友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

不審メール

2017年05月18日 18時22分43秒 | Weblog

 我が家へ3人の美女がバラを見に来た。マンションの仲間の人たちだ。「好きなバラを好きなだけ持って行って」と花バサミを渡す。誰がどんなバラが好きなのか、切り取るバラで分かる。ところが3人とも、意外に地味で清楚なバラを選んだ。午後のルーフバルコニーは暑いので、部屋に戻ってもらい、その間に私はコーヒーを用意する。

 建設されて40年以上になるマンションの中で、私たちはいわば古株に属する。マンションの周りはすっかり家屋で埋まった。建設も盛んで、マンションから工事中の建物が何軒か見える。「昔は田んぼばかりで、カエルの鳴き声がとっても喧しかったわね」と昔話に花が咲く。「お年寄りの引っ越し者も結構いるね。先日も知らないご夫婦とエレベーターで一緒だったから、ごあいさつしたんだけど、何にも言われなかった」。

 一戸建てでは管理が出来ないからと、マンションに移ってくる高齢者が増えた。「『このマンションでは今、あいさつ運動中ですよ』って言ってあげるといいわよ」と言う人がいれば、「きっと耳が遠かったのよ」と優しい人もいる。神戸のマンションでは「あいさつ禁止」を決めたそうだ。知らない人に近づかないためというが、不審者を無くすなら「あいさつ」を交わした方がいいと私は思う。

 不審なメールがまた来た。2,900万円を受け取って欲しいという女性からの依頼の後、手続き代行センターのお客様担当から、2,900万円の振り込み依頼があるので、相手に確認され上で銀行名と口座番号を知らせて欲しいとある。共にsoftbankを使っている。楽して金が手に入るのに、私の母親は「金は汗して稼ぐもの」と言っていた。

 マンションも年寄りが増えたから、「うっかり欲を出してとんでもない目に遭わないようにみんなで注意し合う他ないね」とみんなで確認する。便利な世の中になったのか、とんでもない世の中になりつつあるのか、高齢者が被害を受けるのは時代に乗っていけないのか。困ったものだ。

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笑顔になった

2017年05月17日 18時37分50秒 | Weblog

 私を見た姉は、「あんた、普通の人になったねえ」と言う。えっ、何、それと思った。姉にとって「普通の人」でない私はどういう「私」だったのか。私は自分が格別に「変わっている」とは思っていないが、人はそれぞれだから「人と違っている」のは当然である。誰ひとり、同じ人生の人はいない。「普通」って何を指すのだろう。姉は何を言おうとしたのだろう。

 姉から見れば、私は14歳も歳下の色白で可愛い男の子だった。姉が「あんたは賢いね」と思ったのはきっと、中学の時に生徒議会の議長を務めたり、高校では生徒会長になったことを指すのかも知れないが、姉たちの時代と違って、これらの役は成績に関係なく選ばれる。私が賢ければもっとよい大学に進学していた。

 大学のことも姉は、「両親がいなかったから」と勝手に思い込んでいたのだろうか。大学の先生の推薦で東京の出版社で働いたのは、先生の配慮だけでなく期待を背負って東京へ行かせてくれたと解釈していたかも知れない。大きな舞台に立たせてもらった「賢い弟」だったのに、姉に相談もせずに東京から帰って来た。

 教師となったのに、内ゲバに巻き込まれて瀕死となり、教師を辞めて日本料理の店で働いたり、技工士のまね事をしたり、どうなってしまうのかと思っていたら、地域新聞を発行し、これで落ち着くと安堵していたら首長選挙に出たり、「やっぱり普通に生きられない」と心配してくれていたのかも知れない。

 ルーフバルコニーのチューリップやバラの写真を見せると、「誰がやったの?」と聞くので、カミさんが「この人」と私を指さすと、不思議な顔をしたのも、「普通の人になった」という思いだったのだろうか。全く別な話から、カミさんが「買ったらもう出来た気になってしまう」と失敗を語ると、「あんたの頭、古いね」と言った。これも何を意味するのか、実のところよく分からない。

 けれど、姉の言葉にみんな大笑いした。何だかよく分からないが、姉も姪っ子も妹夫婦もカミさんも笑顔になった。

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不眠

2017年05月16日 18時55分11秒 | Weblog

 「眠れない」と言う先輩がいる。そんな話を聞いても、実感として分からなかった。しかし昨夜、夜中の2時に目が覚めてトイレに立ち、フトンに戻ってもなかなか眠れなかった。こんなことは初めての経験で、いつもならすぐに眠りに落ちていくのに、眠れなくて困った。それに蚊がいて、頭の周りをブンブンと飛ぶのが気になって仕方ない。いっそ血を吸わせたら静かになるかと思い、腕をまくってみせるのに、やっぱり顔の周りに飛んでくる。

