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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

個性的な人がいないと

2011年08月21日 22時11分49秒 | Weblog
 暑い日が続いていたけれど、昨日から雨が降りかなり涼しくなった。土は乾燥しきっていたから惠の雨というところだろう。私は水遣りをしなくてすむので大助かりだが、夏の疲れが出てきたかちょっと無気力状態になっている。今月もあと10日で終わる。早いものだと思う。盆過ぎには井戸掘りをしますと約束しているところが何件もある。忙しくなりそうだが、何よりもうまくいくだろうかという心配の方が先に立つ。まだまだ、これでいけるという器具と技術が確立されていないからだ。

 今朝、次女夫婦がいるならと長女夫婦が2歳になった孫娘と一緒にやって来た。昨夜、都合が付くようなら一緒に食事をと思っていたけれど、折り合いが付かなかったのだ。「カステラを持っていくから」と言うので、私はコーヒーを用意して待った。孫娘は7月で2歳になったばかりなのに、「ママちゃん、パパちゃん、おじゃまします」とお茶目なことを言う。おそらく父親の影響だろうけれど、2歳にしてアイパットを見事に使いこなすのにも驚かされる。今、流行の『まるまるもりもり』を映し出して踊って見せてくれる。

 孫娘の踊りは随分とヘンだけれど、そのためにかえって可愛いから不思議だ。長女も子どもの頃はよく自分で歌を作って踊っていた。小学校の何年生頃までやっていたのだろう。言うことも変わっていたから、義父は「この子は天才だ」と喜んでいた。歌や踊りに敏感に反応するのはきっと子どもだからだと思うけれど、孫娘は長女や音楽好きの父親の血を受け継いでいるのだろう。優れた才能がこのまま大きくなって欲しいと願うけれど、学校教育の中ではいつの間にか「普通の人」になっていく。

 学校教育は国民としての均質化というか、社会で生きていくための素地を作ることに重点を置いている。個性を伸ばすのはその上に立ってということになるから、その段階では均質化されてしまう。普遍的な社会人が大事なことはよく分るけれど、他人との違いが大きな人は苦しむことになる。まあ、これも人間社会の宿命のようなものかも知れない。普通の人が多くなければ社会はまとまりを失ってしまうだろう。それでも負けない個性の持ち主は、世に出て行くし、ちょっとばかり個性的な人は普通に近い人になっていく。

 民主党の党首選挙に何人もの人が名乗りを上げているが、魅力を感じる人がいない。反原発の人はもちろん脱原発の人もいない。この国をどのような国にしていくのだろう。政治は常に金儲けと結びついて来た。先の戦争でも軍部と企業は癒着して、利権に走った。政府の責任者の一人であった鈴木貞一は南方への進出、その植民地化について、「正義感を持ってやれば搾取ではない」と言っていた。こんな論理がまかり通っていくのが政治の世界なのだ。国民が均質化されればますます誰も異議を唱えないだろう。

 ちょっとばかり個性的な人がいないと歪んだ社会になりやすいのではないかと思う。
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男の幸せの身勝手さ

2011年08月20日 17時12分52秒 | Weblog
 「甲子園で高校野球の決勝戦を見ている」と次女からメールがあったと言う。次女夫婦は茨城県に住んでいるが、ダンナの実家の姫路に里帰りするとは聞いていたけれど、甲子園に行っているとは知らなかった。長女も次女も甲子園大会をよくテレビで見ていた。姉はPL学園の全盛の頃で、妹は帝京とか沖縄水産が活躍していた頃だと思う。確か『甲子園』という冊子を買ってきたような記憶がある。義弟の娘は甲子園ファンで、毎年のように通っている。先日会った時も「あの雰囲気はいいですよ」と言っていた。私の母親は洋裁教室を営んでいたが、夏のこの時期は必ずラジオから高校野球が流れていて、まるで球場にいるように喜んだり地団駄踏んだりと感情を露にしていた。高校野球は熱中させる魅力があるようだ。

