風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

永遠の舟歌

2024-01-12 03:01:12 | スポーツ・芸能好き

 演歌歌手の八代亜紀さんが急逝された。享年73。

 今日の日経新聞・春秋は、「特殊な声帯をお持ちです」との引用文で始まり、「喉を酷使してのガラガラ声ではない。生来ハスキーボイスになる声帯の形なのだという。医師にそう告げられ、驚いたと八代亜紀さんは自伝で語っている。」と続けた。経済新聞が一人の演歌歌手の死を惜しむのは異例である。そして、こうも書く。

(引用はじめ)

 「〽雨雨ふれふれ」ときたら「かあさんが」と続く。そんな常識を「もっとふれ」に塗りかえたといわれた大ヒットが「雨の慕情」だ。海鳴りのごとく響く「舟歌」も世代を超える人気曲に。

(引用おわり)

 会社の同僚の一人は、子供の頃、「おさけはぬるめのかんがいい~」「しみじみのめばしみじみと~」などと大声で歌っていたらしい。「舟歌」は1979年発売だから、計算すると3歳!?だったことになる(微笑)

 斯く言う私は、演歌に興味はないし、八代亜紀さんのファンでもない。そう意識したことはないし、子供心にNHK紅白歌合戦で見た(注目した)記憶もない。しかし、この若さで亡くなったという事実を突きつけられると、世代は違えど同時代を生きてきたご縁という言葉では片づけられないほどの喪失感がある。振り返ると、デビュー作はともかく、出世作の「なみだ恋」(1973年)、代表作の「舟歌」、日本レコード大賞受賞作の「雨の慕情」(1980年)くらいは、歌詞を見なくても一番だけなら歌える。それだけ1970年代は(演歌を含む)歌謡曲の全盛期で、テレビやラジオで流れる曲をいつの間にか口ずさめるほど、音楽が身近にあり、八代亜紀さんはその代表的な歌姫だったということだろう(ついでに言うと、すぐに覚えるほど子供は記憶力が良いということでもあるのだろう、今なら絶対無理だけど)。それもそのはず、Wikipediaによると「演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップ」だそうだ。また、「熊本県八代市出身。地元のバスガイドを経て、上京して銀座のクラブで歌ううち、スカウトされた」(1月9日付 朝日新聞)くらいのプロフィールなら私でも知っている。

 その銀座のクラブで歌うようになると、ホステスたちから「あきちゃんの歌には哀愁がある」と好評を得たそうだ(Wikipedia)。学生時代には、音楽の授業で教師から「そんな声出しちゃいけない」などと言われ、ハスキーな声にコンプレックスを感じていたそうだが、銀座のホステスや客たちから褒められたことで、「自分の声はいい声だったんだ」と気づき、自分の声を好きになったという(同)。確かに、いわゆる演歌歌手として、こぶしが回って歌がうまい、という感じではなく、ハスキーでドスが利いて、それでいて艶があるところが、トラック野郎を中心に受けていたのだろうと、今にして思う。演歌歌手とか演歌の歌姫と言うよりブルースの女王と呼ぶべきかもしれない。

 数ある作品の中で、私が一番好きなのは実は「ともしび」(1975年)である。これも一番だけならソラで歌える。・・・とまあ、結局、私も隠れファンだったのだろうか??? 

 所属事務所は公式サイトで発表した追悼文で、「代弁者として歌を歌い、表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中、常に大切にしていた言葉は『ありがとう』でした」と総括された。「代弁者」の意味は、デビュー当時から、「レコーディングでは、歌っている時の自分の顔を誰にも見せない」ということを決めており、その理由は、「私は辛い人や悲しい人、苦しい人の代弁者のつもりで歌ってきました。歌入れの時はそういう人の表情になっているはずで、それを見られるのは恥ずかしいから」という本人の弁(Wikipediaより)に示される。「表現者」の意味は、画家志望だった父親の影響で、小学生の頃は将来画家になるつもりだったそうで、40歳頃に油絵の質感に惚れ込んで人に師事し、その後フランスの由緒ある「ル・サロン」展に1998年から5年連続入選し、日本の芸能人として初の正会員(永久会員)になるなど活躍された(同)ところに表れる。歌と絵について本人は、「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と評している(同)そうだ。最後に「ありがとう」については、優しく面倒見の良い両親の影響もあり、若い頃から色々とボランティア活動をしてきた(同)そうで、その一環として、長年、老人ホームや福祉施設、女子刑務所の慰問公演を続けていたり、2011年の東日本大震災や2016年の地元・熊本地震の後、何度も被災地を訪れて様々な支援活動を行っていたり、ということを踏まえると、スポニチが記事で「歌を愛し、人を愛し、常に感謝の思いを大切にしていた八代さん。最後まで周りのスタッフ、そして病院の関係者すべての人に『ありがとう』を伝えていた」と書いたこともよくわかる。結局、心に染み入る歌声と、そんな人柄が滲み出ていたことが、多くの人に愛され、惜しまれる所以だろう。

