友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は死んで、塵に帰る

2010年08月19日 19時02分13秒 | Weblog
 「ガン検診」を受けてきた。これまでの住民健康診断は、体重を量ったり、身長を測ったり、心電図を受けたり、血液検査で肝機能や腎機能を調べるというものであった。それがどういう理由なのか分からないけれど、自分で検査種目を希望するようになった。もちろん検査を受ければお金はかかる。値打ちにということだけれど、集団検診であることには変わりはない。そんなにまでして、健康である必要を私は求めていないのだが、カミさんが勝手に申し込んでくるので、いやいやながら検診を受ける。

 会場へ行くと、知っている人がたくさんいる。高齢者が圧倒的に多いのだから当たり前で、そこで知らん顔をしているわけにはいかない。いやもう、議員でもないのだから、愛想が悪いと言われてもかまわないのだけれど、軽く挨拶してしまっている。そんな中にたまたま同じマンションの人がいた。順番を待つ間はこの人と話をしていようと隣に座る。「健康診断は2年に1回で充分だと思うのだけれど」と話すと、彼は「とんでもない。半年に1回は検査を受けるというのが基本ですよ」と教えてくれた。「ガン」はそれくらい進行が早いのだそうだ。

 人はどうやって死ぬかと言えば、自殺以外なら事故か病気のどちらかしかない。自殺する人は1年間で3万人を毎年超えている。私は自殺するほどの勇気がない。私の知り合いの議員は自殺防止に自治体として取り組む運動をしている。地域社会での助け合いも必要だと思うけれど、社会から貧困を無くさないことには根本的な解決にはならないだろう。いつでもやり直すことが出来るシステムとそれを可能とする「思想」があれば、絶望に陥る人の数は随分減らせると思う。

 私はもう66年も生きてこられた。それだけでも十分にありがたいと思っている。まだ、健康であればトルコへ行ってみたい。けれどだからといって健康に執着する気はない。好きなものを飲み食いし、好きなことをやって、それが健康に反するとしても、その罰は受ける覚悟である。覚悟などと言うと勇ましいけれど、罪には罰があって当然だと思うからだ。事故であろうと病気であろうと、生まれてきたものは必ず死ぬのだからありがたいことだ。

 この地球上には、一方的にどんどん増えるものはない。人間は増え続けているけれど、その分何かが減っているのだろう。地球にある全てのものは、原子の組み合わせでできているのであれば、その量は変わらないはずだ。そう考えれば、人は死んで「塵に帰る」という聖書の記述は洞察に富んでいると思う。何かが増えれば何かが減るけれど、その総体は変わらない。古代の人々はもうそのように考えてきたのだろう。だから、そんなに死を恐れることはない。早いか遅いかの違いにオロオロすることはない。

 「孤独死も死に方の1つ」と言う。みんなに見送られた方がいい人はそうなるようにと願えばいいが、別に誰にも知れずに亡くなったからといって不幸と決め付けることはない。死を考えることも大事なことかも知れないが、今をそして明日を充実した時間にすることの方が大事だと思う。あなたが愛した人々はあなたを大切に思うことだろうから。
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政党議員は縦社会

2010年08月18日 22時21分25秒 | Weblog
 名古屋市の河村市長の支援団体が17日、市議会の解散請求書を市選挙管理委員会へ提出した。これで正式にリコール運動が始まった。議会を開かず、先決で行なう九州の鹿児島県阿久根市の市長に対して、リコール運動が始まっている。阿久根市は人口が少ないからリコールは成立するだろうけれど、名古屋市はリコール署名が集まりきれるかと心配されている。

 ちなみに私たちの「無党派・市民派 自治体議員と市民のネットワーク」は8月21日に、河村市長を招いて、地方議員の議員年金廃止にむけて集会を、名古屋駅前の愛知県産業労働センターで開催する。地方議員の議員年金に公金を投入して維持しようというのを断固として阻止したいからだ。河村市長は国会議員の議員年金について廃止の立場であったから、ぜひ話を聞こうというものであったけれど、リコールの話にずれていかないかと心配だ。

