友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

金環日食

2012年05月21日 21時50分29秒 | Weblog

 今朝、高3の孫娘が貸してくれたメガネで金環日食を見た。テレビは午前6時前から、金環日食の様子を随時報道していた。見ていて、そんなに大げさに取り上げるべき内容なのかとちょっとヘソが曲がった。カミさんは以前から金環日食に関心が強く、わざわざ地上に降りて見に行ったけれど、私はとてもそんな気になれず、「テレビの方がはるかにキレイじゃーないの」と嫌味を言う程度だった。マンションからは見えないため、地上に降りて建物の間から眺めている何人かの善良な金環日食ファンがいるのが部屋から見えた。

 この地方での金環日食は何百年ぶりとかテレビの記者が話していた。しかし、再びこの地方で金環日食が見られるのは29年後だと言う。それなら孫娘たちは、再び金環日食を見ることが出来るだろう。滅多に見られない現象だから、大騒ぎになるのは仕方ないけれど、太陽が月によって遮られるだけの、単に稀に起きる偶然に過ぎない。そのために、宇宙に大きな変化が生まれてしまうというようなことであれば、それは大問題で、関心を持って現象を見つめる必要もあるだろう。太陽の活動が停滞期に入っているらしいが、金環日食とは関係ないことだろう。

 稀に生まれた現象であるけれど、小学生の時にも日食はあった。ガラスをろうそくの炎に当てて煤で黒くして太陽を見たけれど、それでは金環日食剥離になるとテレビは言っていた。何年かぶりと言えば、昨日は小学校6年のクラス会だった。幹事が卒業記念文集の復刻版を作ってくれた。いや、そればかりか当時を偲ぶことが出来る写真や、担任が作ったというジオラマをカメラで撮影して大型スクリーンで見せてくれた。ここが理科室だたとか、小使いさんがいた部屋だとか、ここに池があったとか、この坂は急だったとか、いろんなことが思い出されて話は大いに盛り上がった。

 私が小学校に在学中に創立80周年だったという記憶も間違っていなかった。創立90周年を昭和38年に迎えているのだから、昭和28年だったことになる。私たちの卒業が昭和32年だから小学3年生の年ということになる。私たちが6年の時の校舎は市の歴史民俗資料館として残っている。子どもの頃はもっと緑が多い学校だったように思うけれど、最新の写真で見るとなぜかちょっと寂しい気がする。写生大会が行われていた城跡の公園に昔の城を再建する案もあると聞いた。市長とは小学校で同学年だったけれど、城の再建などよりも桜を増やして公園の拡張と整備を優先して欲しいと思った。

 江戸時代には城の下まで、船が着くようになっていたそうだが、今は埋め立てが進んでいるので、城を中心に公園を広げてもいいのではないだろうか。私は故郷を離れてしまったけれど、クラス会に出席した男子の多くは生まれ故郷で生活しているし、その子どもや孫も私たちと同じ小学校へ通っている。私が暮らしていたところもすっかり変わってしまったし、街全体が大きく様変わりしているけれど、故郷というものはなんとなく懐かしいものだと歩いてそう思った。

 長女から送られてきた写真を載せておきます。長女のダンナが苦労して撮ったものです。

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分かっても分からなくても

2012年05月19日 21時42分05秒 | Weblog

 あの時、ああすればよかった、こうすればよかったと悔やむことは人生に付きものだ。しかし、終わってしまったことをあれこれと考えてみても仕方がない。悔やむ心からは、過去に学び将来に生かす教訓など、生まれるはずはない。宮本武蔵ではないが、「われ事において後悔せず」とする方がスッキリしている。

 私は、人はいつも選択していると思っている。よく考えて決めることもあるし、たまたまそうなってしまったこともある。それでも人は何らかの選択をしている。その選択が間違いだったと感じたなら、修正もしているはずだ。それに修正が効かないようなら、生きていることは地獄のようなものだろう。

