を過ぎたなら、飄々と木の葉か鳥の羽のように生きていたい。私の希望では70歳で人生を終了したいが、その前で終わるのかまだ続くのか、それは神が決めることだと思っている。

 そんなわけだから、いろいろ言ってきてくださっても馬耳東風に聞き流している。今日も先日断った人からまた声をかけられた。もう一度議員となって地盤を固めて市長になったらどうかと言う。「まず、地域の利益になるようなことをやれば必ず票になるから、市から金を引き出すとか、公園とか道路とか集会所とかいったものを作らせればいい。議員になったなら市長選を戦える仲間を集め、市長になったら、あなたの思うようにやればいい」。

 私は黙って聞いていたけれど、この人が私に期待していることと私がやりたかったこととは全く違うので、何度も同じ話を聞くよりも私はハッキリと「私の考え方は違います」と伝えた方がいいなと思った。「私は地域の利益を優先させる政治手法は間違っていると思っています。これまで、自民党は地域や団体の利益を優先させ、そうすることで政権を維持してきましたが、その結果がこの現状です。子どもや孫にまで借金を残して、自分たちの利益を追求することは間違っています。お金は残しても借金は残すべきではないでしょう」。

 「いや、あくまでも手段ですよ。市長になることが大事なのですから」。「そういう考え方はありますが、結果がよければ課程はどうでもいいとは思いません。課程こそが結果につながっていきます。課程が非民主的なのに結果は民主的なんてことはありえないと私は思っています。国会議員なら国全体を、市会議員なら市全体を、しかも長期に見据えて、どうあるべきかを考える政治家こそが大事なのではないですか」。

 彼はまだ何か言いたそうだったが、丁度私の友人がやってきたので、口ごもりながら去っていった。確かに、地域や団体や特定の人々の利益ではなく、広い視野と見識を持つ政治家を選出しなくてはならないが、実はそうなるためには有権者そのものが「エゴ」を捨てなくてはならないと思う。自分たちにとって都合のいい政治家を選ぶ考え方を捨て去ることだと思う。誰かに何かをさせるのではなくて、みんなで責任を持ってやる考え方とその仕組みが必要だ。

 8月30日はその課程への第1歩となるだろうか。
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無性に腹が立った

2009年08月03日 19時19分06秒 | Weblog
 何だか無性に腹が立った。カッと燃え上がってくるものがあった。昨日の夏祭りでのことだ。

 一昨日とほぼ同様の天気だった。アメダスによる天気予報も夕方6時以降は同じように曇りと予報していた。夏祭りの役員が集まった午後1時の時点は土砂降りだった。おそらく中止だろうと思われたが、役員さんらは慎重を期して、1時間後の午後2時に決定すると延ばした。午後2時、天候の好転は無かった。案の定、中止の知らせが来た。

 「仕方ない。それではこれからここで反省会を行ないます」。雨は次第に小雨と変わり、止んでしまった。これから手伝いに来てくれる人や家族らも呼び集め、反省会を始めた。相変わらず、鮎の塩焼きは香ばしい臭いを周囲に漂わせている。仕入れてきた焼きソバをはじめ、焼き鳥やネギマも焼き、缶ビールを開けて飲みだした。中止の広報車は市内を回っていたけれど、それでも時間が経つに連れて、市民が多く集まってくる。

 「鮎の塩焼きをください」。「焼き鳥を8本とネギマを8本お願いします」。自分たちのために焼いていたけれど、分けてといわれてダメだとは言えない。私たちのグループの他にもいくつかのグループが私たちと同じように『営業中』となった。役員さんが血相を変えてやってくる。すぐに止めてくださいと言いたいところだろうが、「なるべく早く終わってください」と言う。それから市職員の担当者が「電気は切ります」と言い、電源が切られた。まだ、明るいからかまわないけれど、これでは暗くなったところで自然閉幕だ。仲間の一人が「暗くては元気が出ないから」とランタンを持ってきた。

 市民の集まりがピークとなった午後5時半過ぎ、市職員の幹部が3人で私の元にやってきた。「すぐに止めてくれませんか」と言う。「えっ、どうして?」と聞く。「苦情が来ているんです」。「どこから?」。「(市当局の指示に従って)『屋台をやめたのに不公平だ』と言うのです」。「そうですか、じゃあ、私が謝りにいきましょう。どこの誰ですか?」。「それはわかりません。中止になったのですから、すぐに止めてください」。「電気も消されたので、暗くなったらできません。6時半までには片付くでしょう」。そんなやり取りだった。