 名古屋市の市議会議員には高い報酬に加えて、毎月50万円もの政務調査費が支給されている。私の知っている市議会議員はこの政務調査費は多すぎると言い、「どのように使っているのか、疑問だ」とも話していた。市議会を「市会」と呼ぶように、地方議員でありながら国会並みの意識なのに、それにふさわしい政策論議がされているのかと疑問に思う。地方議会にあって、政党の役割とは何かと考えさせられるが、河村市長もよく言うように、どうして「党議拘束」しなくてはならないか私には理解できない。

 地方議会では、政党色を色濃く出してまで議論することは稀だ。旧自治省から鳥取知事になった片山義博さんが、自民や民主などの政党の要請や推薦を受けて知事選に立候補した時、選挙準備や公約作りなどで、政党の組織的な手伝いはなかったと話していた。政策が一番大事だと言いながら、実際は選挙に勝って自分たちに都合よく働いてくれればいいのだ。それは、知事選だけでなく、地方のあらゆる選挙が同じ構造だと思う。

 政党にとっては、どのような国を作っていくのかと同様にどのような地方を作っていくのか、そのビジョンを示してこそ有権者の支持が得られるはずだ。ところが現実は、どのような人のつながりを作っていくのか、に重点が置かれている。つまり、選挙で勝つことが最大の課題なのだ。だから、市町村の議員や県議会議員は自分の選挙のために、国会議員を利用しようとするし、国会議員もこうした地方議員は大切な集票マシーンである。もたれあいと同時にピラミッド型の縦社会が政党議員にはできていく。

 どれだけ自分のために働いてくれたか、つまりは票集めに役立ってくれたかが、政党議員の信頼関係の基準だ。思想や信条といったものとはかけ離れた、利害だけで結びついた政治家の集団が現在の日本の政党ではないだろうか。ここから、国会議員も地方議員も同等のひとりの政治家として議論し合える政党に脱皮できなければ、日本の政党政治は廃れていくだろう。これからどうなっていくのか、不安もあるが同時に楽しみでもある。
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友よまた飲もう

2010年08月17日 19時33分27秒 | Weblog
 今日は暑い。甲子園の高校野球もなぜか点の取り合いの試合が多い。これまで好投を続けてきた投手が乱打されている。8強が出揃うこの試合はいつもこんな風にハラハラドキドキの展開となるような気がする。おそらく、それまでの試合はちょいと画面を眺めるばかりで真剣に見ていないからだろう。「野球は筋書きのないドラマ」などと言うけれど、高校野球はまさにそのとおりだと思う。

 小学校の時に、無理やりに町内会の子どものソフトボールチームに入れられ、こういう夏の炎天下でノックを受けたりした。普通の子どもは強くなるためには練習は当然だと思っていたのに、私はどうしてこんなことしなくちゃーいけないのかとイヤだった。ソフトボールが面白くて仕方がないわけではなかったのに、ピッチャーやキャッチァーをさせられた。朝早くからの練習や日曜日の試合など、全く気が進まなかったのに、黙っていた。小学校を卒業して、子ども会がなくなりホッとした。

 体育の授業は好きだったけれど、運動系のクラブには所属する気はなかった。短距離走と懸垂は得意だったが、これを生かそうとも思わなかった。「楽して」高校生活を送るはずだったのに、新聞部に入って、新聞部のために3年間を通ったようにさえ思う。その母校から同窓会の通知が来た。新聞部の仲間の中に同窓会の役員をやってきた者がいて、必ず連絡が入るようになった。母校の記念行事がある時には、一般紙が広告を掲載させて欲しいといってきたり、寄付金を頼まれたりした。広告は出せないけれど、寄付金には応じた。自分にとって高校時代は青春そのものだったから、その恩返しは当然と思った。