 感謝の気持ちをお返しに、心よりご冥福をお祈りしつつ、合掌。

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追悼・大橋純子さん

2023-11-12 01:45:42 | スポーツ・芸能好き

 大橋純子さんが亡くなった。死因は明かされていないが、5年前に食道がんや乳腺がんが見つかり、その後、復帰されたが、今年3月に食道がんが再発し、治療とリハビリに励んでおられたという。享年73。

 伸びのある歌声が魅力だった。当時は歌謡曲全盛で、松田聖子や中森明菜といった華やかなアイドル歌手が活躍し、目を奪われる一方で、純子さんは「たそがれマイラブ」(1978年)や「シルエット・ロマンス」(1981年)など、しっとりと聴かせる大人の歌い手で、私にとっては、岩崎宏美や、男性では布施明などと並び、歌声に聴き惚れて忘れられない一人である。

 最近、1970年代後半から1980年代にかけて活躍された歌い手が相次いで亡くなっている。先月8日に谷村新司さん(享年74)に続いて、22日にもんたよしのりさん(享年72)が亡くなったときには、かつて「夏女ソニア」(1983年)でデュエットした縁もあって、追悼コメントを出されていたそうだ。私自身も歳をとった証しだし、音楽は好きだが、なんだかんだ言って若かりし頃に聴いた音楽に、今なお惹かれることには驚く(呆れる)ばかりだ。今はレコードやCDがなくても、YouTubeで記憶の底に沈んだ歌声を懐かしい映像とともに蘇らせることも出来て、余計に当時の音楽に回帰している。

 人生100年と言われる時代に、余りに早い死が惜しまれるが、歌声は永遠に生き続ける。素晴らしい感性のままに生きたことを羨ましく思うとともに、それによって私たちの音楽経験を豊かにしてくれたことに感謝し、合掌。

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藤井 八冠独占

2023-10-21 13:30:11 | スポーツ・芸能好き

 旧聞に属するが、先週木曜日(10/12)の日経朝刊一面トップに藤井総太七冠が王座戦を制した記事が掲載された。このブログ・タイトルは、その記事のタイトルをそのまま頂戴した。将棋好きの経済人は多いかも知れないが、それにしても経済新聞ともあろうものが何故!?と思ってしまうが、その横に「沈む日本に『Zの衝撃』」と題する解説記事が併せて掲載されており、ポイントはそこにあるようだ。

 「沈む日本」とは穏やかではない(が、この方が注目を集めるのは確かだ)。正確には「停滞する日本」と言うべきで、失われた30年以上もの間、他国は成長を続け、結果として日本は「相対的に」沈んだ。記事は、坂口安吾の「散る日本」という作品を引きながら、Z世代の台頭が、沈む日本と日本人を異様なまでに刺激していると言う。圧倒的な実力差で史上初の八冠独占という快挙を成し遂げたZ世代の誕生の秘密をオトナたちの誰もが知りたがり、日本の突破口に繋がる「解」を導けるか、こうした革命児と「共振」出来るか、と問うている。彼より年上である殆どのビジネスパーソン、とりわけ親子ほどの歳の差がある管理職クラスを挑発し、喝をいれる(余計なお世話だが)。

 ところで、敵に囲まれた中東でハリネズミのように鉄壁の防護を誇ると思われていたイスラエルが、ハマスの突然の攻撃の前に、意外に脆かった。イスラエルには三つの隙があったと日経は報じた(10/11付)。近隣情勢について、ハマスより高い戦力をもつヒズボラを警戒する一方、ハマスは2年にわたって大規模な軍事行動を控え、新たな攻撃の意思がないと見誤った。技術面で、世界有数のサイバー技術をもつ余りシギントに頼り過ぎ(ハマスは全世紀型のアナログな方法で連絡を取り合っているらしい)、アイアン・ドームなる強力な防空システムを誇るも、僅か20分の間に数千発ものロケット弾を撃ち込まれると、多くを迎撃できなかった。そして、政権は最近の内政の混乱に気を取られ過ぎてしまっていた、と。