 けれども、人はいつも地獄にいるわけではない。最低なところにいると思う時もあれば、最高と感じる時もある。決していつも同じところに留まっていない。井戸掘り仲間の友だちが水戸黄門の主題歌にあるように、「いい時もあれば悪い時もある。悪い時ばかりも続かないし、いい時ばかりも続かない」と口癖のように言うが、真理だと思う。

 うまく水脈に当たる時もあれば、全く掘れない時もあるし、順調に掘れていたのに固い石や岩盤のような層に当たってしまう時もある。ああすれば、こうすれば、いろいろやってみるけれどやってみること自体がさらに事態を悪くすることもある。自分ひとりなら過去から学び次の行動の指針を立てることは難しくても、大勢の仲間で作業している時は冷静な人もいて、意外に方向が決まることもある。逆に船頭が多すぎて、どうにもならなくなることもある。

 しかし、こんなものだよ人生はと思えば気持ちは楽になる。今日の新聞で投書に目がいった。アメリカがマーシャル諸島で核実験を行った際に、日本の第5福竜丸は死の灰を浴びたし、島の人々は放射能汚染のために故郷を追われた。島の人々に賠償金が支払われ、「楽」な暮らしが実現したかに見える。しかし、島の人々の自殺率は高い。人は「楽」だけでは幸せになれない。役割を果たすことがないことは辛いことなのだ。

 同じ新聞で、高校の生徒会長になった女の子が「何事にもチャレンジすることの大切さを学びました」と言っていた。彼女は善良で優秀な生徒なのだろう。私は「高校生の、高校生による、高校生のための学校」を目指して生徒会長になったが、何一つ変えることは出来なかった。学校は先生のためにあり、生徒はよりよい大学に行くために学校へ通っていた。何も変わらないのが世の中で、しかし実は世の中は何かによって変わっている。それが一体何なのか、高校を卒業して50年になるのに、未だに分からない。

 分かっても分からなくても、なるようになるさ人生は。それが今の私が知りえたことである。自分の現在は選択してきた結果なのだ。明日は小学校のクラス会のためにブログは休みます。

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小学校の思い出

2012年05月18日 19時39分16秒 | Weblog

 神社での井戸掘りは、20メートルまでいった。18メートル辺りから再び茶色い砂になった。鉄分を多く含んでいるので、散水すれば敷石が赤くなってしまう。これで完成と思っていたのに、また受難がやって来た。このままでは何ともならないので、もう5メートル掘り下げることにした。それでいい水が出るのかと言われれば、確信はない。やらないよりはやった方がいいと思うだけだ。けれども掘り下げる鉄管は20メートル分しかなく、鉄工所で作ってもらうためには一日要るというので、今日は井戸掘りを休んだ。

 明日は半田で井戸掘りの続きを行う。こちらは粘土層で苦戦している。塩ビ管で掘れないなら鉄管でやってみようと言うけれど、果たしてうまくいくだろうか。スコップでもう少し掘る以外には手がないような気もする。連日の作業でみんな疲れている。怪我をしないように、手順を整えて頑張らなくてはならない。日曜日は小学校のクラス会だ。卒業記念作文集の復刻版を出席者全員にプレゼントすると案内文にあったけれど、どんなことが書かれているのか楽しみだ。それに6年の時の担任が製作した懐かしい小学校のジオラマを大型スクリーンで見せてくれるとあった。味なことをやってくれる幹事に感謝である。

 私が卒業した小学校は明治時代に出来た。在学中に創立80周年(?)の行事があったように思う。正門から入ると左手にソテツの築山があり、二宮尊徳の石像があった。その奥の方は立派な庭園になっていて、子どもたちの立ち入りは禁止だったのか、遊んだ記憶がない。この庭園には小さいけれど頑丈なコンクリートの奉安殿が残っていた。確か、ここに天皇の写真が祭ってあったと聞いたように思うが、私の目には単なるコンクリートの小さな祠に過ぎなかった。校舎は木造モルタル塗りで堂々と風格があったが、これは職員室や校長室のある建物で、この他に6棟あったと思う。運動場も2箇所に分かれていた。子どもの頃は広いと思っていたけれど、大人になって行って見ると、こんなにも狭かったのかとビックリした。