 その次女夫婦が茨城に帰る途中、今晩は1泊するというのでカミさんは朝から張り切っている。ルーフバルコニーで涼みながら食事にする予定だったけれど、どうやら雨模様になってきた。甲子園の話や地震の話などきっと熱く語るに違いない。久しぶりにふたりだけの食事から変わるわけだから、カミさんも嬉しいのだ。ふたりだけでも我が家は比較的話をしながら食事をする方だと思うけれど、だんだん年を取ってきて「全く会話はない」という夫婦もある。ふたりだけだとせっかく楽しく話していても、どこかで感情のすれ違いとか価値観の相違とかが表れてしまうと終息が付きにくくなってしまう。人が多くいれば、こじれえる前に何となく話題を変わる助け舟が入るものだが、そうならなくなってしまうのだ。

 人によって、関心は違うし受け取り方も様々だ。吉田修一さんの『静かな爆弾』を中学からの友だちがブログで取り上げていた。私の『静かな爆弾』は何を指すのかわからないという疑問に彼は、「音も声もない静かな世界に住んでいる彼女は自分が生きる上で癒しの人であり、ひとたび、彼女の消失を考えたとき、主人公にとって彼女は〈静かな爆弾〉とも言える存在になっていく」と指摘してくれた。そうか彼女は爆弾か、危険かも知れないが手に入れたい物なのかも知れない。音信不通であった彼女からメールが入り、短いメールのやり取りがある。そして最後に「会いたい」とだけ打った。その気持ちはよくわかる。会えるならば、それまでのことはどうでもいいのだ。そうやって人生は過ぎていく。

 初めの方で、主人公が「ヤリにきたんだろう」と言った女に罵倒されるところがある。「世界の不幸を語りながら、あなただってこんないいアパートに住んで、おいしいもの食べてるんじゃない!自分だけ正義の味方みたいなふりをしないで!それにあなたがクソ面白くもない番組作ったからって、何が変わるっていうのよ!ねえ、何が変わったの!何が変わったか、あるんだったら、言いなさいよ!」。チクリとする部分だ。主人公は大きなスクープを狙っている。男は仕事の上で何かを実現することに幸せを求めている。この先どうなるのかわからない。彼女と暮らしていけるかも定かではない。それでも側にいて欲しい。愛とはそういうものだろう。

 同じ小説を読んでも関心を持ったところは違う。愛する人を求めて彷徨った昔を思い出す。
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20歳の時に何をしていたのか

2011年08月19日 21時45分14秒 | Weblog
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催されている『画家たちの二十歳の原点』は、明治から平成までの画家54人の20歳当時の作品を展示している。20歳という人生の節目に着目した発想の優れた企画展である。受付嬢に「優秀な学芸員がいるのですね」と話しかけたら、「ありがとうございます」とお礼を言った後、「この展覧会は今年の春から全国を巡回して行っています」と説明してくれた。見ると全国の7都市で開催していて、この後は足利市立美術館に移動する。小さな市立美術館では企画できない展覧会を連合で行うとはうまい考えだと思う。

 作品の隣りにはそれぞれの画家の言葉が掲げてあって、胸に詰るものがあった。「悩め、描け、生きろ」と展覧会には副題がついていたけれど、20歳前後の画家たちの言葉は狂気に似たものがある。「静物の林檎一つを描くにも その林檎に対する観念思想が現されなくてはならない」(青木繁)。「僕は何の役にも立たない。僕は今、ただ今幸福を求める。僕は天才でないかもしれない。それでいい。僕はやりたい事の総てをなそうと努める」(萬鐡五郎)。「欲望に囚われず、感傷に堕せず、神経に乱されず、人生を貫く宿命の中に、神の真意を洞察することが出来なくてはならぬ」(中村彝)。「芸術探求は即ち自己内面の絶えざる闘いであって、社会も時世もすべてどうでもいい外のことである」(三岸節子)。