 また、軍事力では世界有数で最強の陸軍を誇るロシアも、ウクライナへの“特別軍事作戦”に手こずり、意外な脆さを露呈した。開戦の数か月前から(部分的には数年前から)欧米はウクライナをサイバー防護や軍事面で指導し、ハイブリッド戦への備えが出来ていたようだ。一方のロシアは2014年のクリミア併合が余りにあっけなくスムーズに事が運んで慢心していたのだろうか。決定打もなく、21世紀の今、第一次大戦を彷彿とさせる塹壕戦を展開する有様である。

 いずれも、私たちの思い込みを嘲笑うかのようである。

 それに引き換え、サバを読んでZ世代に含めてもいい大谷翔平は、二刀流を、さも二兎を追ったら一兎も得られないと言わんばかりの批判に晒されたが、そんな永年の人々の思い込みをものともせず、年々、進化を遂げて、投・打のそれぞれで傑出した実力を発揮し、とうとう日本人の常識を破るメジャー本塁打王を獲得した。

 また、藤井八冠の師匠・杉本昌隆八段は、彼の目標は「将棋の真理に近づくこと」だと言われる。「目標を達成した、などとは微塵も考えていないはずだ」と。藤井八冠はAIネイティヴ世代と言えるかも知れない。彼が研究に活用する将棋ソフト「水匠」は1秒間に1億手近い候補手を読むことができるそうだが、網羅的に手を調べるからであって、ピンポイントに良い手だけを読む人間的な大局観は時にAIを超えることがあると言われる。とりわけAI的には良くなくても、相手のミスを誘うような手を選んで大逆転を演じたことが何度かあったようだ。ひたすら最善手を探し求めるAIとは違い、人間同士の戦いだからこそ泥臭さもある将棋の世界の奥深さであり真理でもあるのだろう。

 冒頭に引いた日経解説記事は、次のように締める。「かつて、この国に敗戦を招いた形式主義や精神主義を、(坂口)安吾は『日本的幽霊』と呼んだ。幽霊はまださまよっている。」 確かに、藤井八冠にしても、大谷にしても、これまでの思い込みや形式に囚われることはない。かつてイチローは、ヒットになっても必ずしも喜ばず、アウトになっても納得したことがあった。記録は後から付いて来るもので、イチローは常に「内容」にこだわっていたのだった。藤井八冠も、此度の王座戦三戦目に勝って浮かない顔をしていた。彼もまた勝負の結果より「内容」にこだわるからだろう。

 かつてアメリカの作家ジョン・スタインベックは、「天才とは、山の頂上まで蝶を追う幼い少年である(Genius is a little boy chasing a butterfly up a mountain.)」と語った。彼らの本当の凄さは、記録に拘ることなく、ただ只管、将棋なり野球なりの世界の真理を究めんと夢を追い求める、求道者としてと言うより(イチローにはそういうところがあったが)、将棋少年や野球少年であり続けられるところにあるのではないだろうか。そしていつの間にか世界の頂上に達している。その態度は、必ずしもZ世代だから、というわけではないところに救いがあるようにも思う。

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昴になった谷村新司

2023-10-17 02:09:32 | スポーツ・芸能好き

 「昴になられましたね」とは、イルカさんの言葉。アリスのリーダーでシンガーソングライターの谷村新司さん(以下、敬愛を込めてチンペイと呼ぶ)が、今年3月に急性腸炎の手術を受けて療養を続けておられたが(とは不覚にも知らなかったが)、今月8日に亡くなっていたことが今日、事務所から発表された。葬儀は近親者のみで昨日、執り行われたという。享年74。

 戒名は「天昴院音薫法楽日新居士」で、「昴」の文字が入っている。事務所によると、「日本語の精神文化を大事に、歌詞を紡いできた」 「天にある星となって私達を照らし続けてくれる事だろう」との思いが込められているようだ。昨年、活動50年の節目を迎え、アリスの記念ライブ『ALICE GREAT 50(FIFTY)』を有明アリーナで開催し、ベーヤン、キンチャンと共に、ここからリスタートして10年続けようと目標を立てて、今年6月から全国ツアー「ALICE 10 YEARS 2023 ~PAGE1~」がスタートする予定だったが、延期が発表されていた。三人揃ってのツアーはもはや叶わぬ夢となってしまった。