 児童が増えるばかりだったので、校舎の増築が続いたのかも知れない。何時からトヨタの城下町になったのか知らないが、トヨタで働く人の子どもが増えた。社宅も出来て、遊びに行ったこともある。私の記憶では、トヨタの子は優秀で何でもよく知っていた。成績の上位はほとんどトヨタの子で占められていたのではないかと思う。高校の時に映画『ウエストサイド物語』を見て、昔からいる地元の子どもとトヨタの子どもとの抗争と、そのなかで生まれるラブロマンスを書いた。しかし、映画の物まねで恥ずかしくなって発表しなかったが、あの時のノートはどこにあるのだろう。

 小学2年生の時に、住まいが変わったために越境通学となった。通学も帰宅もひとりだったから、帰りは自由気ままに町中を歩いて帰った。夕方に三味線を弾く家があった。まだその頃は芸者さんがいて、その家の傍を通るととてもいい匂いがした。どうかすると、色の白い女性に出会うこともあったが、その人の子どもなのか、学年が3つ下のやはり色白の女の子に出会うこともあった。その道を通らない時は、大回りして3軒の書店を見て回った。どこを歩いても、何を見ても、興味津々だった。

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文学座の『長崎ぶらぶら節』を観る

2012年05月17日 23時29分51秒 | Weblog

 今月の名演は、なかにし礼原作の文学座『長崎ぶらぶら節』だった。休憩時間を含めると2時間45分になる大作である。それにしても俳優は何でも出来ないといけない。主人公の芸者・愛八を演じる平淑恵さんはじめ芸者役の皆さんは、本物の芸者だった。毎日、三味線や民謡そして踊りに相当な時間を注いで来たことだろう。見事なものだと感心してしまい、舞台の転換や照明、演出の工夫など、かなり思い切ったところがあったのに、余り覚えていない。セリフも聞いた時は心惹かれたのに、忘れてしまった。

 『長崎ぶらぶら節』は、舞台では歌手の石川さゆりさんが上演していて、その回数は200回を超えるという。テレビでは市原悦子さんが、映画では吉永小百合さんが、愛八を演じた。その時は見たいとは思わなかったけれど、舞台を見て、吉永小百合さんの映画を見てみたいと思った。舞台では、席が遠すぎて顔の表情までは分からないし、なかにし礼の原作を読んでいないが故に、文学座の描き方と映画とを比較してみたい気がした。後半で妹芸者の梅次が「私にもお金を出させて」という場面では泣けた。

 舞台は2つに大きく分かれていた。前半は愛八が古賀と一緒に埋もれている歌を探していくことが中心になっている。古い歌を記録しておきたいと言う古賀の学問への情熱に惹かれて、それを手伝ううちに、愛八は古賀に恋心を抱くようになる。それを古賀は分かるけれど、「木石ではないけれど、男と女の関係になってしまえば、魂が汚れてしまう」と、愛八を女としては受け入れず、「添い寝をしてあげるからおいで」と招き入れ、抱きしめて眠る。好きなのに意地を通す古賀の愛は、私の中学からの友だちと同じだ。彼は最後まで、「友だち以上、恋人未満」の関係を維持した。純粋に愛に生きる男がいると感心した。

 後半では、芸と粋に生きる愛八が、自分と同じような境遇のお雪を、必死で助けようと努力をする。それを知って芸者仲間が助力を申し出るけれど、あくまでも自分の力で助けることにこだわりつづける。そのかたくなさに腹が立つほどだが、同時に涙が止まらない。「長崎ぶらぶら節」がレコーディングされることになり、愛八はやっとお金が手に入るけれど、それをお雪の治療費に当ててしまう。飲まず食わずの生活で、お雪の治療費を工面するが、愛八自身は次第に衰弱し、この世を去っていく。