 けれども、同窓会には一度も出席したことがない。どうして同窓会を行なうのか、私にはその意義が見つからない。クラス会なら顔見知りだけれど、同窓会となると300人の顔は覚えていない。高校は新聞部の集まりで充分だ。あるいは新聞部にかかわりのあった連中だけでいい。今年はその新聞部の集まりのある年だ。またワイワイと、政治の話でも社会の話でも哲学的な話でも、気ままにやればいい。自分の人生の出発点がここにあったなと思うことがままある。

 中学時代からの友だちが、中学時代からの男友だち5人で昔のように「飲もう!」ということになって飲んだ席で、ケンカになりそれっきりになってしまったとブログに書いていた。「原因は中学時代のことで言った言わないということであった」とあったけれど、そうではない。「お前たちはオレがガンだと言いふらして喜んでいる」と、彼は茶化して言ったのだろうけれど、私はたとえ笑いのために言ったとしても、そういうことは言うべきではないし、「言いふらして喜んでいる」とは何事かと腹が立った。友だちが病気になり、それを喜ぶような「友」がどこにいるか。その発言を謝らないなら、今後一切お前とは会わないと妙に私の頑固な面が出てしまったのだ。

 けれども、「そんなものに出て何になる」と言っていた彼が先回のクラス会に出席してくれた。だからもう何もこだわることはない。また、中学の仲間の5人で「飲もう」ということだと理解した。しかし、酒は飲まないという友だちもいる。その友だちが呼びかけてくれるのが一番スムーズだが、気付いてくれるだろうか。
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くちなしに青虫がいた

2010年08月16日 19時06分17秒 | Weblog
 まだまだ暑い日が続くようだ。鉢植えのくちなしに青虫が5匹いて、盛んに葉っぱを食べていた。その食欲は旺盛で、この写真は3日前だけれど、今では裸に近い。昨年まではアゲハチョウがやはり鉢植えのミカンの木に卵を産み付けていった。それが今年は1匹の幼虫もいなくて、ミカンの木は青々とたくさんの葉をつけている。アゲハチョウが来ないのをちょっと寂しいなと思っていたら、今年はくちなしの周りに黒いフンが落ちていたので、アゲハチョウの幼虫かと思って見たら青虫がいた。

 しかし、この幼虫は「ガ」ではないのか?たしか、何年か前にアサガオにこんな色の幼虫がいた。余りにきれいだったので「チョウ」の幼虫だろうと思い込んでいたが、写真を人に見せたところ「ガ」の幼虫と言われた。くちなしについた幼虫を見て、自分の気持ちが変わったことに気付いた。初めはきれいな幼虫だから「チョウ」の幼虫と思ったのに、それがアサガオにいた「ガ」の幼虫だとわかったら、途端に優しい気持ちがなくなった。すぐ思ったことは、1匹ずつ捕まえて駆除すべきだ、そうすればくちなしの木も傷まなくてすむことだった。

 でも、虫だって何かの役に立つために生まれたはずだから、たとえばヒヨドリがやってきて幼虫を食べるかもしれない。目立たないところにあったから鳥も見つけられなかったかもしれないので、それならば一番目立つ所に置いておこう。そう思って、一番高いところに置いたけれど、このところヒヨドリは全く現れない。幼虫はすっかり大きくなって、ますます葉を食べつくしている。「チョウ」の幼虫なら助けるのに、「ガ」の幼虫は殺してしまおうと思うのはなぜなのだろう。

 5匹いた幼虫も今朝見たら3匹になっている。2匹は鳥に食べられたのか、しかしそんな気配は全くなかった。いつも幼虫を見ていて不思議なのは、必ずどこかへ行ってしまうことだ。サナギになる場所は葉を食べる場所ではなく、もっと遠いところかもっと安全に羽化できるところなのだろう。そう思って探すのだけれど、見つからない。5匹が3匹になったのは問題だけれど、「チョウ」なら生かし、「ガ」なら駆除する私の気持ちはどこに判断の根拠があるのだろう。