 私にとっては、音楽界の巨星である。まさに、巨星、堕つ。学生時代、アリスのコピーバンドを組んで、大学一年の秋、サークル活動を共にしていた京都の某女子大の学園祭の舞台に恥ずかしげもなく立ち、チンペイとベーヤン役でそれぞれ「秋止符」と「南回帰線」を披露したのだった(今思うと若さとはなんと恥ずかしいことだろう)。

 更に遡ると、高校二年の修学旅行で芸能大会があり、陸上部だった私は何の因果か軽音の友人と即席バンドを組んで、「帰らざる日々」と「酒と泪と男と女」(大阪やな・・・)を歌い、芸能大賞を貰ってしまったのだった。勘違いはあの時、始まったのか・・・それはともかく、チンペイの歌声には、えも言われぬ艶があった。日本的な抒情あふれる歌詞を紡ぐ感性にも、多大なる影響を受けた。壮大な「陽」としてのイメージがある「昴」や「サライ」は国民的な楽曲として、これからも歌い継がれるだろうが、私はどちらかと言うと、青春時代の屈折した思いをぐっと吞み込み、強がる背中を見せるような「陰」の楽曲の数々に惹かれる。

 そんな声の艶と言い、歌詞を紡ぐ感性と言い、音楽活動だけではなく、ラジオのパーソナリティでも遺憾なく発揮された。噂では聞いていた文化放送の「セイ!ヤング」や「青春大通り」「青春キャンパス」は大阪まで電波が届かなかったが、高校生の頃、MBSの深夜放送「ヤングタウン」(1978~86年、金曜日)を聴きながらの「ながら族」で、ともすれば折れて潰れそうになる受験生の気持ちを支えて貰ったものだった。ばんばんと佐藤良子さんとの軽妙なトークは、大人のガキっぽさや悪戯っぽさに溢れて、成長期の人格に大いなる刺激を与えて頂いた。まっとうでなくなったのではなく、まっとうでないなりに生きる術を、元気を、与えて頂いたのではないかと思う・・・

 子供心に、素敵に年齢を重ねるお手本の最初は、チンペイだったように思う。その姿は、2018年にアリスの三人で復活した「ヤングタウン金曜日」(東京にいる私は、今やYouTubeで聴くことが出来る)でも変わるところはないが、もはや目に、耳に、することは出来なくなってしまった。盛者必衰の理を知りつつも、あって当たり前のものがなくなってしまう喪失感・・・しかし、チンペイの音楽は未来永劫、私たちの心の中に生き続ける。なんと幸せなことだろう。感謝をこめて、合唱。

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原辰徳監督の勇退

2023-10-08 15:58:58 | スポーツ・芸能好き

 読売巨人軍・原監督が退任された。今季は3年契約の2年目で、最終年を待たずに身を引くことになった。

 振り返れば、私が東京ドームに最後に足を運んだのは2001年9月30日(横浜戦)のことで、その二日前の電撃発表の結果、期せずして長嶋監督(当時)の引退セレモニーが行われたのだった。一つの時代の終わりを画する出来事だったと言ってもよい。その翌年から、既定路線ではあったが、原さんが監督として指揮を執られた。

 私が子供の頃、大阪に住んでいながら巨人ファンになったのは、テレビ中継で巨人戦を見慣れていたからであり(阪神戦はサンテレビで映りが悪かった)、スーパースターのONがいたからでもあった。その一角の王さんが引退された翌年に原さんが鳴り物入りで巨人に入団し、当初、二塁を守っていたが、三塁の中畑清さんが故障して、かつて長嶋さんが守るホット・コーナーと言われた三塁が原さんの定位置になった。当時はまだ「球界の盟主」「常勝・巨人」と言われ(今は見る影もなく、あるとすれば埃にまみれたプライドだけだが 苦笑)、その中で、長嶋さんが語ったように、「スターというのはみんなの期待に応える存在。だが、スーパースターはその期待を超える働きをしなければならない」という宿命を背負ってのスタートだった。確かに、一人の選手としてはまずまずの成績を残したが、スーパーと呼ぶには物足りなかった。そして監督としても長嶋さんの後を継ぎ、長嶋さんの通算15年(1982試合、1034勝、リーグ優勝5回、日本一2回)を超える、通算17年(2407試合、1291勝、リーグ優勝9回、日本一3回)の戦績を残し、長嶋さんと同じ65歳での勇退となった。背番号83は、原さん自身の現役時代の8と長嶋さんの3を掛け合わせたものだと言われるが、選手としても、監督としても、常に大先輩であるONの影を引き摺りながらの野球人生だったように思う。巨人ファンとして、心からその労をねぎらいたい。

