「ガン検診」を受けてきた。これまでの住民健康診断は、体重を量ったり、身長を測ったり、心電図を受けたり、血液検査で肝機能や腎機能を調べるというものであった。それがどういう理由なのか分からないけれど、自分で検査種目を希望するようになった。もちろん検査を受ければお金はかかる。値打ちにということだけれど、集団検診であることには変わりはない。そんなにまでして、健康である必要を私は求めていないのだが、カミさんが勝手に申し込んでくるので、いやいやながら検診を受ける。
会場へ行くと、知っている人がたくさんいる。高齢者が圧倒的に多いのだから当たり前で、そこで知らん顔をしているわけにはいかない。いやもう、議員でもないのだから、愛想が悪いと言われてもかまわないのだけれど、軽く挨拶してしまっている。そんな中にたまたま同じマンションの人がいた。順番を待つ間はこの人と話をしていようと隣に座る。「健康診断は2年に1回で充分だと思うのだけれど」と話すと、彼は「とんでもない。半年に1回は検査を受けるというのが基本ですよ」と教えてくれた。「ガン」はそれくらい進行が早いのだそうだ。
人はどうやって死ぬかと言えば、自殺以外なら事故か病気のどちらかしかない。自殺する人は1年間で3万人を毎年超えている。私は自殺するほどの勇気がない。私の知り合いの議員は自殺防止に自治体として取り組む運動をしている。地域社会での助け合いも必要だと思うけれど、社会から貧困を無くさないことには根本的な解決にはならないだろう。いつでもやり直すことが出来るシステムとそれを可能とする「思想」があれば、絶望に陥る人の数は随分減らせると思う。
私はもう66年も生きてこられた。それだけでも十分にありがたいと思っている。まだ、健康であればトルコへ行ってみたい。けれどだからといって健康に執着する気はない。好きなものを飲み食いし、好きなことをやって、それが健康に反するとしても、その罰は受ける覚悟である。覚悟などと言うと勇ましいけれど、罪には罰があって当然だと思うからだ。事故であろうと病気であろうと、生まれてきたものは必ず死ぬのだからありがたいことだ。
この地球上には、一方的にどんどん増えるものはない。人間は増え続けているけれど、その分何かが減っているのだろう。地球にある全てのものは、原子の組み合わせでできているのであれば、その量は変わらないはずだ。そう考えれば、人は死んで「塵に帰る」という聖書の記述は洞察に富んでいると思う。何かが増えれば何かが減るけれど、その総体は変わらない。古代の人々はもうそのように考えてきたのだろう。だから、そんなに死を恐れることはない。早いか遅いかの違いにオロオロすることはない。
「孤独死も死に方の1つ」と言う。みんなに見送られた方がいい人はそうなるようにと願えばいいが、別に誰にも知れずに亡くなったからといって不幸と決め付けることはない。死を考えることも大事なことかも知れないが、今をそして明日を充実した時間にすることの方が大事だと思う。あなたが愛した人々はあなたを大切に思うことだろうから。
会場へ行くと、知っている人がたくさんいる。高齢者が圧倒的に多いのだから当たり前で、そこで知らん顔をしているわけにはいかない。いやもう、議員でもないのだから、愛想が悪いと言われてもかまわないのだけれど、軽く挨拶してしまっている。そんな中にたまたま同じマンションの人がいた。順番を待つ間はこの人と話をしていようと隣に座る。「健康診断は2年に1回で充分だと思うのだけれど」と話すと、彼は「とんでもない。半年に1回は検査を受けるというのが基本ですよ」と教えてくれた。「ガン」はそれくらい進行が早いのだそうだ。
人はどうやって死ぬかと言えば、自殺以外なら事故か病気のどちらかしかない。自殺する人は1年間で3万人を毎年超えている。私は自殺するほどの勇気がない。私の知り合いの議員は自殺防止に自治体として取り組む運動をしている。地域社会での助け合いも必要だと思うけれど、社会から貧困を無くさないことには根本的な解決にはならないだろう。いつでもやり直すことが出来るシステムとそれを可能とする「思想」があれば、絶望に陥る人の数は随分減らせると思う。
私はもう66年も生きてこられた。それだけでも十分にありがたいと思っている。まだ、健康であればトルコへ行ってみたい。けれどだからといって健康に執着する気はない。好きなものを飲み食いし、好きなことをやって、それが健康に反するとしても、その罰は受ける覚悟である。覚悟などと言うと勇ましいけれど、罪には罰があって当然だと思うからだ。事故であろうと病気であろうと、生まれてきたものは必ず死ぬのだからありがたいことだ。
この地球上には、一方的にどんどん増えるものはない。人間は増え続けているけれど、その分何かが減っているのだろう。地球にある全てのものは、原子の組み合わせでできているのであれば、その量は変わらないはずだ。そう考えれば、人は死んで「塵に帰る」という聖書の記述は洞察に富んでいると思う。何かが増えれば何かが減るけれど、その総体は変わらない。古代の人々はもうそのように考えてきたのだろう。だから、そんなに死を恐れることはない。早いか遅いかの違いにオロオロすることはない。
「孤独死も死に方の1つ」と言う。みんなに見送られた方がいい人はそうなるようにと願えばいいが、別に誰にも知れずに亡くなったからといって不幸と決め付けることはない。死を考えることも大事なことかも知れないが、今をそして明日を充実した時間にすることの方が大事だと思う。あなたが愛した人々はあなたを大切に思うことだろうから。