 セリフから推察すると、愛八はそんなに美人ではない。気風のよさと必死に習得した芸で売れっ子になっていく。弱い相撲取りを応援することも、古賀のようにお金のためではなく学問のために情熱を燃やす人を支えることも、お雪のような身寄りのない子を助けることも、愛八の生き方の現われなのだ。そうすることが彼女の生き甲斐であり、人生の意味なのだ。人のために尽くす、そういう人は確かにいるし、それは大きな光ではないけれど、そのために助けられる人も確かにいる。

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逃げている大学生に教えてあげたい

2012年05月16日 21時41分58秒 | Weblog

 久し振りによく働いた。今日は半田で井戸掘りだった。依頼主はちょっと変わった人で、森の中に白いドーム型の建物を造り、その周囲には樹木の間にブランコやハンモックがあり、テーブルとイスが置かれた不思議な空間がある。おとぎの国のようであるが、心安い大人たちのたまり場のようである。小さな池が点在し、見ると池全体をハスの葉が占めている。近くの小学生がザリガニ釣りにやってくると言う。

 白いドーム型の建物から何やら歌声が聞こえてくる。歌の好きな人たちが集まってカラオケに興じているようだ。森の中だけに、どんなに歌っても誰からも文句は来ないだろう。大人たちの隠れ場所と言うべきなのかも知れない。ここは人家から遠いので水道がない。みんなが集まって遊ぶにしても水がないのはちょっと困る。それで井戸が欲しいと言うことらしい。

 この場所からそんなに遠くないところで井戸を掘った経験から、「表面の土を2メートルほど、ユンボで掘ってくださるとやりやすいのですが」と頼んでおいた。確かに今日、出かけてみると2×3メートル深さ2メートルの穴が掘られていた。周囲から水が染み出してきて、深さ1メートルほどの池になっている。もう少し掘って、水量を多くしたい。それが可能だろうか、とにかくやってみることにした。地表から4メートルほどだから、穴の底から2メートルほど掘った。掘り出した土が泥水となって沈殿し、水中ポンプで汲み出してもすぐに詰まってしまって動かなくなる。

 今日はここまでにして土曜日に再度挑戦することにする。井戸には電動ポンプを取り付け、近くの畑に水をやるのかと思ったが、依頼主は「電動ポンプもいいが、手押しポンプも置きたい」と言われる。その理由を聞いてビックリした。電力に依存する生活はそのうち出来なくなる。だから昔のように井戸に頼る生活を強いられるだろう。少なくとも、電力に頼らない生活に向けて準備することが大切だ、と言うのだ。そうか、この不思議な森の空間もそのための準備なのかと、依頼主がやろうとしていることが分かった気がした。

 どういうことなのか詳細は分からないけれど、NHKテレビが夜9時からのニュース番組で、大学生が投資ファンドをつくり20億円を集めて雲隠れしてしまったと報じていた。私のところにも時々、投資の話で電話がかかってくる。「儲け話には興味がありませんから」と断っているが、中には「それはウソでしょう。銀行に口座を持っているでしょう。何のためですか?」と議論を吹っかけてくる人もいる。こうなると議論好きな私は「儲けるというのはどういう意味なの?それは人生にとってどれほどの意味があるの?」と聞いてみる。実際、人がどのように考えているのか、知りたいと思うからだ。

 20億円を持って雲隠れして、何時捕まるのか、誰かに殺されないか、一緒に逃げている女は裏切らないか、そんなことばかり考えていて、何が幸せなのだろう。これからは物の豊かさではないだろう。今日の依頼主の言うように、自給自足の質素な生活を強いられるだろう。そのための生活づくりをしていこう。そういう人がいるのに、大学生のように、金に執着し、そのために闇の中で生きていかなくてはならない。何もなくても、豊かな緑があり、人の温かさがある、自分で畑を耕し、疲れたらハンモックで昼寝をする、そういう人生もあることを逃げている大学生に教えてあげたい。