 市役所の要請で市民団体のパネル展示に応じたが、90センチ×180センチのパネルに貼り付ける大きな文字がパソコンでは印刷できない。最後は手書きにすればよいが、写真との組み合わせでうまく出来るのだろうかと考えてしまった。また、私が世話になった介護施設を運営していた卒業生から、「幼稚園教諭の免許を持った人を探して」と頼まれ、知り合いに話すがすぐには見つからない。「今はどこも人手不足だから」と言われ、それも眠れない要因となった。

 さらに、高校の新聞部の同窓会のことを考えていて、4時にもう一度トイレに立つ。2時間もの間、悶々と考え込んでいたと知る。新聞部の同窓会を昨年、桑名で開いた。「次は1泊でやってくれ」と幹事は言ったが、友だちのひとりは身体が不自由でカミさんの介護が無くては参加も難しい。念のために友だちに訊ねると、「自分は参加出来ないがみんなで1泊すればいい。日帰りの時は参加する」と答えが返ってきた。それならみんなが揃う方がいい日帰りにすべきだろう。新しく新聞部以外からの参加も認めようか、などとも考えていた。

 朝、6時に起きて、パソコンのスイッチを入れる。市役所に持って行く原稿をCDに移し、正常に機能しているかを確かめる。続いて、日帰り温泉を検索してみる。駅まで迎えに来て、長時間居られるところはないかと探してみる。先輩が「一度目が覚めたら眠れない」と言っていたが、こんな状態なのだろうか。やはり年齢に関係するのか。若いつもりでいたがとうとうそういう年齢になったようだ。

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沖縄

2017年05月15日 18時51分35秒 | Weblog

 「沖縄本土復帰記念日」を知っている人がどれほどいるのだろう。私がまだ大学生の頃は、沖縄へ行くにはパスポートが必要だった。民青の学生たちは「沖縄を返せ」と歌っていたが、「アメリカは出ていけ」のシュプレヒコールと同様に、私には違和感があった。「沖縄を返せ」は本土の人の言い分で、沖縄の人は本当に「本土復帰」を願っているのかと疑問に思った。

 「アメリカは出ていけ」も、「アメリカ軍は出ていけ」の意味であることは分かるが、出て行けば解決するのかと疑問だった。当時の沖縄は、今も変わらないが、東アジア戦略の最前線基地で、敵対するものに容赦しないアメリカの世界支配を無くすには、アメリカ国民が「戦争反対」の声を上げるしかない。「出ていけ」ではアメリカ国民の反戦運動を支援するスローガンにならない気がしていた。

 1972年5月15日に沖縄は本土復帰した。今朝のNHKテレビ『あさイチ』で、国会議事堂に向かってオートバイで突入した若者がいた話を聞いた。そんな事件があったことは知らなかった。当時は本土復帰を祝う行事をテレビが大きく報道していたが、70年経ても、沖縄の人々は「復帰前と少しも変わらない」と言う。「本土復帰」ではなく、「沖縄独立」の運動は無かったのだろうか。

 本土の犠牲になりながら、今も犠牲を強いられている沖縄。独立し、日米安保条約から外れても、アメリカとまだ交渉しなければならないが、今よりは有利な展開が期待できないだろうか。私は沖縄戦の記録映画や映画『ひめゆりの塔』を観て、沖縄に観光で行く気になれなかった。しかし議員の時、初めて沖縄の地に立った。「ひめゆりの塔」を視察した時、信じられないことが起きた。

 慰霊碑の前にたくさんの花が捧げられていた。すると共産党の議員が「これ、持って帰ってまた売るんだぞ」と冗談を言った。彼は冗談でみんなを笑わせたかったのだろうが、私は頭にきて、「そんなことを言うもんじゃない」と怒鳴った。保守系の議員ではなく、共産党の議員だったがより悲しかった。沖縄で流された血を受け止めることの出来ない者が、「福祉」「平和」「平等」と、口にしても虚しいだけだ。以来、沖縄へ行ったことがない。