 画家は絵描きだけれど物書きでもある。そんな文章が並んでいて、全部読んで行くには気が重くなる。夭折の画家も結構いる。村山槐多は22歳で亡くなっているが、絵も文章も凄まじいものがある。「自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。〈略〉たとえ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでしょう。最低の地獄にまで。さらば」と遺書を書いている。18歳で上京し、下宿先の「芸妓上がりの凄艶な美人で、酸いも甘いも知り尽くした、怜悧で落ち着いた芸術品」のような年上の女性に思いを寄せて破れている。

 関根正二は20歳で病死しているが、文章も凄い。「俺は精神的に殺された様に思われてならない。そして肉体が生きて居るのだから、苦痛に堪え得られない。気が狂う様だ。頭が離れて、いま最も手近に刃物があったら、俺は肉体を殺すだろう。恐ろしい事だ」。関根は16歳で放浪の旅に出ている。18歳の時には「俺はK子に心から恋して居るんだ。そして感情に走るのだ。そして胸がいっぱいになって、口が聞けないんだ」と「身の高い美しい女」への恋を吐露するが、その女性から「勉強していますか」と聞かれ、沈黙してしまう。恋に破れて旅に出て、新しい恋に出会う。さらにまた新しい女性を恋するのだが、画友の東郷征青児に奪われ神経を病んでしまう。

 20歳の時に、人はどう生きていたのかは興味深い。マルクスは4歳年上の貴族階級の女性に夢中になっていたが、父親が死んだために学者となる道に進む。レーニンは革命の道に進むことを決意していた。時代や置かれた状況によって、人は考えていることも違うし、抱く関心も違うけれど、変わらない資質のようなものがある。私自身はどんな20歳だったのだろう。
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人は清廉潔癖とは思えないが‥

2011年08月18日 21時24分06秒 | Weblog
 お盆を過ぎたというのに、まだまだ暑い日が続いている。暑いというだけで、何か思考ばかりか身体を動かすことまでも億劫になってしまう。東北へボランティアに行って来た人が、「復興はまだまだですね」と言う。復興支援が進まないのは民主党政権が力不足ということであり、自民や公明が非協力でいられるからだろう。菅直人という首相を民主党がこぞってバックアップできないのだから仕方ないとも言える。民主党の議員は自民党から流れて来た人が多すぎて、菅さんとは肌が合わないのだろう。どうしようもない民主党こそ分裂させて出直すべきだろう。

 福島原発の事故で、多くの人が強制的に避難させられたけれど、民主的な憲法下で、戦時でもないのに多くの人が私有財産を無くすことになった。職業の自由や住居の自由を憲法は認めているのに、住むことも出来ず、働くことも出来ない。どうしてそんなことが出来るのだろう。「危険だから」と言う。であるならばはっきりと「ここにはもう住むことが出来ない」と宣言すべきだろう。宣言した以上、国が補償しなければならない。放射能の被害は20年で無くなるのか、30年以上かかるのか、それさえもわかっていないのだ。

 福島原発の20キロ圏か30キロ圏か、ここはもう人の住めない場所であると宣言し、廃炉への実験地域になっていくのだろうか。地球最後の日は、こんな風にあちこちにある原発の放射能が次第に地球を覆っていった結果かも知れない。また、アメリカとロシアが保持している核爆弾が何かの拍子に爆発することだってあり得る。人間が想定している範囲なんて小さなものなのだ。思わぬことが引き金となって、想定外の事態に発展することもいくらでもあるだろう。人の叡智が想定外の事態を乗り越えることを私は期待しているが、このままでは無理な気がするのはなぜだろう。

 菅首相が退陣し、民主党の代表選挙が今月末には行われる見通しである。誰がなっても私には期待できない顔ぶれだけれど、無気味な政治状況から変わって欲しいと思う。松下政経塾出身者がいよいよ首相の座を射止める時代になったようだ。地方では議員や首長に松下政経塾の出身者が多くなって来たから、いつか国政の舵取りを握ることになるだろうとは思っていたが、その流れは意外に早い。松下政経塾がどのような理念や主義主張を持っているのか知らないけれど、私の知っている地方議員で好感の持てる人はいなかった。好き嫌いで判断してはいけないかも知れないが、感覚というのは大事だと思う。