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恒久平和をめざして

2012年05月15日 18時57分10秒 | Weblog

 神社で井戸掘りをしていた時、軍服姿に似せた男の人が参拝に来ていた。私たちの仲間のひとりを捕まえて話しているのが聞こえた。「5・15には行くのかと警察が聞くので、私が何をしようといらんことだと言ってやった」と言う。そうか、この人は右翼で、警察にマークされているのかと思った。警察は左翼と右翼を警戒の対象としているから必ず見張っているが、この人のように声をかけたというのであれば大物ではないのだろう。今日は雨降りになってしまったが、あの男は出かけたのだろうか。

 5・15とは、1932年に起きた海軍将校によるクーデターのことだ。昭和維新の第2弾として決行されたもので、犬養毅首相が「話せばわかる」と言うのに、将校は銃弾を放った。私が聞いた話では、首相官邸を襲った将校はいきなり銃口を犬養首相に向けたが、安全装置がはずしてなかったので弾は出なかった。犬養首相は動じることなく、将校らを応接間に招き、日本の現状を語ったという。後からやって来たグループが犬養首相に発砲し、慌てて「問答無用」と発砲したというものだった。

 犬養首相の方がはるかに肝が据わっている。この日の計画では、農民決死隊が発電所を襲撃して東京を暗黒に落とし込むはずであったが、決死隊は停電させるには至らなかった。この年から4年後、今度は陸軍の青年将校が「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデターを決行し、軍閥による政治を目指した。それから9年後の1945年8月15日、日本は終戦を迎える。居酒屋で40代の男が酒を飲みながら話していた。「俺たちの爺さんの世代は、親戚や家族を守るために戦った。俺は嫌だね。親戚や家族のために命を捧げることは出来ないね」「お前なあ、それって非国民なんだぞ」。居酒屋でそんな会話が出来ることは幸せだ。

 終戦から27年も経た1972年5月15日、アメリカは沖縄の施政権を日本に返還した。しかし今も広大な土地がアメリカ軍基地としてある。私は議員だった時に、議会の視察で沖縄に行ったことがあるが、ここで多くの人が死んだことを思うと気持ちが重かった。姫ゆりの塔の前で、共産党の議員がふざけて、「この献花はきっと使いまわしている」と言った時は腹が煮えた。沖縄の人々にとって本土復帰は何だったのだろう。本土の私たちは、沖縄の人々の苦しみを知らないし理解できないのだろう。

 昨年末に八重山諸島へ誕生日会の友だちで出かけた。沖縄も八重山諸島も日本とは違う文化が息づいている。日本でもない、中国でもない、どちらか言えば台湾と同じような文化だ。沖縄が日本から独立した国であったなら、こんなにひどい目に遭うこともなかったかも知れないと思う。沖縄は独立した島国となり、中央アメリカのコスタリカのように憲法で軍隊を廃止して、したがって当然にも外国の軍隊の駐留を許さない恒久平和の国を目指すのはどうだろう。それを応援するのは私たちの努めだろう。

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先輩は元気がない

2012年05月14日 21時15分23秒 | Weblog

 先輩は元気がない。「どうしました?」と聞くと、こんな話をしてくれた。カミさんと歩いていた時、とてもキレイに咲いたツツジを見つけた。彼は、「母さん、そういえばうちのツツジはまだ咲かないね。どうしたのかねぇー?」と聞いた。カミさんは「あなたが滅茶苦茶に剪定したからですよ」と答えた。その場はそれで終わったけれど、家に帰って日記を見ていると、何日か前に自分の家のツツジが咲いて、咲き終わった花が茶色くなってみっともないと書いてある。

 どうやら彼のカミさんは、彼が忘れていることを知って、心配かけないようにと思って話を合わせたようだ。先輩は、町内で集めた自治会費を役員さんのところへ持って行く日を間違ってメモしていたり、せっかく買った音楽会の入場券だったのに、すっかり忘れて行けなかったり、人の名前や地名が出てこなかったり、そんなことが近頃続くそうだ。