 孫娘が小学校1年の時に、カミさんや娘とイギリスへ旅行した時の写真が出てきたので見せてあげた。すると自分の写真なのに、「小さい時はいいね。何していても可愛いもん」と言う。人は時々、思わぬくらいいいことを言う。小さい時は何をしていても可愛いとは味なことを言う。そういう意味では、高校1年のあなたはどんな仕草も女っぽくなってきているのだけれど、きっと本人はまだ何も気付いてはいないだろう。「ガ」は「チョウ」になることはないけれど、「ガ」も「チョウ」も同じ仲間だ。その容姿がちょっとばかり違うだけで受け取り方が随分違うのは可哀想な気がする。

 今日も紙一重の差の高校野球を見ていて、大げさだけれど、悲哀はどこにでもあると思った。青虫がせっせと葉を食べるように、とにかく生きる、それでいいと思った。
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怠け者社会が未来を開く

2010年08月15日 12時55分32秒 | Weblog
 こんなことがあるのだと見ていて思った。昨日の高校野球は昨年の覇者、中京大中京と早稲田実業の試合では、接戦が予想されていた。ところが中京は初回に一気に7点を先取され、5回には12点も取られた。こんなに大きな差がつくと誰が予想できたであろう。コールドゲームの制度はないから、どんなに点差が広がっても戦わなくてはならないが、しかし、どこにそんな気力が秘められているのだろうと感心するくらい、中京の選手は最後まで粘り強く戦った。さわやかな試合であった。

 今日は65回目の終戦記念日である。同じ敗戦国ドイツは、戦争の歴史をキチンと子どもたちに教え、議論も欠かさないと言われている。ユダヤ人というだけで600万の人間を殺してきてしまった罪は大きい。領土を拡大すれば、国民は歓喜してヒットラーを讃えた。それは日本も同じで、シンガポールを陥落し10万人のイギリス軍を捕虜とした時は戦勝に沸いた。武器弾薬もなければ食料もない最前線にいた兵士はどんな思いだったのだろう。輸送船が撃沈され、漂流物に捕まって6日間も何も食べずに漂っていた兵士は何を考えていたのだろう。

 戦地で直接相手の顔が見えるところで戦った人々はどんな思いで銃剣を握り締めていたのだろう。戦争で亡くなった人々の中には直接の戦闘ではなく、たとえば広島市民のような人も大勢いる。亡くなった一人ひとりにはそれまでに生きてきた人生があり、それから生きていくはずの人生があった。「国家のため」「家族のため」に戦うことは、こうした人生よりも意味があることなのだろうか。戦争はいずれの場合も殺し合いだ。どんな理由が付こうとも相手を抹殺することが目的だ。戦争はもう“おしまい”にしてもいいのではないかと思う。

 必死になるならスポーツのようなことの方がいい。必死で「国を守る」「家族を守る」のはロクな結果にはならない。人間は必死になるとロクなことがない。「そこそこでいいんだ」と思えば気楽ではないか。どこかのテレビ討論で、家族の絆が薄れていることが問題になっていた。「責任ある結婚」とか「絆の確立」とかが言われていた中で、若い評論家がシステムの問題だと指摘していた。人々が自由に生きられる社会が大切だけれど、そこから零れ落ちる人を社会がどう救うか、そのシステムがあれば育児放棄や高齢者の孤独死のような問題はなくなるというのである。

 個人の責任を主張する人と社会のシステムの確立を主張する人との対立であったけれど、私は後者を支持したい。「怠け者をつくる」ばかりだと社会的な保障を嫌う人がいる。保障がさらにたくさんの怠け者を生むことになるという危惧だ。怠けた方が得だという人はそうさせればいい。そこから生まれる社会をまたみんなで考えればいい。意外に「怠け者」社会の方が非戦社会で優れているかもしれない。競争を好まないそれは、新しい社会構造を生むのかもしれない。社会の大きな転換はこうして「怠け者」によって築かれていくのかもしれない。

 今日は郷里の墓参り。私の兄弟につながる人たちが集まり、夜は会食である。
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父は夢想家だった

