友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

父子関係

2014年07月19日 18時55分11秒 | Weblog

 NHKテレビの朝の連続ドラマ『花子とアン』は、腹心の友である蓮子が愛人のもとに家出してくる。蓮子が夫に対して書いた手紙(絶縁状)が新聞に載ってしまい、大きな社会問題になる。これは実話で、明治時代に作られた戦前の民法では女性の側から離婚することは出来なかったから、夫から離婚させるための策略だったようだ。それでどうなるのかは、来週からの放送を見て欲しい。

 明治の民法は家を守ることに重点が置かれ、戦後の新しい民法は女性の側からも離婚の申し立ては出来るようになったが、「嫡出推定」の考え方は変わらなかった。最高裁が、「父子でないことが科学的(DNA鑑定)に明らかでも、法的な(父子)関係は取り消すことはできない」と判決を下したことにはちょっと驚いた。この裁判では、子は血縁のある男性(実の父親)と実際に暮らしているのに、民法の定める「妻が結婚中に妊娠した子は夫の子」とし、実父との父子関係を認めないのだ。

 そもそもDNA鑑定なるものを受けたいという気持ちが私には分からない。血縁があれば幸せというものではないし、血縁がなければ不幸せというものでもない。血縁関係のない家庭は不幸というような言い方をしてきた世間こそが悪い。私の友だちは養子だったことを気にしていたけれど、その3人の家に遊びに行ったが、我が家以上に暖かな雰囲気だった。日記に「血のつながりなんて関係ない」と書いたことも覚えている。

 性転換して女性と結婚し、第三者から提供された精子で妻が妊娠したケースでは、やはり戸籍上の夫であるから生まれた子とは父子関係になる。以前では考えられない家庭が生まれている。最高裁も5人の裁判官の全員一致ではなく、3対2に意見が分かれた。「規定が社会の実情に合わず、法解釈にも限界があり、民法の改正やDNA鑑定の利用のガイドラインを定めるべき」と言われている。親子関係の決定権は母子に委ねたらどうかと私は思うのだが‥。

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今日から子どもたちは夏休み

2014年07月18日 17時52分13秒 | Weblog

 今日から子どもたちは夏休みだ。マンションの中庭の森にも子どもたちがやって来て、何やら昆虫を探している。近くの幼稚園では今晩が夏祭りなのか、にぎやかな音が聞こえてくる。暑い日が続き、大人たちは少々バテ気味だが、子どもたちは元気がいい。あんなに走り回っていても汗をかかないのだろうか。子どもたちの服装を見ると、黒っぽいTシャツの子が多い。夏は白という私たちの頃とは違うなと思って見てしまった。

 ペースメーカの検査で午後から病院へ出かけたが、今日は患者が少なく思った。待ち時間が1時間は必ずあるのに、今日はスムーズだった。先生に「時々、胸がチクリと痛むことがあるのですが?」と尋ねようと思ったら、「どこも問題はありませんので、次回は1月に予約を入れておきます」と先に言われてしまった。問題ないのに聞くことはないか、咄嗟にそう思って、「ありがとうございました」と言ってしまった。

 それでも名古屋駅は相変わらず人が多い。ホームは人で溢れているけれど駅員の姿は見当たらない。見るとホームの黄色い線のところにコーラの瓶が落ちている。けれど、ホームには「テロ対策のためゴミ箱はありません」と書いた紙しかない。拾うべきか否かと迷っていると電車がやって来た。たくさんの人が降りてきたけれど誰もコーラの瓶には気が付かない。乗り込もうとする人の中に杖をついた老人がいて、杖が瓶に当たった。

 どうしようかともう一度考えたけれど、身体の方が先に瓶を拾い上げていた。それを急いでホームの柱の隅に立てかけ、車輌にすばやく乗り込んだ。瓶はプラスチック製だったから、乗り上げても転ぶことはないかも知れないが、自分の飲んだものは自分で片付けるのがマナーだ。最近の駅舎や車輌はきれいで、ゴミなど見なかったからちょっと残念な気がした。

 公共施設を汚しても平気でいる人は少なくなった。道路の植え込みがゴミ捨て場になっていたこともあったが、最近ではそうしたこともない気がしていた。自転車ですれ違った男の子が「こんにちは」と挨拶して行く。「こんにちは」と私も声をかける。今度は女の子がふたり、楽しそうにおしゃべりしながらやって来た。やっぱり、「こんにちは」と挨拶する。もちろん私も「こんにちは」と挨拶する。

