友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

組織が生み出すもの

2012年05月27日 23時16分56秒 | Weblog

 NHKテレビが昨日と今日、2日間にわたってオウム真理教について特集していた。昨夜はドラマ仕立てで、オウム真理教が肥大化していくと共に、狂気に向かう姿を描き、今晩はオウム真理教を追う警察の動きをドキュメンタリーに取り上げていた。昨夜も今晩も、ブログをやらなくてはという思いから、しっかり見られなかったが、「この世界で人間ほど恐ろしいものは無い」という言葉を思い出した。

 トラやライオンが、ヘビやサソリが恐いと言う人はいる。私もきっと遭遇したら肝を冷やすに違いない。その点、人はいきなりナイフを振りかざす者もいるけれど、大概の人は温厚で優しく常識的だ。それなのに人間ほど恐いものはないという存在にどうしてなってしまうのだろう。一人ひとり個々に話し合えばとてもいい人なのに、それがなぜ人殺しをしても平気でいられるようになってしまうのだろう。

 オウム真理教の組織も他の宗教団体も会社組織も同好会も、人が集えばそこに何らかの優劣が生まれる。教祖の麻原彰晃の声を聞いたけれど、こんなにも軽い話し方の人なのかと驚いた。そんな麻原がなぜ何万人という信者を集めることが出来たのか不思議だ。人間として優れているところがあるように見えないのに、従う人々が大勢いたのだから、話し方や声の質だけでなく、別の何かがあったのだろう。

 そして、ドラマを見ていてそう思ったけれど、麻原も一人であったなら単なるチベット密教の修行者で終わっただろうが、次第に彼の周りに人が集まり、そうすることで独特の世界が掲載されていく。私は中学2年の時に、ある新興宗教に誘われたことがある。たまたま私がキリスト教に関心があり教会に通っていることを知った小学校の時の同級生が、「ためになるから行かないか」と誘ってくれたのだ。

 8畳くらいの部屋に14・5人の若者が集まり、経典を合唱し、その後ひとりずつ自分がいかに変わったかを告白していった。この一種独特な連帯感というか一体感が私には恐怖に写った。組織が強い連帯感や一体感を求められると、必ずひとりふたり、たとえば先輩とか役職の者とかいった力のある者に対して、無意識なのか意識的なのか分からないが同調したり、「そうそう」と相槌を打つ者がいる。

 自分の意見を言わずに、言えばまるで瓜二つのように繰り返す。相手の言ったことを否定せずに合わせていくから、傍目から見ているとまるでコロコロと意見が変わるように見えるのだが、本人はいたって真面目な様である。ドラマだから本当だったかは分からないが、麻原は自分の意見を言う前にたくみに幹部連中の意見を聴き、その上で発言している。用心がいいのか、初めから何も無かったのか、それにしても人の操作は上手だ。

 集団が狂気に走るのは、リーダーと仲間の一体感が強くなり、そのために蹴落とされる人が生まれる時だ。オウムも連合赤軍も内ゲバも戦争もみんなよく似ている。集団が一体になっていくことに、未だに恐さを覚えるのは私の体質なのかと思う時さえある。

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