2010年08月14日 19時09分07秒 | Weblog
 お盆は嫁に行った父の妹たちが子どもを連れて帰ってくる。祖母はそんな自分の娘や孫たちのために、おはぎを作ったり、娘のダンナたちのために料理を作ったりしていた。なぜか母はこれに加わらなかったし、ひょっとしたら父も妹たちのダンナと一緒に食事をしたり酒を飲んだりしていなかったかもしれない。私は従兄弟たちがやってくるのが楽しみだった。伯母たちが泊まっていくことはなかったが、従兄弟は私たちの住処の方に泊まることはあった。

 父は長男だったけれど、家業の材木屋を継がず、小説家になりたくて医者を目指していた。小説家になりたくて医者を目指すという発想がよくわからないけれど、森鴎外や斎藤茂吉のような例があるからだろうけれど、ここが父の「夢想家」らしいところだと最近わかるようになった。全く実現不可能なことも可能と勝手に考えてしまうおかしな人なのだ。

 姉の話では、学生で母と結婚した父は、母にお金を出してもらって医大を受けたそうだ。しかしまともに医大受験の勉強をしていたのだろうかと疑問に思ってしまう。母は教員になっていたようだけれど、父はまだ学生で代用教員だったそうだ。家庭を持ちながら、代用教員をしながら、医大の受験勉強をまともにやっていたとは思えない。結果は不合格で、父は教員の道を歩むことになったが、戦争で男性教員が少なくなったこともあって、若くして校長になっている。

 父がどんな校長だったのか私は知らないけれど、父が残した日記を読むと恋をしているなと思う箇所があった。家での父は静かに本ばかり読んでいる人だった。甘いものが好きで、母が亡くなって父と私と妹の3人で暮らしていた時は、よくお菓子を買ってきた。小さなスケッチブックに絵を描いていたけれど、雑誌や新聞のイラストを書き写したもので、なかなかのできばえだった。字は上手で、高校の時、卒業式で送辞を読むことになったが、私の原稿を巻紙に清書してくれた。

 母が亡くなってからの父は、父親というよりも友だちに近いくらいの存在だった。高校で私たちの作った新聞が発送禁止となったので、自分たちで新聞を発行しようと企てた時も何も言わなかった。キリスト教に曳かれて牧師になりたいと言った時も、映画監督になりたいと言った時も、何も言わなかった。父の書棚にたくさんの本が並べてあったけれど、「これを読んだらどうだ」と言うこともなかった。

 高校3年の正月だった。隣の部屋で父が咳き込んでいた。父は妹と一緒に寝ていたから、私はいやに咳き込むなとは思ったがそれ以上は気にしなかった。翌朝、父は異様な姿だった。すぐに兄に連絡し、医者に来てもらった。私が一番覚えているのは、父が醜い姿になっている自分のことをとても気にしていることだった。お漏らしをしていたことや声が出なくなっていることなどを恥ずかしく思っている様子だった。この場に及んでも体裁を気にする人で、不憫な気がした。それから1週間もしないうちに父はこの世を去った。54歳だった。

 父は母を愛していただろうし、すまなく思ってもいただろう。それをどう表現したらわかってもらえるのか、結局わからずじまいだったに違いない。父と母の情交を何度か聞いたことがある。父が母を泣かせていると思ったけれど、母は歓喜で泣いていたのだろう。父はそうすることで母への思いを伝えたかったのかもしれない。どこまでも勝手な「夢想家」の父だったから。
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母は高校野球が好きだった

2010年08月13日 21時07分46秒 | Weblog
 お盆休みなのか、街中が静かだ。今日は何もすることがなく、一日中高校野球を見ていた。接戦の試合は面白いけれど、一方的になってくると不作為な作戦に腹が立ってくる。本当は監督も選手たちも見ている私以上に焦っているのだろうけれど、同情心よりも苛立ちが先に立つのだから私の心も小さいなと思う。それで一日に4試合も見ていると、これまではそんなことがなかったせいか、何だかとても疲れてしまった。