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劇団民藝『八月の鯨』

2014年07月17日 18時30分41秒 | Weblog

 今日は名演の7月例会で、劇団民藝の『八月の鯨』を観た。アメリカの東海岸、メイン州の避暑地である小島の別荘が舞台だった。1954年、第2次世界大戦が終って9年が経っている8月、サマーハウスで夏を過ごしているリビーとサラの姉妹は鯨がやってくるのを待っている。姉のビリーは86歳だがいつまでも気品高く、気難しい。目が見難くなってきたせいなのか、夫が亡くなった「11月にはお迎えがくる」と言い、「霊を見た」と言って妹を混乱させる。

 姉はプライドが高いが、妹に頼らなければ暮らしていけない。残り少ない人生を思い、イライラしている。妹はそんな姉のために料理をしたり洗濯をしたりと、こまめに世話をする。姉が「両親が亡くなって15年、あなたを世話した。あなたには貸しがある」と言ってはならないことを言った時、妹は「あなたの世話をして既に15年が経っている」と言い返してしまう。「どうしてこんなに違うの」と言い、「でも血はつながっている」とふたりは言い合ってしまうが、子どもの頃はとても仲良しの姉妹だったのだ。

 姉妹の会話からふたりの亀裂が見え隠れする。そこにサラの友だちのティシャが「リビーを娘さんに預けて一緒に住まないか」と言って来る。さらに、女性たちにとても優しく振舞うロシアの亡命貴族の男性が現れる。舞踏会で踊る華やかな話にサラとティシャはうっとりと聞き惚れるが、リビーは男性の魂胆を見抜いてしまう。姉妹もティシャも既に夫を亡くしている。まだ男の肌が恋しいサラは亡命ロシア貴族へ恋心を抱く。はかない恋心、男の下心、女の嫉妬など、微妙な心のやり取りが面白い。

 幕切れはちょっと拍子抜けだった。亡命貴族は既に旅立った。姉妹とティシャが沖合いの鯨の姿を見ようとするが、鯨はやってこない。夏が過ぎれば、リビーは娘のいる「フィラデルフィアへ行こうかな」と言い、サラとティシャは「雪の中もいいわね」と話す。新しい1歩を踏み出したように見えるけれど、何も変わっていないようにも見える。「こんなものでいいんですかね」と一緒に観た知人に言うと、「人生はこんなものよ。結論はないの」と断言された。

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最期に何がしたい?

2014年07月16日 19時16分52秒 | Weblog

 人間の最期はどのようにやってくるのだろう。中東では相変わらず宗派の争いで、大勢の人が死んでいる。人を殺してまで得たいものとはいったい何だろう。ナイジェリアでもイスラム教の武装勢力が人々を拉致したり殺したりしている。ウクライナも停戦に至っていない。戦っている側からすれば、神のためであったり、民族のためであったり、国家のためであったりと崇高な目的のためなのだろうが、人を殺してまで実現したいものとは何だろう。

 福島原発の事故が起きた時、放射能に汚染された施設に入って作業することは困難と言われた。もし、施設に入りボタンを押せば危機から救われるなら、ボタンを押すだけでは無理でも、もしハンドルを回すことさえできれば、放射能の拡散を抑えることができるという、本当に誰でも出来る作業で事故の拡大を防ぐことができるとハッキリしていながら、それができないのは施設に入り込む決死の人がいないからなら、私は志願しても構わない。そんな話を仲間で話したことがある。

 それは私だけでなく、話し合っていた仲間たち全員の意思だった。若い人たちにそんな無茶な作業をさせることはできないが、私たちのような元気な年金生活者なら、そこで死を迎えることになってもいい。どちらにしても先はないのだから、せめて最期に、何か人様の役に立つなら本望である。人々に感謝され、英雄と称えられ、わずかでも身内に謝礼が渡されるなら、全国から決死隊に参加する人たちが大勢いるはずだ。人は誰かの役に立って死ぬ機会に巡り合うことはまずない。こんな名誉な死に方はないだろう。

 「決死隊に選ばれて、残す日数は3日しかない時、何がしたいか?」という話になった。身辺整理はしてきた。会いたい人にも会ってきた。これといって食べたいものもない。もし許されるなら、好きな女の肌に触れて眠りたい。そうすればもう思い残すことはない。それって、70年前の特攻隊員の話じゃーないの。人間はいくつになっても変わらないのかねえー。酒が回るうちにすっかり原発決死隊の話ではなくなってしまった。