 私が議員の時、この人は幹部になるだろうなと思っていたが、そのとおりだった。私が市長になっていたなら、この人とは激論が絶えないなと思う。現在の市長ではなく、この夏祭りを始めた前の町長なら「あんた達は何を考えている。市民に奉仕することがあんた達の仕事でしょう。そんなこともわからんのか」と怒鳴り散らすだろう。同じ仲間出身の市長は、「何事も無く」を第一にするから、幹部連中は市民サービスとは何かなどは考えない。「事が起きない」ことが良い行政だと思っているのだ。

 夏祭りは市民が集い楽しむ機会だ。前の町長が求めた「平和」行事も形としては続いている。夏祭りで町長が実現したかったのは、市民が自ら企画し実行し参加する一体感だったと私は思っている。夏祭りの中止にもかかわらず、集まってきた市民がほんの少し祭り気分を味わうために、屋台に求めてきたことを断ることは本意ではない。市民サービスを考えるなら、中止にしてしまったけれど、こうして集まってきてくださった市民が少しでも満足できるようにすることではないのか。

 「中止だから交通規制ができない。危険だから止めて欲しい」と担当者は言うけれど、それならば職員の肩書きを脱いで、自主的に交通整理に立てばよいではないか。私はグループの責任者として交通整理を行なったが、勝手に交通規制をしたわけではなく、あくまでも運転手さんに自主的判断として迂回してくれるようにお願いしたに過ぎない。職員が市民の安全を願うなら、自ら交通整理に立って欲しかった。「やめてください」とばかり言わずに、どうすることが市民の安全を守り、市民が満足できるのか、市民に迎合するのではなく、先を見据えて考え行動して欲しかった。
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夏祭りの初日は雨だった

2009年08月01日 21時00分05秒 | Weblog
 夏祭りの初日、雨で中止となった。午前9時過ぎに主となるメンバーが集まった。パソコンやテレビの天気予報とにらめっこだ。大学生はケイタイを使ってリアルタイムに天気の状態を見ながら、「もうすぐ雨ですよ」とか「あと少しすれば雨も上がりますよ」とか、教えてくれる。開催になるのかどうかわからないけれど、注文した品で引き取らなくてはならないものを受け取りに行く。冷凍食品だからといって、受け取ってきても保管する場所が無い。懇意にしているインド料理の店の冷凍庫を貸していただく。それでも入り切らない分は個人宅の冷凍庫で引き受けてもらった。

 みんなでお昼を食べていると、またしても土砂降りの雨となった。これでは開催は無理だろう。先発隊はすでに現地に陣取り、鮎を解凍して焼き始めているというので、私たちも食事の後、現地へ移動する。鮎はすでに炭火の周りにキレイに並べられ、焼き手の二人はビールを飲みテンションが高くなっていた。午後1時過ぎ、祭りの役員たちが集まってくる。開催するか中止にするかを協議するためだ。結論はすぐに達したようで、「中止です」とふれて回ってきた。

 中止に決めても、開催に決めても、どちらにしても批判は出る。こういう時の決断は難しいけれど、いずれにしてもどちらかに決めなくてはならない。決めたからには頑として貫き通さなければ事態は混乱する。祭りが始まる夕方からは曇り空で、なんとか雨にはならないようだ。しかし、だからといって、開催と決めて雨降りになればもっと大きな非難を受けることになる。舞台で踊る人たちや平和行事の人たちは、中止となっても実際的な面での損失はそんなに大きくない。けれども、屋台の出店を準備している私たちのようなグループは、開催か中止かでは天と地ほど違う。

 何百食と用意した食品をどうするか、2日とも雨になれば全てがムダになる。1日でも開催されれば被害は半分で済む。保健所の営業許可は取っているので、祭りが中止になっても屋台は営業できるが、お客が来なければ売ることもできない。屋台を用意している人の中には、祭りが中止になっても店は開くと力んでいたが、お客が来なければくたびれもうけになるばかりだ。私たちも今日は、準備のために焼いてしまった鮎を、売るか食べてしまうか、何とかしなくてはならない。

 「それじゃーここで、鮎を食べながら反省会にしよう」ということにした。仲間内だけの飲み会のようなものだから、他から文句を言われることも無いだろうと思った。けれども、役員さんのひとりが「こうやっていると、きっと『営業していた店があった』という非難がくる」と嘆く。確かにそんなことをいう人はいるだろうが、どういう姿勢でこの夏祭りを行なうかだと思う。市民が気軽に集えて楽しめる機会はどんどん縮小されてきている。舞台を中心とした行事は大事なイベントであるけれど、市民参加型のこの屋台がなければそんなに人は集まらないだろう。

 屋台を担う人、舞台で踊る人、平和行事を行なう人、いろんな人々がいるから祭りは盛り上がる。盛り上がって何がいいのかといえば、市民としての一体感だろう。このまちで生活していることの歓びと言うか、安らぎとも言える平和な気持ちだろう。明日は晴れるのかな?
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