 政治は「清濁合わせ飲む」ことが出来なければダメだと言われる。確かにそうかも知れないと思うけれど、私はそれが出来なかった。中国では官僚が賄賂を受け取るのが当たり前で、受け取らないような官僚は危険な奴と思われているらしい。それで今のような経済発展が実現できたというけれど、悪の中にも必要悪があるのだと人々は黙認するが、私は納得できない。人が清廉潔癖とは思わないけれど、だから悪いことをやってもいいとはならないだろう。いずれにしても私たちの次の世代がこれを切り開くことになると思う。
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子どもはみんな天才

2011年08月17日 19時25分28秒 | Weblog
 お墓参りの日、久しぶりに妹の下の娘が子どもふたりを連れて来た。義弟は「お姉さんと兄さん夫婦と私たち夫婦の5人だったのに、こんなにたくさんの人数になってよかったですね」と上機嫌だった。子どもたちが結婚し、そこに子どもが生まれれば血縁が増えるのは当然のことだと思うけれど、その血縁の者が一堂に集うことに義弟は感激しているのだ。私の子どもの頃は祖父の家である材木屋に盆と正月は、嫁にいった叔母さんたちが子どもを連れて来ていた。また、母親の在所に1年に2度くらいは連れられて行った。血縁は自然のことで、だからどうっていう思いが私にはなかった。父親の家である祖父の家に、父も母も集うことは無かったし、叔母さんたちのダンナも滅多に来なかった。

 祖父の家がみんな仲良く一致団結しているとは思えなかった。母親の在所は叔父さんが跡を継いでいたので、祖母に会いに行くかたちになっていた。母親の方の血縁が強いとも思えなかった。嫁に出れば、それぞれが家を構えており、縦横のつながりは薄れていくのも致し方のないことだろう。兄弟姉妹がつながりを保っていればそれだけでよいのかも知れない。従兄弟会をやろうかという話が、母親の家系の方で持ち上がったことがあったけれど、それだけに留まった。音頭取りが出来るような人がいないと無理なのだ。

 そのお墓参りの後は例年通り食事会である。妹の下の娘が連れて来た子どもたちはとても可愛かったし、自由奔放で面白かった。子どもたちに会うのは久しぶりで、上が女の子で小学4年、下が男の子で小学1年になっていた。そこ男の子が「ねえ、恐竜は知っている?」と聞いてきた。相手が知っているのならとばかりに次々と問題を出してきた。「一番大きな恐竜の名前は?」「恐竜の化石が一番よく出るところは?」「草食恐竜と肉食恐竜の知っている名前は?」。大学生もいたけれど、私もみんなが答えられない。

 そうか、恐竜はあまりわかっていないと思ったのか、次に「じゃあ、問題を変えるね。カブトムシのオスとメスの違いは?」「オオカブトムシとコカブトムシの違いは?」「カブトムシはどうやって生まれたか?」とまたまた問題が出される。どうして生まれたのかって、イモムシのような幼虫がさなぎになって、それが羽化してと答えると、「ブー!交尾によって生まれるの」と教えられる。これにはジイジである義弟もビックリしてしまった。姪っ子は「昆虫や恐竜の本ばかり読んでいるの」と弁解する。大学生たちも「交尾か!」と驚いていた。本人はいたって冷静で「オスとメスが交尾をしてね、卵が出来るの」と続ける。

 小学1年でも自分が知りたいと思うことはこんなにも覚えてしまうものなのか。私も小学生の時、父親からもらった百科事典が面白くて何度も見ていたけれど、この子のような非凡な才能は無かった。きっと恐竜と昆虫のことでは学校の先生に負けないだろう。しかし、こうしたユニークな才能の持ち主を先生たちは嫌うことが多い。天才を育て上げる先生に巡りあって欲しいと思う。子どもはみんな天才なのに、押さえ込んでしまうのは寂しいことだ。
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日本はなぜ無謀な戦争をしたのか