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「母の日」を祝う

2017年05月14日 18時45分20秒 | Weblog

 「母の日」を祝うように、ルーフバルコニーのバラが咲いている。GOOブログになってから写真の編集がYAHOOほど簡単に出来ない。いつも同じ大きさの縦長しか出来ないのでつまらない。半回転して保存してもブログでは縦長に戻ってしまう。やっとG00ブログの画像編集を読んで研究してみようという気になった。

 昨年の秋の肥料が効きすぎたのか、花が大きくなりすぎて垂れてしまうバラもある。チューリップの時ように、皆さんに来てもらうほどの数はないが華やかさはある。誰が来てもいいように早くサルビアを植え、ガーデンらしくしたいと思う。私がここに移った時から、バルコニーには大きな花壇が備え付けられていて、「ルーフガーデン」と呼称されていた。

 屋根の防水工事の為、レンガ造りの花壇は無くなり、今は私だけが鉢を並べて「ガーデン」にしている。今度、屋根の防水工事が行われる時は、再び今ある鉢を撤去しなくてはならない。それまでは「ガーデン」を楽しもうと思う。先日、庭に井戸を掘った家主はずいぶん凝り性で、溶接まで自分でやってしまうし、庭づくりのためにショベルカーの講習も受けたと言う。「凄いですね」と言うと、「好きだから出来ると言えるが、時間があるからだね」と笑う。

 築百年以上経っている古民家を新潟から取り寄せ、現代風に造り変えて住んでいる。歳を聞くのを忘れたが、話しぶりから私と同じくらいの年齢だろう。こういう庭があったらいい、こういう家に住んでみたい、土曜の夜は家族揃って庭でバーベキューを楽しみたい。そんな夢を追ってきたのだろう。

 子どもたちにとって、母親はいくつになっても「母」であるのに、父親はなかなか「父」にはなれないようだ。「父」でなくても「男同士」くらいになれないものかと思うが難しい。孫たちは「母の日」をどんな形でやっているのだろう。仙台の次女の娘はまだ3歳だから無理でも、長女のところは22歳ともうすぐ8歳になる娘だから、「産んでくれてありがとう」と言ったかな。

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人と人の付き合い方

2017年05月13日 18時30分53秒 | Weblog

 「忖度」という言葉が流行り出した時、これは日本の伝統だと思った。他所の家にお邪魔する時は手土産を持参するし、ましてお願い事ならそれなりの土産を持って行く。商工会議所の会頭が県議のところに手ぶらで相談に行った。すると県議は「人に頼みに来るのに手ぶらで来るとは常識がない」と激怒したそうだ。

 私は地域新聞を創刊する時、地元の有力者に後援をお願いして回ったが手ぶらだった。そのことで逆に信頼され、「応援するからいい新聞をつくりなさい」と言ってもらえた。新聞が地元で認められるようになると、行政の幹部は全国紙の記者と一緒に宴席を設けてくれた。自分たちが飲みたいために交際費を使っているくらいにしか思わなかったが、全国紙の地方版に大きく扱われる記事が増えた。

 世話になっている人へお礼をするのも日本人としては当然の行為だ。お中元とかお歳暮のしきたりは今も続いている。もう今では行っていないと思うが、議員が視察に行くと、視察先の宿に首長らがやって来て、宴会が行われていた。行政と議会との意思疎通のためといい、その昔はコンパニオンや芸者までついたという。

 長い間そんなことが行われていると、人はマヒしてそれを「ヨシ」としてしまう。トヨタは取引先との宴席を一切禁止したそうだ。名古屋栄の飲み屋街が寂れたのも大企業が交際費を使わなくなったからだという。取引先と懇意になっておけば受注が増える時代ではなく、企業が求めるものは商品の価値であって、宴席での親交ではないという訳だ。

 職場で宴席を設け、親睦を図ることは日本の伝統と思ったら、最近はそれも無くなりつつあるそうだ。アメリカ映画でホームパーティを見かけるが、それは親しい友人の集まりで、職場の懇親会はないという。アメリカ人も実はよく働くが、それは企業の為ではなく個人のためだという。

 日本人の働き方が変わりつつあるというものの、どうしてもドライに割り切れないところは日本人らしいのかも知れない。それでも「忖度」出来るのは、税金のような「人様の金」だからだろう。明日は「母の日」、お母さんに「忖度」ではなく、ストレートに感謝の気持ちを伝えて欲しい。

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何をやっているのだろう

2017年05月12日 19時29分50秒 | Weblog

 下校前、校庭の一角で担任と思われる女性教師が子どもたちを座らせて何か話している。日曜日は母の日なので、「お母さんにありがとうと言いなさい」とでも話しているのだろうか。グランドからはサッカーを指導する若い男性教師の大きな声が聞こえる。先生たちの労働時間が問題になっているが、運動部やバトン部の顧問になると小学校でもかなりの長時間労働になってしまう。