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フェイスブックに参加するように誘われた

2014年07月15日 18時12分38秒 | Weblog

 真夏のような一日になった。そういえば、昨日の朝、セミの声を聞いた。それはアブラゼミだったけれど、一昨日はクマゼミが飛んで来るのを見た。クマゼミの北限が延びていると聞いたけれど、それにしても現れるのにはまだ早いような気がする。今年は蚊の発生が昨年より早いという。人間の身体の変化では、男子に無精子が多くなっているらしい。原因はストレスというから不思議だ。

 産業革命で人類は大きく変わった。大量生産は人類に豊かな生活をもたらすはずだった。科学は考えられない速度で発展した。にもかかわらず、人類はかつて経験したことのない不幸な出来事を抱え込んでいる。原爆は人々を死に追いやるほどたくさんある。人を救うはずの宗教家が「異端者は殺せ」「邪悪な者は抹殺せよ」と叫んでいる。医療は素晴しく進歩したのに、新たにたくさんの病気を作り出した。産業の発展はますます多くの貧者を生み、環境を破壊し、生物を絶滅へと追いやっている。

 人類の滅亡は何によるのだろう。考えられるのは、1)流れ星が地球にぶつかる 2)火山活動が活発になって酸素が不足する 3)大気汚染が進み地球の環境が大きく変わる 4)水・食糧の不足 5)天然エネルギーが無くなる 6)子孫が残せない 7)戦争。いずれにしても人類は30世紀を迎えられないだろうと予測されている。それまで生きていないこともあるけれど、私自身は楽観的で、人類は自らの英知で乗り越えていくだろうと思っている。

 そう思いながら、でもなあーと考えてしまう。中東の紛争はなぜ収まらないのだろう。同じイスラム教徒でありながら、パレスチナとイスラエルは民族が違うだけで、殺し合いが続いている。旧約聖書は彼らの祖先の話を集めたものだが、もちろん殺し合いもあったけれど互いが物を分け合う話もある。神が何を望んでおられるかと考えれば仲良く暮らすこと以外にはない。そう思うと、人類の滅亡の8番目は天罰ということかも知れない。

 市からフェイスブックに参加するようにと誘われた。どういう仕組みなのか今ひとつよくわらないが、勉強してみるつもりでいる。午後6時、それにしても暑い。

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滋賀県知事選挙の争点は何だったのか

2014年07月14日 18時35分55秒 | Weblog

 目が覚めたのは朝の5時だった。サッカーW杯の決勝戦の後半が始るところだった。0対0のままだ。決勝戦だから慎重になるのは当然だろうけれど、やはり互角の戦いだった。アルゼンチンは南米のサッカーを、ドイツは欧州のサッカーを徹底して展開していた。このまま点が入らなければ延長戦となり、それでも入らなければPK戦での決着となるという。そうなると、PK戦を行なってきたアルゼンチン選手の情報をドイツは把握しているから、ドイツが有利になる。

 延長戦で点を入れないとアルゼンチンは勝てないかも知れない。そう思っていたら、延長戦の後半でドイツが1点をもぎ取った。最後にアルゼンチンのメッシ選手にFKの機会が回ってきた。もし、これが入れば同点となり、PK戦に持ち込むことになる。けれど、ボールはゴールの上を通り越して行った。ドイツのサッカーは緻密で、どこからでも誰からでも、ゴールを狙ってシュートしてくる。観ていても強いなと思った。

 昨夜、もうひとつ気になるニュースがあった。新聞を見ると、『滋賀県知事選 自公敗れる』とある。滋賀県の有権者に「ありがとう」と思った。現職の嘉田由紀子知事は2006年の初当選の時が22万票、2期目を目指した選挙では42万票だったが、今回、出馬するか否かハッキリしなかった。それは小沢一郎さんと新党を結成したり解散したりして、政治手腕が疑われたからだろう。嘉田さんは環境問題の専門家で、新幹線の新駅凍結やダム建設の見直しさらに原発問題で県民の支持を得ていたが、後進に思いを託すことになった。

 それでも、前回の投票率は61.56%あったのに、今回は50.15%しかないのはどういうことなのだろう。自公推薦候補には自民党の石破幹事長はじめ閣僚級が連日、応援に駆けつけた。当選した三日月さんは元民主党衆議院議員で、嘉田知事の後継指名を受け、卒原発を訴えた。けれど民主党議員の時の彼は、原発の輸出に賛成している。自民党議員が多い県議会で果たして「嘉田県政を継承」していけるのかと心配になる。