2011年08月16日 20時50分08秒 | Weblog
 こんなに暑い日だったけれど、井戸掘りに出かけた。家に戻ってシャワーを浴び、高校野球を見た後、大和塾のチラシを配って来た。高校野球はまだ続いていて、また逆転劇かと思われるような展開だったのでテレビを見続けていたのだが、どうしたわけか睡魔が襲ってきてどうにもならず、横になったら眠ってしまった。その直前、買い物から帰って来たカミさんは「ぼたもち好きでしょう。買ってきたから食べない?」と言うのに、「いらない。横になる」と言ったので、不満そうに「熱中症じゃあないの?」と言う。何も食べたくないくらい疲れたので、眠いのにと思いつつ言うことも出来ずに眠ってしまった。

 今日の井戸掘りの時、昨夜のNHKスペシャルが話題になった。内容は「日本はなぜ無謀な戦争をしたのか」というもので、政策を担当した指導者たちの証言を集めたものだった。国内での戦争であれば、相手の城主とかを切腹させればよかったけれど、国外へ出兵した時は目標も終結の方法もあやふやだったそうだ。秀吉が朝鮮出兵した時も、明治の日清戦争や日露戦争もどう終息するかを考えずに兵を出してしまったが、これが日本の伝統となったと言う。「勝つ方法は無かった」と東条英機の部下は語っている。にもかかわらず、どこでどう終息するかのないまま戦線は拡大していった。

 武器弾薬ばかりでなく兵士や食糧や医薬品などが補給できなければ軍隊は戦えない。戦闘で亡くなった兵士よりも餓死や病死で亡くなった兵士の方が多かったとは気の毒と言うよりも空恐ろしい。捕虜になるよりも自決されられたことも何のための戦争なのかと思う。兵士ではない多くの民間人が兵隊の防御のために道連れにされたり、逆に足手まといだからと自決を迫られる。戦争を体験した兵士たちが「戦争ほど理不尽なものはない。2度と戦争をしてはならない」と語るのは当然のことだろう。戦地に行かず、ああでもないこうでもないと論じている指導者はやはり死線を体験すべきかもしれない。

 福島原発の事故での政府の無能ぶりが酒の肴にされている。決断できる立場にある人に英断が求められるのは当然のことだ。それが出来なければ速やかに退陣すべきだろう。話は全く小さくなってしまうが、今朝から井戸掘りをして、玉石を手で1つ1つ取り除く作業を行なったが、まだ見通しが立たない。明日も続けるかどうか、代表者は決断しなくてはならない。自分の都合だけでなく、仲間の都合や体力や気力そして依頼主の気持ちなどを総合的に判断しなくてはならない。午後3時半、代表は「今日はここまでにしよう。どうだね、明日は朝からやりましょうか」と聞いてくれた。「やりましょう」と答えたが、明日が限界かも知れないと思う。

 明日の作業状態を見て、少し休んだ方がいいと提案すべきかも知れないし、今日は参加できなかった新しいメンバーが加わればまた活力も出てくるかも知れない。代表に全てを押し付けるのではなくて、みんながそれぞれに気配りが出来るのも大事なことだ。けれどもそれがなすり合いで無責任になってしまうと東条内閣や菅内閣になってしまう。
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基地なんか要らない。原発なんか要らない。

2011年08月15日 21時08分17秒 | Weblog
 今日は66回目の終戦記念日である。政府や各自治体は「戦没者追悼式」を行った。菅首相や各地の首長がどんな挨拶をしたのだろう。戦争の犠牲者を忘れてはならないことは当然だけれど、それと共になぜ戦争をしてしまったのか、戦争をしないためにはどうすることが必要なのかを考え、行動することが必要だろう。それと同時に、私は絶対に戦争に反対すると誓って欲しい。長崎市の原爆記念日で長崎市長が、被爆した私たちが放射能の恐怖を重く受け止めなくてはならないと言った趣旨のメッセージを述べていたけれど、なぜ原子力の利用を「平和」の冠を付けただけですんなりと認めてきたのかも重大な問題だと思う。