 母は自宅で洋裁学校を開いていた。夏休みの頃は、縫い物をしながら高校野球をラジオで聞いていた。洋裁学校の生徒さんの中に他県生まれの人がいたのかもしれないが、おそらくまだ嫁入り前の若い女性がほとんどだったので、高校野球は人気があったのだろう。母は感情のハッキリした人だったので、いつも弱い方のチームに肩入れしていた。逆転でもしようものなら、大声で喜んでいた。

 私が中学3年の正月過ぎくらいから体調を崩し、高校に入学した頃には名古屋の日赤病院に入院した。正月前は毎年のことだったけれど、晴れ着を縫い上げるために徹夜をしていた。あまり無理したために疲れたのだろうと私は思っていた。この年の冬、私は母からハーフコートを仕立ててもらった。母は中学3年の私に「お前が面倒を見るんだよ」とか「お前が頼りなんだからね」とよく言った。

 私は3男だったけれど、いつか大きくなって働いて母を楽にしてあげたいと思うようになっていた。長男は祖父の養子になっていたので、母にとって実質的には私が長男だった。豪快に笑う母だったのに、この頃は愚痴っぽくなっていた。父が「わが道を行く」タイプの勝手な人だったので、母は私を自分の思い描く男にしたかったのだろう。「男はジェントルマンじゃなくちゃーダメだよ」とか「男は女を泣かせるものじゃーないよ」と言っていた。

 女性のためにドアを開けるとか、荷物は持つとか、私は母の言いつけを守ってきたけれど、今に思えば、母はそんなことだけを私つまり男に期待していたのではないと思うようになった。女を泣かせてはいけないという意味ももっとハバの広いものを指していた。それはまた、大人の男と女の問題で、難しいことだと分かるようになった。母は父の「夢物語」である「自由恋愛」に振り回されてきたからだ。

 夏休みはよく母の実家へ連れて行ってもらった。母の実家は農家だった。農作業や運搬のために牛を飼っていた。離れに母の母親であるおばあさんが住んでいた。おばあさんは私が行くと、ボンタンという果物を取ってきてくれた。けれど、昭和20年代の農家はビックリするほど不衛生で、ハエが食べ物の周りに飛び交い、食事もノドを通らなかった。

 それでも母と在所へ行くと、親戚や知り合いなのかよくわからない家にも連れて行ってもらい、あっちこっちで歓待されたことを覚えている。母は村の誇りのような出来る子だったようだ。それが、役者のような色白の年下の夫を連れてきた評判になったそうだ。確かに若い時の父は、島崎藤村のような風貌で、穏やかな文学青年はこの村では珍しい存在だったのだろう。
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台風は去ったけれど

2010年08月12日 21時47分15秒 | Weblog
 台風4号は秋田県に上陸し、岩手県を通って太平洋へ抜けると報道されている。この辺りはそれほどの雨風はなかったけれど、被害が出ている地域もある。暑さから逃れて、北海道へ出かけた友人もいるが雨に降られていることだろう。この頃は台風の発生件数が少なくなったのに、発生場所は北上している。台風の通るコースもこれまでとは変わってきている。信州へ出かけていた時も、雨は局地的な降り方だった。信州ではよく飲んだというよりもよく話したという方が正しいし、実際に大満足の2日間だった。

 人は話すことで人と自分との信頼を確認する。自分が受け入れられていることが確認できればそれはとても嬉しいし安心できる。幸せも不幸も人と人との中にある。だからこんな風に、ワイワイとお酒を飲みながら6時間近くも話が尽きない。では、どんな話だったのかというとその中身まではよく覚えていない。「楽しかった」。それだけでいいじゃないかとも思う。長老に「ちょっと飲みすぎじゃーないですか」と声をかけるが、「今は酒が飲める。じゃあ、明日も飲めるかと言えば絶対という保障はない。だから飲める時は飲む、これが一番」と言う。

 刹那的だというわけではなく、彼にしてみればもっと積極的に人生を生きるということの表れである。100歳を超える高齢者で、生存不明の人が何人もいることが判った。家族とのつながりがなくなってきていることの表れと言う人もいる。子育てを放棄してしまう母親もいる。母性は本能ではないことを教えてくれた事件だった。誰だって重い責任が自分ひとりにだけ押し付けられたならばネグレクトしたくなって当然だろう。明治時代に国家が強権体制を整えていく中で、夏目漱石は「個人主義」へと向かっていった。民主主義社会ではまず個人の確立が求められる。一人ひとりの自覚がなくては成り立たないからだ。