 有権者が投票で判断したのは、1)経済・雇用、2)福祉・教育の順だった。原発問題を重要と思っていないのに、なぜ三日月さんが当選したのだろう。やはり集団的自衛権の問題や女性議員へのヤジ問題が、自公への嫌悪となったのだろうか。

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w杯、決勝戦の行方は

2014年07月13日 17時49分47秒 | Weblog

 サッカーW杯の3位決定戦が行なわれ、ブラジルはオランダに3対0で再び負けた。1点も取れなかったばかりか、オランダは出場選手全員がピッチに立ったという。監督としてはW杯を戦う中で、まだ出場させていない選手がいれば、出してやりたいのが人情だと思う。けれど、交代でかえってピンチを招くかも知れないから、選手の交代は難しい判断になる。全員が出場できたということはそれだけブラジルチームは強くなかったのだろう。

 ブラジルチームは準決勝戦でドイツに7対1の大差で破れ、戦う気力を喪失してしまっていた。ドイツ戦の時と変わらず守備がよくなかった。それにしても、アルゼンチンとオランダが準決勝で戦った時、共に点が取れなくてどうなることかと思った。既にドイツがブラジルを下していた。ここでアルゼンチンが負けたら、ヨーロッパ同士の決勝になってしまうから面白くない。PK戦でアルゼンチンが勝った時はホッとした。

 ブラジル政府はW杯でブラジルが勝利し、景気の高揚につなげたかったはずだがもくろみは崩れた。負けたことで大衆は怒り、景気が良いのに生活が良くならないため、「サッカーW杯はいらない」と抗議していた大衆の怒りはさらに膨らんだ。もうすぐ、決勝戦が行なわれる。ドイツ対アルゼンチンという組み合わせは、欧州対南米の組み合わせであり、細かいパスでつなぐ戦術と果敢な個人技で攻める戦術の対決でもある。

 緻密なドイツが勝利を得るような気もするけれど、ブラジルのサポーターは同じ南米のアルゼンチンを応援するだろうから、どちらに勝利の女神が微笑むか難しいところだ。スポーツなんだから、素晴しいプレーが生まれ、見ている者が感動するならそれで充分だろう。テレビ放映は明日の朝4時からという。夜型人間の私にはちょっときつい。いずれどこかで放送されるだろうなどと安易なことを思っている情けないファンである。

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何が正しくて、何がいけないのか

2014年07月12日 18時54分06秒 | Weblog

 午後5時くらいからパソコンの前に座り、30分ほど新聞を見たり、今日は何の日といったヒントになるものを探し回り、これでいこうというものが決まると、パソコンのキーを打ち始める。何も考えなくても文章がスラスラと出てくれば30分くらいで完成する。ところがどうだろう、今日も5時過ぎからパソコンの前にいるのに、これというネタが見つからない。

 昨日、鍵は「真実の愛」と書いたけれど、「真実の愛」とは何かと思う。そしてまた、西洋の昔話は「愛」によってふたりは結ばれたという話が多いが、日本の昔話は「よいこと」をした人が幸せに暮らしましたという話が多いのはなぜだろうとも思った。台風一過で蒸し暑く、家でボーとしていると考えることもまとまらない。困ったものだと昨日のことを思い出す。

 テレビで泣き叫び、世界中の話題になった兵庫県の県議が辞職した。「全ての混乱の全責任を取り議員を辞職いたします」と言うけれど、最後まで政務調査費の使途について明らかにしなかったが、その方が逆によかったかも知れないと思った。全国に議員と名のつく人が何人いるのか知らないが、圧倒的多数の議員が彼と似たり寄ったりだろう。これでは自分も辞職に追い込まれるとエリを正すことにはなったはずだ。

 知り合いのオンブズマンから電話があって、「相当なワルだと思うけれど、なかなか尻尾を捕まえられない。何か知ってることがあったら教えてくれないか」と言われたことがあったけれど、悪質な議員ほど用意周到で、証拠を残さないようにしている。けれどもやはり、問題は有権者だ。けれど、「だって、選挙公報を見ても、話を聞いても、悪い人かどうかは分からない」。そのとおりだと思う。

 「真実の愛」と同じように、何が正しくて何がいけないのか、判断は難しい。落選した議員が「有権者は何を見ているのだろう」と嘆いていたけれど、伝え切れなかった本人の問題もあるだろう。「大衆は愚衆」であるとするなら、どうすることが賢い庶民を育てることになるのだろう。