 友だちが話題にしていたので、NHKテレビドラマ『テンペスト』を見た。友だちは有能な同性の働く姿をドラマに見たかったのかも知れないが、龍が出てきて危機を救うなどちょっと非現実で面食らった。『テンペスト』はシェークスピアの戯曲に同名のものがあり、魔法が使われているから、そんなことをヒントに作られたドラマなのだろう。舞台は沖縄がまだ独立した王国であった時代で、中国の清と日本の薩摩藩との狭間でどう進むべきかを巡る王国政府である。初代琉球王朝の流れを汲むという主人公の仲間由紀江は優秀だが女性であるため、国の中枢へ入り込むことができない。そこで宦官と偽って役人になっていく。

 清の宦官から、また薩摩の役人から、「いったいどっちなのだ。清の味方なのか薩摩の味方なのか」と詰問されるが、主人公は「どちらでもない。私は琉球派だ」と言い切る。男にもなり女にもなって琉球の独立を保とうとする。小さな国が生き伸びていくのは大変な努力が要るのだろう。沖縄がそのまま日本に帰属せずに独立国であったなら、沖縄戦の悲劇はなかったのだろうか。戦後、日本はサンフランシスコ条約で独立したけれど、沖縄は米軍の統治下に置かれた。沖縄は日本から切り捨てられたのだが、革新系の人々も「本土復帰」とか「沖縄返還」を主張した。私はどうして沖縄独立を目指さなかったのかと思う。

 沖縄はアメリカ軍の重要な塞となった。基地は産業となり、雇用やサービス業を生み出した。1950年代後期に日本が「戦後は終わった」と工業生産に拍車をかけ、原子力の平和利用に乗り出した時、原子力発電所を受け入れた地域は都会から離れた寒村だった。原発は雇用や新たなサービス業を地域にもたらした。沖縄では基地があることで、日本の片田舎では原発を受け入れることで、豊かな生活を手に入れることができた。高校野球を見ていると、昔は東京や大阪や名古屋といった都会の高校が強かったが、今では都会と地方の差はほとんどなくなってきている。けれども、そうなってみると「豊かさ」とは何かと考えさせられる。

 基地なんか要らない。安全とは言えない原発も要らない。みんながそう思うのであれば、基地の要らない社会を、原発に頼らない社会を作ればいい。人間が作り出した社会だから、人間が変えられないはずはない。戦争になったらどうするのか、経済が落ち込んだらどうするのか、そんな心配を口にする人がいるけれど、私は逆に戦争の方がいいのですか、原発の方がいいのですかと言いたい。戦争や原発は無い方がよいと考えるなら、そのために何をするかだと思う。
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大逆点に興奮する

2011年08月13日 13時56分38秒 | Weblog
 お墓参りに出かけるまでに時間があったので、パソコンに向かう。お墓参りの後は恒例の親族の集まりで、食べて飲んでしゃべって過ごすことになる。姉と姪っ子の家族、妹夫婦とその娘や孫、甥っ子の家族などが集まる。このところ気になるのは下の甥っ子夫婦が参加できないことだ。日展の彫刻に出品して来たが、この不景気でつくりものの注文がなく苦しんでいるみたいだ。弟子のような従業員が何人かいたが、どうも一番弟子を除いて解雇してしまったようだ。彼のカミさんも生活を支えるためか、別のところで働いている。正月の集まりも盆の集まりも、仕事だからと不参加を連絡して来ている。