 それで心配になって、脳外科でMR検査をしてもらったところ、「残念ながら何もありません。キレイな脳です」と診断された。しかし、実際の生活では物忘れが多い。「アルツハイマーと言うことはありませんか?」と念を押して聞いてみたが、「その心配はないと思います」と言われたそうだ。確かに近頃の先輩は、以前の先輩とはちょっと様子が違う。急に老け込んだようで、元気がない。原因は分からないけれど、難聴になってしまったことも大きい。

 音が聞き取りにくいからか、相手の言うことを無理に聞こうとするからか、しかめっ面をしていることがある。しゃべり出すとなかなか止まらないのは昔からの癖で、自分のことに引き寄せて話すことも変わらない。もう少し、相手の言うことを聞いてあげればいいのにと思うことは何度もあった。そうした点ではそれほど大きく変わったわけではないと思うけれど、難聴になってからはこの傾向は強くなった。

 けれども決して悪い人ではないし、むしろ頭のよい、いい人の類だ。自分の給料明細をカミさんはもちろん子どもにまで見せてきたそうだ。決して怒りをぶちまけたりするタイプではない。穏やかで、知識の豊富な、誠に紳士的な人だ。一度も他所の女性に恋心を抱いたことはないと断言する潔癖な人でもある。極めて理想家で、「町中に市営バスを走らせたらいい」とか、「大和塾で、将来に希望を持たない大学生に講演してもらえば、もっと若者のことが分かる」とか言う。その通りだけれど、現実を見ていない。

 私がペースメーカーの植え込み手術を受けたことを先輩はとても心配してくれて、「原因は何だったの?」と言う。私は「老化ですよ。要するに歳を取ったのです」と答える。若い時はそうではなかったのに、なぜなのだと思ってしまうことは多い。若い時は出来たことが出来なくなることも増えた。先輩は「最近、辞書を引くことが出来ない。ページをめくろうと思っても指の油がなくて、イライラしてしまう」と言う。

 老化は仕方がない。だからクヨクヨする必要ない。人間の身体の細胞は常に生まれ変わっている。それなのに、老化していくのだ。気楽に生きようなどと言ってもそうは出来ないが、出来ないことを嘆くよりも、歳のせいにしておこうと思う。先輩は生真面目すぎる。他所の女性にでも恋心を持てば、もっと人生が楽しく苦しく人間的になれるのにと、不真面目な私は思う。

 それから、昨日ブログを更新しなかったのは、忘れたのではありません。子どもの日と母の日と誕生日と私の快気を祝って、みんなで飲んで食べたからです。念のため‥。

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悩むところである

2012年05月12日 19時47分27秒 | Weblog

 相変わらず強い北風が吹いていて、ルーフバルコニーに出るには大変な決意が要る。地上ではそれほどの風ではないのに、どうして意地悪なのかと思うほど強風が続いている。花の終わったチューリップを引き抜いて、鉢の土を入れ替えたいのに、強風のために作業が出来ない。可児花フェスタで「薔薇祭り」が始まったとテレビが報じていたので、昼食をどこかで取って出かけることにした。友だち夫婦にも声をかけ、一緒に行くことになった。

 私たち夫婦は年間パスポートを持っているので、何度も行けばますますパスポートの価値は高くなる。入場料を払う段階になって、友だち夫婦は悩んだ。昨日までは300円であったものが、今日から「薔薇祭り」というので一気に1000円になっていた。年間パスポートは2000円だから、あと1000円払えば何度でも入場できる。けれども来なければ1000円が無駄になる。1年間に2回以上来るならパスポートを買った方が安上がりだ。悩んだ末に1000円の入場料を払った。

 しかし、入ってみると薔薇は全く咲いていない。入り口付近で幾本かの薔薇が咲いていたけれど、本来の庭園の方は全く咲いていなかった。「いくらなんでも、300円から1000円は上げ過ぎだ。薔薇は咲いていないし、詐欺にあった気分だ」と友だちの憤慨は収まらない。ポッポ号に乗って西ゲートから東ゲートまで行く。見ると圧倒的に60代以上が多い。薔薇の咲いていない庭園を運転手が説明して行く。途中に1ケ所停留所があり、降りることは出来るけれど、乗ることは出来ない。歩き疲れた高齢の女性が乗りたそうにしていたが、無情にも運転手は「降りる人だけですから」と乗せない。