 個人として確立すべき人間は、しかしひとりでは生きられない。誰かを愛するか誰かに愛されるか、そういうつながりがなくては生きていけない。いや、ひとりでも生きている人はたくさんいると言う人もいるけれど、そういう人も人の中で愛したり愛されたりしているから生きている。愛する愛される形には男と女のような形もあるけれど、もっと普通に「おはよう」「こんにちは」と声を交わすだけの簡単な形もある。男と女の形は最も深いものだからそれだけ豊かだけれど、うまくいかなくなれば最も傷つけあう形になる。

 今日の朝日新聞に文芸部の女性記者が防衛大学校長にインタビューした記事が掲載されていた。彼女自身が告白していたが「何をどう聞けばいいのか」、わからないままであった。何がというと、「同盟」についてたずねているけれど、そもそも彼女には「国家」「同盟」「政治」という言葉について、認識がないままにインタビューしている。だから、何を引き出すのか、分からないままの記事になってしまっている。小国が生き延びるために「同盟」を結ぶと言うけれど、「国家」が生き残るとはどういうことなのか、なぜ、その辺りが記者には何もないことが気になった。
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家族で演奏

2010年08月09日 19時26分30秒 | Weblog
 安城の七夕祭りは盛大であった。人出は多く、あちこちでいろんな催し物が行なわれていた。会場が広いからだろうけれど、催し物の場も何ヶ所かに分かれて行なわれている。屋台もプロの店もあれば素人がやっていると思われる店もあってバラエティーに富んでいる。つい、私たちが夏祭りで出していた屋台の品物が、どのくらいの値段で売られているかと気になって、見て回ってしまった。手作り感もあって面白いなと見ていると、私をジッと見る人がいる。あれ?知り合い?そう思って、私も彼を見る。「鈴木さんですよね」と言われて、ああとこちらも気がつく。偶然ということはあるものだなあーと思った。もう10年以上会っていないし、そもそも彼の活動場所は一宮市である。

 どうしてそんな人が安城にと思ったけれど、一宮市と安城市は同じ「七夕祭り」の街である。彼はいろんなイベントを考え付き、それを実現していく能力に長けている。そんなことから、安城のイベント好きと知り合い、今日は見学とお手伝いに来ているという。ああ、それならば、長女のダンナもイベント好きで、安城でもいくつかの事業を行っている。ふたりを合わせてくれたのも何かの縁だと思って彼に長女のダンナを紹介する。このことは本当に大きな偶然であったけれど、その後もまた小さな偶然だった。もちろん、その晩一緒に食事をすることになっていたし、その前に七夕祭りを見学する予定だったのだろうけれど、これだけ大勢の人がいるなかで、ばったりと長女のダンナの姉たちに出会ったのだ。

 さて、この後はメイン会場である長女のダンナが経営しているライブハウスへと向かう。彼はこの貸し店舗を拠点に音楽活動を行なっている。2階は住まいで、結婚するまで彼はここで生活していた。私たちが到着する前に、もう彼の両親が来ていて準備は整っていた。店の前の駐車場にイスを並べ、七輪を出し、早速火を起こす。路上バーベキューの始まりである。彼のお父さんが育てた野菜や彼のお母さんが作った漬物が並ぶ。姉たちのつれあいもそれぞれに役割を果していく。ビールで乾杯し、焼肉をいただく。目の前には岡崎の花火が見える。彼が用意したそうめんや誰かが用意した五平餅や分厚いお好み焼をいただく。

