広島と長崎を漢字ではなく、ヒロシマ、ナガサキとカタカナで書くと、単なる地名であることを超えて、世界で唯一の原爆被爆地という特別の装いを帯びる。この季節は、特別な思いにとらわれる。
今年は更に特別な事情が加わった。長崎市が、平和祈念式典で不測のセキュリティ・リスクを考慮し、イスラエルを招待しないと発表したことに、G7の6ヶ国の駐日大使が反発してご本人の出席を見合わせたからだ。
私の知人は三国干渉の頃と変わらないじゃないかとムッとし、私も当初は踏み込んだ嫌がらせだと憤慨したものだが、調べてみると、長崎市は、駐日パレスチナ常駐総代表部には式典実施への支障はないと判断して招待状を送り、一等参事官が出席しているのを知って、翻意した。長崎市長は自民党の推薦を受けていたはずだが、今回の対応は不適切だったのではないか。
広島市と長崎市のどちらもウクライナを招待しロシアとベラルーシを招待しなかったのは同じだが、イスラエルとパレスチナを巡っては正反対の対応となった。広島市はイスラエルを招待してパレスチナを招待しなかったのに対し、長崎市はパレスチナを招待してイスラエルを招待しなかったのである。そりゃ、G7の6ヶ国じゃなくても、疑問に思うだろう。この辺りが明確に報道されなかったのも問題だと思う。多くの報道で見られたように、イスラエルをロシアと同じ位置付けにしたというレトリックの方が受け入れられやすかったかもしれないが、要するにエマニュエル大使らは、長崎市がパレスチナを招待する一方、イスラエルを招待しないと決めたことにより、式典が政治化されたとして、参加を見合わせたのだった。
報道では往々にして少数意見が大きく扱われて見間違うことがあるが、私を含め多くの日本人は広島市の対応を支持するだろう。それはイスラエルが今回(昨年10月)に限っては先制攻撃を受け、一般市民が殺害された上に、人質を取られたからだ。勿論、イスラエルの反撃は、自衛権正当化の三要件の一つ、必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)を逸脱しているが(因みに残りの二つの要件は、急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)と、他にこれを排除して国を防衛する手段がないこと(必要性))、戦争という異常心理状態で節度を保つのは容易ではない。また、ガザで無辜の市民に被害がでているのは事実だが、ハマスの戦闘員が非戦闘員たる市民を盾にし、あるいは市民の中に紛れ込んでいるため、イスラエルは市民を逃すために一定の時間的猶予を与える配慮をした上で攻撃しており、ロシアの無差別攻撃とは比べられない。更にこれまでの近隣への拡張主義的なイスラエルの姿勢は問題とされるべきだが、今回の人道的問題とはとりあえず切り離すべきだろう。昨年まではイスラエルも式典に招待されていたのだから。
核兵器廃絶の願いは全ての日本人に共通するが、他方で、中国・ロシア・北朝鮮という核保有国に囲まれ、アメリカの核の傘に守られた日本が、NATO諸国やカナダ、オーストラリア、韓国とともに核兵器禁止条約に参加しないでいるのは、報道ではダブル・スタンダードと非難されようが、日本人が保つ現実感覚だろう。今回の事案でも報道が偏っている先には、今なおヒロシマとナガサキへのアンビバレントな心情があるせいだろう。それは日本人が先の戦争を今なお総括できないでいることと関係している。
ヒロシマにまつわる有名なエピソードがそこを突いている。かつて、小野田寛郎・元少尉は戦争終結を知らず、戦後29年間にもわたってフィリピンのルバング島で戦闘状態を解除せず、1974年になってようやく帰国を果たした。後に戦友とともに広島の平和記念公園を訪れ、慰霊碑に刻まれた言葉「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」を見て、「これはアメリカが書いたものか?」と尋ねた。戦友は「いや、日本だ」。続いて小野田氏が「ウラの意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないというような・・・」と尋ねると、戦友は黙って首を横に振った。戦前の軍人魂と片付けるのは、た易い。戦後29年経った日本に舞い戻った浦島太郎の小野田氏は、「人間の誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられているのだ」(氏の著書から)と感じ、程なくして日本を離れ、新天地ブラジルに渡った。小野田氏の問いかけに、私たちは今なお黙って首を横に振るばかりで、それ以上の言葉を見出せないでいる。
当事者のアメリカは、戦争を終わらせるためとして原爆投下を正当化し、心の平穏を保とうとしてきた。故・安倍さんはオバマ氏との間で、ヒロシマと真珠湾への首脳の相互訪問を実現したが、安倍さんはバーターではないと明言されている。真珠湾攻撃は、宣戦布告の手交が遅れて、アメリカからは騙し討ちだと非難されるが、戦後の少なくない戦闘行為に宣戦布告があったかどうか寡聞にして知らないし、当時、日米間には友好的な空気はもはやなく、交渉は決裂していたし、学術的には、行き過ぎた制裁は武力行使を止められない、所謂「抑止」の失敗事例と捉えられるし、軍事施設を狙った、それ自体は合法的な攻撃であって、ヒロシマやナガサキへの原爆投下や日本中の主要都市への絨毯爆撃のような戦争犯罪とは区別されるべきものだからだ。
暑い夏のさなか、8月6、9、15日と、毎年、脳裡をかすめるトラウマである。一部の(しかし声が大きい)リベラルなメディア報道と、近隣国による密かな世論戦(とまで言うと陰謀論に扱われかねないが 笑)と、内外から撹乱されて複雑な状況の中で、核兵器禁止条約への対応と同様、私たち日本人自身の良識が問われる問題である。