 部活が学校の授業の一環のようにとらえられているからで、学校とは関係ない社会教育と考えればいいのにと私は思う。小・中学校の部活は先生以外の人に指導してもらう。サッカーなどやったことがない先生が指導するのは無理がある。自分が得意でないのに担当しなければならないのは先生にとって苦痛だろうし、子どもたちにとってもよいことではない。

 私は高校の教員だった時、ブラスバンドの顧問を引き受けたが、それは生徒から「先生は見守っていてくれればいいです」と頼まれたからだ。日頃の指導は上級生が行い、合宿になれば卒業生が指導に来る。何から何まですべて生徒自身が計画し実行したので、私はむしる教えられることが多かった。私が指導できたのは美術部のアニメ制作くらいだった。

 私が教員だった頃に行事としての宴会があったが、今もまだあることに驚いた。兵庫県の小野市で特別支援学校の宴席で、教頭が校長に「仕事の後に飲みに行けるような出張の機会を増やして欲しい」と言ったのを聞いた教諭が「公私混同はいけませんよ」とたしなめた。逆上した教頭が「2度と言うな」と教諭の口をふさぎ、前歯を2本折る事件があった。

 酔っていたとはいえ教頭の行為は許されることではない。滋賀県の彦根市でも飲食店で、教頭が知り合いの男性の顔を持っていたビールジョッキで殴り怪我をさせた事件があった。それも「児童に体罰は必要か」で口論となり、思わず殴ってしまったという。殴った教頭は「暴力は絶対ダメ」が持論の人だったというから情けない。

 私はルーフバルコニーで作業をしながら、昨年の春、長女の家での新築祝いの席のことを思い出した。長女の言うことが本当なら、この教頭と同じかと思った。小野市の教頭は現職にとどまっているが、彦根市の教頭は50歳であったが依願退職した。潔く身を引くべきだろう。大小合わせて70鉢あったチューリップの土の入れ替え準備が終った。

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最後は燃えるゴミで出せばいい

2017年05月11日 18時53分03秒 | Weblog

 ジャスミンの花が咲き出し、ガラス戸を開けると甘い香りが漂ってくる。バラも咲き始め、香りの競い合いになっている。季節は確実に初夏へと移っているが、どうやら春と秋の期間は短くなっているようだ。今日も昼からルーフバルコニーに出て、鉢からチューリップの球根を取り出し、残った根を取り除いて新しい土作りの準備をする。

 昨年の秋、チューリップのために鉢の土を入れ替えた時、ミミズは全て大きなプランタンに移した。ここならたくさんの仲間に出会え、繁殖することも出来るだろうと思ったからだ。ところが鉢の土を出していると、どの鉢にも何匹かのミミズがいた。さらに1センチにもならないミミズも何匹かいる。さらにもっと小さくて色も白い生まれたばかりのようなミミズもいる。

 これらの小さなミミズも捕まえて大きなプランタンに移してやる。何とかここで大きくなって欲しい。1鉢に5・6匹のミミズを入れ、繁殖できるようにと願ってきたが、時々どういう訳か鉢から飛び出し、バルコニーで干からびている。広い畑とは違う狭い鉢の中だから、必ず他のミミズに出会えるはずで、ミミズにとっては極楽ではないのかと私は思っていたが、ミミズには迷惑だったかも知れない。

 出版社に勤める娘さんを持つ友人に、芥川賞作家の田中慎弥さんに私が中学2年の時から書き続けてきた18冊の日記ノートを送りたいと手紙を書いたのだが、その返事がハガキで来た。読まなくてもハガキだったから、「お役に立てない」という趣旨であると理解できた。「自分史として書かれてみては如何でしょうか」と結んである。

 私の日記は「自分史」に出来るようなものではない。あくまでも73歳まで生きてきた男の赤裸々なエゴを綴ったものだ。作家の創作の何かに役立てばと思ったからだが、「作家の周りではそういった話は沢山ある」のは事実だろう。作家も自分の頭の中だけではないものを必要としているはずだ。まあダメなら、最後は燃えるゴミで出せばいい。