 薔薇は咲いていなかったけれど、新緑の木々は美しく、園内を散歩するには気持ちがよかった。最後に目当ての薔薇の苗木を探して回る。私たちはここに来るたびに1鉢ずつ買うことにしていたし、友だち夫婦も薔薇の苗木を買うために来た。私は迷子になったシャルル・ドゴール空港と同じ名前の薔薇を、友だち夫婦はイギリス生まれの「プレイボーイ」とアメリカ生まれの「プレイガール」と他に1鉢買った。今朝、友だちの家の庭で実に見事なツル薔薇を見せてもらった。昨年、一緒に行って買ってきたものだ。我が家のような鉢植えではこんなにも大きくならないが、窓いっぱいに生い茂っていた。今日は3鉢も買ったから薔薇屋敷にするつもりなのかも知れない。

 「薔薇祭り」なのに、薔薇が見られなかったのは残念だったが、納得のいく薔薇を買うことが出来たので気持ちは上向きになった。それにしてもどこかこれまでと運営が違う気がして、案内役の人に聞いてみた。昨年までは岐阜県が主体で運営してきたけれど、今年から民間に変わったそうだ。それで料金設定も、それまでは通常は800円だった入場料を300円とし、「薔薇祭り」の期間中は特別に1000円にしていることが分かった。新しい経営者としては、通常を300円にすることで薔薇の季節以外にも客を呼び込みたいのであろう。また、薔薇の好きな客には年間パスポートが格安であることを知らせたいのだ。

 「薔薇祭り」に1000円払うか、年間パスポートに2000円払うか、どっちがお徳なのだろう。悩むところである。

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一体どうなったのか

2012年05月11日 19時46分32秒 | Weblog

 いったいどうなってしまったのだろう。そう思えるほど今日も風が強い。夕方、家に帰るとルーフバルコニーに置いてある植木鉢がカラカラに乾いている。カミさんに「水やっておいてくれた?」と聞くと、「風が強かったので、夕方にやろうと思った」と言う。バルコニーに出てみると、植木鉢が3つ、風のためにひっくり返っていた。サルビアの苗床もオクラの鉢も乾き切っている。急いで水遣りをしようとしたけれど、寒くて立っていられない。慌ててジャンパーを着込み水遣りをするが、まるで冬に戻ったように風が冷たくて歯がガクガクする。

 今朝も神社へ出かけたが、やはり風が強くて寒かった。それでも周りは大きな樹木に囲まれているので、それほど強い風が吹いているとは思わなかった。ただ、風の方向が時々変わるのか、つむじ風が吹いて砂が舞うことがあった。しかし今日は、私たちも神社の人たちも、嬉しい日となった。昨日、井戸掘りは完成し、水が出るところまで進んだ。電動ポンプを据付け、水が出るのも確認した。今日は仮の設定ではあるけれど、長時間にわたって水を汲み続けてみたところ、水質も水量も充分あった。思わず「やった。まず一安心」という気になった。

 日本の神社は、神様に五穀豊穣と家内安全を願うと共に感謝する場である。日本人の主食である米は大切なもので、お田植え祭りはその願いを表している。そこで宮司は境内に水田を作り、米作りをしたいが水道水ではなく、境内から出た水で稲を育てたいと、私たちに井戸掘りを依頼された。長い時間がかかってしまったけれど、やっと約束の1本の井戸が完成した。そして2本目の井戸掘りに取り掛かったけれど、地下に大きな石があるのか、重機が悲鳴を上げ出した。慎重に何度も繰り返してゆっくりと掘り進めるが、突然、油圧ポンプから大量の油が噴出し、工事は中断した。