 フィナーレはライブハウスでの『聖者の行進』と『ハッピーバーズデイ』の演奏と大合唱だ。そう、彼の家族は音楽一家なのだ。彼はドラム、お父さんはクラリネット、お姉さんは電子オルガン、下の姉のダンナはトロンボーン、これに私の長女がバイオリンで参加し、私たちもタンバリンが与えられた。家族で合奏ができるなんて、「理想の家族」である。もし、私に音楽的な才能があったなら、きっとこんな家族演奏を夢見たことだろう。家族が集い、時には笑い、時には激しく議論する、そんな時があってもいいじゃないか。お互いを認め合っているから、気さくに話もできる。そんな家族を作り上げた彼のお父さんとお母さんは素敵な人だと思った。ところで、明日と明後日はNPOおたすけの研修旅行で信州へ出かけるので、ブログは休みます。
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電車を乗り間違えた母親

2010年08月08日 21時01分59秒 | Weblog
 安城へ行くために金山でJRに乗り換えた。ホームはかなり混んでいて、安城や岡崎へ行く人たちなのか浴衣姿が目立った。豊橋行きの快速急行が到着し、人々は争うように列車に乗り込んでいった。丁度、私の隣にベビーカーに赤子を乗せ、まだ3歳にならないくらいの男の子を連れた若い女性が、ベビーカーごと乗り込もうとしていた。列車が出発しそうで、私は気になってしかたがない。この親子が乗り込めるように隙間を作って先に行かせ、ベビーカーに続いて親子と私とそれにもう一人乗り込む。すると待っていたようにドアは閉まった。

 ヤレヤレである。車内は混み合っていたけれど、ベビーカーが迷惑になるほどではなかった。「よかったね」という顔でベビーカーの赤子を見る。赤子ではあるがしっかりした顔つきをしている。隣の男の子が「混んでいて座れない」と文句を言い出した。「窓の外でも眺めていればいいよ」と思うけれど、口に出して言うことでもないかと思っていると、若いお母さんが「この列車は岐阜へ行きますよね」と私に声をかけてきた。私は非常に冷淡な声で「行きません。豊橋行きです」と素っ気なく答えた。

 あんなに急いで乗り込んでおきながら、行き先も確認せずに乗ってしまったことになぜか腹が立った。それでも次の瞬間には、何も自分が怒ることはないかと思い直して、「岐阜行きはホームの反対側でした。こちら側の方が混んでいましたからね」と付け加えた。「次の駅で乗り換えます」と言うから、「これは急行ですから、次の駅まで12・3分かかりますよ」と話す。男の子は「混んでいて、座れない」とまだぐずっている。若い母親は「ママね、電車間違えちゃった。ごめんね」と子どもに話しかける。男の子は「いいよ、気にしないで」と言う。「絵本、読もうか」と母親はベビーカーの袋から絵本を取り出す。

 この車中で絵本をどうやって読むのかと思ったが、男の子はベビーカーに寄りかかって眠ってしまっていた。すると母親は、今度は手提げの袋から赤子を自分の前で抱っこする物を取り出してセットし始める。狭い場所だからなかなかうまくできない。だからといって私が手を出すのも気が止めたので、孫娘に「手伝ってあげたら」と声をかけるが、母親は「大丈夫です」と言いながら、身体をひねって仕上げていく。それからベビーカーの赤子を抱っこし、眠ってしまった男の子をベビーカーに乗せる。大体準備ができたところで大府駅近くになった。

 「降りたホームで反対側に乗ればいいですか」と母親は言う。「金山はそうでしたが、大府がそういう駅かは分かりません」と答える。どうも冷たい言い方になってしまう。駅が近づく。残念ながら線路を跨がなくてはならない。「どうやらダメですね」と母親に言うが、もう彼女は降りることに精一杯だ。ホームには降りられたけれど、反対側のホームへ行くには橋を渡らなくてはならない。エレベーターがあればいいがと心配になる。カミさんは「いまどき、ああいうたくましいお母さんを見るとつい応援したくなるわね」と言う。

 いまどきというのは、大阪で起きた育児放棄事件のことだ。やはり周りの支援が必要なのだろうけれど、どこまで手を差し出してよいものか迷うところでもある。「おせっかいでもいいじゃないか」ではダメかなあー。
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