 この下の甥っ子を見ていると私によく似ているなと思う。顔付きもそうだけれど、話し方も似ていると思ったけれど、いや話し方や夢を追う姿は兄貴に似ている。始めてあった頃はワインにはまっていて、薀蓄を披露していたが、その話ぶりというか仕草は兄貴のようだった。得意なことを夢中で話すのは我が家の血なのかも知れない。血族に重きを置く思考は全くなけれど、血のつながった者が没落するよりは活躍してくれるのは嬉しい。年に2回の親族の集まりを続けてきたのも、血のつながりを確かめ合うというよりも、たまたまつながっていることの証だと思っている。

 今、滋賀県の八幡商業が強豪の帝京に逆転で勝った。9回まで八幡商業は、ヒットは2本しかなかった。3対0で帝京の勝ちは確実だと思っていたら、全く打てなかった投手から続けて3本ヒットが生まれた。いや、それでもここまでだろう、最後にちょっと花を持たせただけだろうと思った。ところが満塁で打ったショートへのゴロがエラーになって1点入り、なお満塁だ。ここでヒットなら同点だが、ホームランなら大逆転だ。しかしそんな夢のようなことは現実では起きないだろう。バッターのスイングを見ていたら、タイミングが合ってきていた。ひょっとしたらヒットが生まれるかもと思ったらホームランだった。

 帝京の監督が「これが高校生の野球なのだろう」と話していたが、人生には思わぬところで思わぬことが起きることがある。そうしたビックリするようなことは何度もあるわけではないだろうが、一生に一度くらいはあるだろう。チャンスなのかどん底なのかわからないが、それもまた人生と思う。野球をやって者でなければ、こんな大逆転の喜びはわからないかも知れない。野球を見ていた者でなければこの興奮は味わえない。暑いからと言っても、仕事の人もいるだろうし、寝たきりの人だっているだろう。いろんな人がいて、いろんな人生がある。

 外は灼熱地獄だ。なんだか出かけるのが嫌になりそう。
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世の中は必ず変わっていく

2011年08月12日 22時36分40秒 | Weblog
 菅首相がいよいよ今月末には辞任するという。しかし、考えてみれば菅さんは野党との信頼関係がうまくないと言うだけで、他に大きな失敗はない。脱原発を突如として言い出したけれど、国民の多くは脱原発を支持するという。にもかかわらず支持率は15から6パーセントに留まるのはどうしてなのだろう。私も菅さんに期待していたひとりだが、野党時代とは全く違ってしまって、首相になってからは何を言っているのかわからない発言が多い。「あ~」とか「う~」とかが多すぎて意味不明だ。自己保身とご都合主義が多すぎるのも気に入らない。政治家として、誠実さに欠けるのは致命的だと思う。

 イギリスの各地で暴動が起きている。民主主義の先進地と思われていたイギリスでなんとも野蛮な行為が繰り広げられていることに驚きを隠せない。ことの発端は、警察官が銃を保持していた黒人を撃ち殺したことにあるらしいが、就職先の無い多くの若者たちがその不満をぶつけたことにあるようだ。ヨーロッパでは安い労働力を手にいれるために積極的な移民政策が取られて来た。ところがその結果、自国民の若い人たちが就職先を失った。政権に対する若者たちの不満はますます大きくなっていたところに、今回の射殺事件が起きたから、まるで油田地帯の火事のように各地に広がっていった。

 日本では原発の公聴会に向けた原子力安全・保安院の、やらせ問題に始まった原子力行政に関わる責任者が処罰されたと誰もが思ったけれど、それは単なる人事異動に過ぎなかったようだ。結局、官僚たちは次なるポストに天下っていくシステムを堅持した。大臣が何と言おうと行政のシステムを変えさせないというのが立派な官僚のやることらしい。民主党政権になったにもかかわらず、こうした官僚の天下りシステムを無くすことは至難の技のようだ。けれども日本では何が起きても人々は諦め顔でじっと事態を見守っている。日本人は悪い奴がのさばるはずはない、必ずいつか亡びるだろうと信じている。