 石を掘削することは出来る重機であるが、余りにも負荷がかかりすぎたのだ。すぐに修理は不可能というので、2本目の工事は来週に延ばすことにした。専門の業者もここでのトラブル続きに困り果てていたが、井戸掘りにトラブルは付き物と思っている私たちは気落ちはない。「とにかく水田のための井戸は完成したのだから」と慰め、「来週はきっとうまくいきますよ」と励ます。井戸掘りで食べているわけではないからそんなことが言えるけれど、それを生業としている業者にとっては出来れば短期間で終わりたかったはずだ。

 私は4月22日から右肩がひどく痛むようになった。血圧は高く、顔や手が赤い。気持ちが悪いということはなかったが、肩が痛くて耐えられない状態だった。連休に次女夫婦と温泉に行く計画もあったから、何とかそれまでに肩の痛みだけでもなくしたいと思った。かかりつけの医院で薬をもらったところ、高かった血圧も5月3日には下がり、連休明けには肩の痛みもなくなった。ところが今度は胃が痛むようになった。井戸掘りばかりか、自分の身体がトラブル続きだった。重機は壊れてしまったが、私はそこまでには至っていない。1本の井戸が完成したように、自分では「やった」と思っているのだが‥。

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月見草

2012年05月10日 21時20分24秒 | Weblog

 今日は朝から強い風が吹いている。芽を出してきたサルビアの双葉が強風に耐えている。鉢植えのオクラの苗も頑張っている。野菜は育てないつもりでいたけれど、オクラは何年か前から育てている。孫娘にオクラの花を見せてやろうと思ったからだ。私はサルビアのような赤、朝顔なら空の色のような青が好きだ。けれどもオクラの花も綺麗だと思う。

 中学生の時、川の水質調査のため、夜に自転車で堤防を走ったことがある。月の明るい夜で、川原に月見草が群生していた。それは異様なほど幻想的な風景で、これほどの美しい光景はないだろうとさえ思った。高校生の夏の夜に、再びそこを走ってみたが、やはり川原一面に月見草が咲いていた。

 「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」という歌を口ずさんでいた。月見草という呼び方も美しいが、宵待草となるともっと哀れっぽい。恋人を待っているのに、恋人は現れない。悲しいことは重なって、月も出ない。恋は悲しいものだ。相手に伝わらない恋の悲しさを歌っていると勝手に思った。

 私には中学1年の時に好きになった女の子がいた。高校も一緒だったけれど、親しく話す機会は一度もなかった。私は一方的に彼女のことが好きで、好きだということを伝えてもいないのに、どうして分かってくれないのかと思っていた。月見草の群生を見た時、こんなにも美しい光景はないと思うと共に、月見草は自分が美しいこと、その美しさを知っている男がいることを知らない、何という悲しい恋かと文芸部の機関誌に書いた。

 顧問の先生からは「独りよがりの文章だ」と酷評だったけれど、父は褒めてくれた。どんな文章だったのか、もうその時の機関誌は存在しないだろう。彼女とは結局一度もふたりきりで話す機会がなかった。高校3年の何時かは覚えていないけれど、彼女の家が完成し、友だちが何人か招待され、以来そうした機会が度々あった。みんなでトランプをしたりして遊んでいたから、私はふたりの間は急激に接近したと思っていた。

 冬の寒い夜、友だちの家からの帰りだった。その時はふたりだけだった。私は彼女から「あなたが好きなのは私ではなく、あなたが作った私なの。さようなら」と宣告された。私は何が何だか分からなかった。彼女が気ままで変わったところがあることも、彼女を好きだという男が何人かいることも、全てを知って受け入れ、好きになっているつもりだった。呆然としている私をおいて、彼女は泣きながら走り去った。後を追えばよかったのに、出来なかった。

 月見草はマツヨイグサに属し、私が見たのはオオマツヨイグサが正式な名称らしい。竹久夢二がなぜマツヨイグサを「宵待草」と詠んだのか、私は知らないが、宵を待つという表現はうまいと思う。最近は月見草の群生を見ない。そう言えば、セイタカアワダチソウも見なくなった。昭和30年代が月見草の全盛期だったのだろうか。長く続かないのは自然の理なのだろうけれど、ちょっと寂しい気がする。

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