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鍵は「真実の愛」

2014年07月11日 19時05分08秒 | Weblog

 心根の優しい人がいる。他人のために尽くすことが使命のように、よく働く人がいる。勤務がきつくなっても、頼まれたら断れない人がいる。人の倍も働いていても、誰にも評価されなくても、愚痴をこぼさず、悪口を言わず、笑顔を絶やさない人がいる。生まれながらこうした美徳を持った人がいる。「情けは人のためならず」という諺があるが、それはこの人のためであって欲しい。

 そんな話をしていたら、この諺を「情けは人のためにならないと思った」と言われ、仰天した。さらに、他人に恩を売れという功利的に解釈する人もいる。言葉も諺も時代によって変化することは仕方がないが、まるっきり意味が違ってしまうのも困る。美しい人は年齢を重ねても、輝きを失わないのは、美しさは外観だけに留まるものではないからだろう。

 「白雪姫」の話のように、西洋の物語には美しい人とそれを妬む悪い人がいる。美しい人は心も清らかで優しく思いやりが深い。けれどもなぜか、悪い人に呪われ魔法にかけられ、死を直前にする。この悲劇を救うのが白馬に乗った王子で、キスをするとたちまち魔法が解け、ふたりは幸せに暮らしましたで終る。こうした話はヨーロッパ各地にあるようだ。

 ヨーロッパの伝説の多くが、キリスト教以前の土着の物語であることを考えると、人の歴史は面白いと思う。日本も中国も韓国も、仏教が伝来される前にはそれぞれの土地に伝わる文化があった。それを異端のものとして完全に駆除してしまったかと言えばそうではなく、融合した文化に作り上げたり、あるいは昔話として伝承したりしている。

 宮沢賢治の未完の短編『学者アラムハンドラの見た着物』の中で、アラムハンドラ先生が子どもたちに「小鳥は鳴かずにいられないし、魚は泳がないでいられない。人はどういうことがしないでいられないか、考えてごらん」と言った。「歩いたり物を言ったりすること」「それよりもいいことをすること」「いや、いいことがなんであるかを考えないではいられないこと」と答えた。アラムハンドラ先生は「うん、そうだ。人はまことを求める。それが人の性質だ」と教えた。

 洋の東西を問わず、人が幸せになる鍵は「真実の愛」にあるようだ。そして「真実の愛」はどういうものかと求め続ける。けれど本当は、「情けは人のためならず」のような人こそが価値があるだろう。

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朝型人間になれなくて

2014年07月10日 18時18分42秒 | Weblog

 台風8号は九州の西で直角に折れ、東へと進んだ。まるで誰かに操作されているような曲がり方だ。役所から「午後5時には市内の小学校の体育館を避難所として開所する」と連絡が入る。その小学校では早めに給食を取ったのか、全校児童が運動場に並び、先生から下校の指示を受けていた。家に保護者がいない子どもはそのまま学校で待機しているようで、保護者が歩いてあるいは自転車でさらには車で、子どもを迎えに来ていた。

 こういう緊急時の時が共働き夫婦には一番きつい。傍にジジババなり、誰か迎えに行く人がいればいいけれど、そうでなければ夫婦のうちのどちらかが仕事を休んで迎えに行かなくてはならない。デイサービスの介護士さんたちもこんな日は大変である。介護を必要としている人は傘などさせないし、介護する側も傘をさして行動はできないから、ずぶぬれを覚悟で送り届けている。それでも家の人が迎えに出ていればいいが、そうでなければ家まで送り届けて安全かどうかを判断しなくてはならない。

 たまたま友だちが年金喫茶と呼んでいる店の前を通った。こんな風雨の日だから客は来ていないだろうと思ったが、駐車場も自転車置き場も満杯だった。雨が降ろうが風が吹こうが、年寄りは「いつも通り」でないと落ち着かないのかも知れない。風は時々強く吹く、雨は時々強く降る。けれども、時々風は止み雨も降らないから、出かけていくのだろう。その方がボケないでいいのかもしれない。

 私は高校生の時、学校新聞に高校教育は受験教育であってはならないという主旨の記事を書いたところ、顧問に呼び出されて咎められた。その時、顧問から「こういう記事は夜中に書いたんだろう」と言われた。勉強だって夜にするし、考えるのは夜の方がまとまるとずっと思っていた。ところが勉強会を一緒にしていた議員仲間は早朝にブログを書いている。友だちも「朝、メールのチェックし返信する」と言う。朝の方が能率はよいようだ。

 私も朝型にしてみようと思ったけれど、どうも長い間夜型人間で過ごしてきたので、考え事は夜に回してしまう。結局、「いつも通り」になってしまう。それでもブログは食事の前、お酒を飲む前と決めている。

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