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大腸の内視鏡検査

2017年05月10日 17時52分18秒 | Weblog

 肛門から内視鏡を入れる大腸の検査を受けた。正月から右の脇腹が時々痛くなることがあった。医師に相談すると「下腹部のCT検査と大腸の内視鏡検査をしましょう」と言う。そんなに大げさな検査はしたくなかったが、失礼な言い方だが、私のように医療費の自己負担ゼロの患者は医院にとっては収入になる。私のかかりつけの医師は真面目なのか、滅多に特別なことを勧めない。だから医師から言われると「分かりました」と言う他ない。

 CT検査では「前立腺が少し腫れていますが、まあ、歳相応でしょう」と言われた。大腸の内視鏡検査では、「大腸の皮は意外に薄いので、腸の壁を破ることもあります」と事前にリスクの説明を受けた。「大丈夫です」と言われる方が安心で、万が一の事故の話を聞かされると止めた方がよいとも思えてくる。可愛い看護婦さんが、「痛い時は痛いと言ってくださっていいですからね」と念を押す。

 簡単な検査と思ったが、そうまで言われると不安になる。いざ、ベッドに横たわり、肛門に当たったと思ったらもう入っている。内視鏡の先端がどこを通過しているのか、自分でも分かる。医師がブツブツ言いながら器具を操作している。何やら気体を注入して中の様子を見るのだが、「ウッ」と息が出来ないくらい痛い。歯を食いしばり、身体全体に力が入る。可愛い看護婦さんが私を見つめて、「大丈夫?」という顔をする。私は少し笑って、「ウン」と頷く。

 医師が画面を見せて、「これが大腸の先端です。これから少しずつ下りますね」と言い、「きれいなものです。この窪みが憩室ですが、問題ありません」と説明する。「はい、何もありませんでした。普通に生活して結構ですよ」と言ってから、「念のため今晩はお酒はやめておきましょう」と言って笑う。

 美味しいものを食べ、美味しい酒を飲む。それを止めてまで長生きしたくないと医師に話したことを覚えていてくれたのだ。「適度な運動もしてね」と医師がまた笑う。「はい」と答えたが、「好きだった女性にもう一度会えるなら」と付け加えたかった。

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マクロン新大統領は「愛」を貫く人

2017年05月09日 18時36分01秒 | Weblog

 フランスの大統領に39歳のマクロン氏が選ばれた。棄権者は有権者の25%、投票した人の中で白票を投じた人は6%あり、棄権・白票は3割にもなる。「極右は嫌だが、エリートも嫌い」という人たちだろう。マクロン新大統領の勝利でとりあえずフランスのEU離脱は無くなったが、ヨーロッパで起きている排外主義が解消された訳ではないので、彼がどのような政策を打ち出すかが注目される。

 マクロン氏の勝利を報じるテレビを見ていて、彼の傍に立つ高齢の女性を母親と思ったら、いや、マクロン氏夫人という。トランプ大統領は若く美しい女性を従えていたが、それが23歳年下の3番目の夫人だった。大統領や首相になる人は、誰もが認めるような美しい女性を妻として披露するのが常だ。私は、マクロン氏が老婆の妻を人々の前に連れ出す勇気に驚き、感動した。

 今朝の新聞を見ると、マクロン夫人は彼が高校生の時の国語教師3人の子どもを持つ既婚者で、次女がマクロン氏と同級生。演劇部に入ったマクロン氏は顧問のブリジット先生に惹かれていった。ブリジット先生も彼の溢れる知性に魅了された。ふたりが恋に落ちたことは町中の評判となった。マクロン氏の両親は同級生だったブリジット先生の娘と付き合っていると思っていたようだが、事実を知って彼をパリの高校へ転向させる。

 それだけなら、男の子が年上の女性教師に恋した話だった。ブリジット先生もなぜか彼に転校を勧めた。その時、17歳のマクロン氏の言葉が凄い。「あなたが何をしようと、僕はあなたと結婚する」と宣言。17歳でそんなことが言えたことに驚く。私が高校生の時、好きな女の子がいたが結婚は考えられなかった。結婚は好きなだけでは実現しないもの、両方の家柄が釣り合うかが問題だった。我が家は材木屋だったが、祖父母の家の小屋に間借り生活だったから、立派な家の娘との結婚は無理と思い込んでいた。

 マクロン氏が「愛」を貫く人であることは確かだ。彼は29歳まで結婚もせずに待ち、ブリジットさんが54歳で離婚すると、翌年の2007年ふたりは結婚した。彼は3人の父親となり、何人かの孫のおじいさんとなった。マクロン氏とブリジット夫人は「子どもはつくらない」そうだが、幸せそうな家族の写真がインターネットにあった。

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