 盛者必衰と人々は信じている。抵抗して苛められたり殺されたりしたのでは割りに合わない。放っておいても必ず世の中は必ず変わるものだ。「待てば海路の日和かな」というし、「慌てる乞食はもらいが少ない」ともいうではないか、悪事が長く続く道理はないと思っている。そういう日和見主義というかご都合主義といったものが、若い時なら許せなかった。自己保身のために逃げているとしか思えなかった。今、死が目の前に迫る歳になると、いつか世の中は必ず変わると思えるのだから不思議だ。だから、何もする必要はないなどと馬鹿なことを言うつもりはない。

 世の中は必ず変わるけれど、どう変えたいかは若者たちの考え方にある。ただ、暴力的に変えようとしても非暴力で変えていっても、結果は同じだ。もうこれからは暴力ではなく、智恵で新しい時代を作るべきだろう。暴力は死を招くことはあっても、人々がお互いを信じ愛し合っていく道にはならない。
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未練が残っているのか

2011年08月11日 22時22分42秒 | Weblog
 常滑へ植木鉢を買いに出かけた。しかし、産地の割には高い。ホームセンターで買った方が安かったかも知れない。それに植木鉢は数も少なくて、作家ものと呼ばれる作品を扱っている店の方が目立った。店のおカミさんに「植木鉢は少ないですね」と話しかけると、「植木鉢を作る業者がいなくなっているのよ」と教えてくれた。「ホームセンターに行けば安いイタリア産の植木鉢がたくさんあるけれど、常滑のような高台が付いていないから水はけが悪くてダメですね」と言うと、「そう言われてみると、確かに外国産のものには高台がないわね」と納得してくれた。数少なくなった植木鉢だから多少は値引きしてくれるかと期待したが定価通りだった。そこが私の見栄っ張りなところで、高いなと思いながら4鉢も買ってしまった。

 せっかく常滑まで来たのだからと、碧南市と刈谷市の美術館を見て回った。碧南市の藤井達吉現代美術館へは始めて出かけた。街の中心地にあるが規模はそれほど大きくないけれど、やっている展覧会に興味があった。個人名が付いているけれど、碧南市が建設し運営していると受付嬢は説明してくれた。場所は商工会議所の跡地だそうだ。だから繁華街にあるのかと納得したが、それにしても碧南市はもともと漁港でそんな文化的な町ではないと思っていた。けれどそんな風に思い込むのは失礼だった。私は小学校3年か4年の頃、子ども用自転車に乗って刈谷からここ大浜までひとりで来たことがある。舗装されていなくて砂埃が舞い、でこぼこ道で大変だったことだけを覚えている。

 磯の香りと魚の臭いが町中に染み付いていたことを記憶している。そんな街に美術館ができ、『画家たちの二十歳の原点』と題する企画展が開催されていた。一時ブームにもなった高野悦子さんの『二十歳の原点』から名付けものらしい。『二十歳の原点』は高野さんが20歳の誕生日から半年後に自ら命を絶つまでの日々を綴った日記で、70年の学園紛争の時代に自己の確立と現実社会の狭間での格闘の記録である。画家たちがどんな絵を描いてきたのかは、同じ道を歩いたことのある私にもよくわかる。いい絵を描きたい、でもそれで生きていけるのかと心配になる。そんな矛盾を抱えながら絵描きたちは生きてきた。いや、中には死んでいった者もいる。

 展示された絵画よりもその隣りに掲示された画家の言葉が胸に引っかかってくる。絵描きは誰もが孤独で狂気に満ちている。誰かが手を差し出さなければ自らを傷つけてしまうだろう。そうした切羽詰った狂いそうな気持ちが絵を描く原動力となったのだろう。絵描きたちはある意味では純粋だけれど、それは極めて自己本位な自己中心主義とも言える。私は画家にならなくてよかったと思う。いや、ならなくてと言うよりも、なれなくてと言う方が正確だとしても、こんな風に自分の命を短くしてまでも絵画に打ち込んだ先輩たちが羨ましく思える。私にもまだ、絵を描きたいという未練が残っているのだろうか。
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