 実際にインタビューで、長嶋さんのように、何を言っているのかよく分からないところもあったし(笑)、高校、大学、そしてプロ入り後もスター街道を歩んできたのに、心に秘めたガッツと温かさがあった。次のエピソードは原さんらしさを示す好例であろう(10月4日付 東スポWEB)。

(引用はじめ)

 大学4年のときだった。東海大グラウンドに東大を招き練習試合を行った。ダブルヘッダーの1試合目の1軍戦で大差で圧勝した。2試合目との間に構内の大広間で昼食をとる東大ナインにあいさつにいくと、参考書を手に昼食をとっていた。「こんなときまで勉強するのかと。すごいなと。同じ学生としてこの光景を見てこてんぱんにやられた気持ちだった。自分が恥ずかしくなった」と当初2軍選手が出場する予定だった2試合目も志願して出場した。

(引用はじめ)

 監督としての実力には毀誉褒貶、相半ばする。一期目の一年目は松井秀喜、高橋由伸、阿部慎之助、上原浩治、桑田真澄、工藤公康など錚々たるメンバーが揃い、長嶋さんの遺産のお陰だと言われた。二期目はリーグ三連覇を二度達成したが、小笠原道大、谷佳知、アレックス・ラミレス、セス・グライシンガー、ディッキー・ゴンザレス、村田修一、杉内俊哉、大竹寛・・・など各球団の大物をFAで次々に獲得する大型補強のお陰でもあった(もっとも、それを使いこなしてこその勝利ではあったが)。2019年からの三期目の監督就任にあたっては、山口オーナーに「好きにやらせてほしい」と条件を付け、事実上、編成面も掌握する“全権監督”となった。ところが蓋を開けたら、復帰1~2年目にリーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでソフトバンクに2年連続で4連敗を喫する屈辱を味わうことになった。人気のセ、実力のパと言われて久しいが、想像以上にセ・パの実力差が開いていることを痛感させられたものだ。選手の育成面で明らかに見劣りしていることが影響したのだろうか、21年以降は補強を抑えた我慢の采配が続く。21-22年には連続負け越し、22-23年は同一監督のもとで連続Bクラスとなる、巨人史上初めての屈辱である。投打ともにポジションが固定せず、継投ミスも多く、我慢が足りないとも批判された。

 今年最後の三試合は三連勝で締めて、3年連続でシーズン負け越しとなるのを阻止したが、18年ぶりに優勝した首位・阪神には6勝18敗1分、2位・広島には8勝17敗と、圧倒的な力の差を見せつけられた。チーム打率と本塁打数こそリーグトップだったが、4年連続して3割打者が不在で、本塁打を畳み掛けて勝利をもぎ取ることはあっても、安定した勝利の方程式は見出し辛かった。それでも、今季最終戦では、山崎伊が9回を僅か2安打に抑え、プロ初完封、自身初の2桁勝利となる今季10勝目(5敗)を挙げた。我慢したような、しなかったようなここ数年で、若い芽が芽吹きつつある。

 世代交代は世の流れである。既定路線でバトンを引き継ぐ阿部慎之助は、就任時に次のように語った。

「ジャイアンツは強くなければならない。優勝を自分でも意識して口にしていきたい。そして若手に勝つ喜び、優勝する喜び…すべてを感じてほしい」

「ファンの皆さまには残念な思いをもうさせない。巨人軍には最高のファンがついている。最高のファンの皆さんとともに、喜びを(現役時代の登場曲にかけて)セプテンバーに味わえればうれしい」

「今年は“アレ”で盛り上がったが、来季は“アレ”ではなく“アベで!”いきたいと思います」

 なんとなく昭和の系譜を引きつつも、捕手目線で投手力を建て直し、新たな時代を築いて欲しい。

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大谷翔平の本塁打王

2023-10-03 02:08:32 | スポーツ・芸能好き

 日経は今朝、速報メールを流した上、夕刊一面の隅の方ではあったがカラー写真入りで祝福した。日本人ビジネスパーソン、とりわけ異国の地で活躍される駐在員には期待の星だったことだろう。私がアメリカに駐在していた頃は、野茂英雄投手が孤軍奮闘し、いろいろ文化ギャップで悩む私には、彼の活躍が誇らしく心の支えだった。

 残り何試合で二位以下に何本差というカウントダウンが始まって、比較的余裕で最終日を迎えたが、本塁打王という、体力差をものともしない日本人初の快挙には、感慨一入である。日本人の個人タイトルではイチローの首位打者(2001・04年)や最多安打(2001・04・06~10年)という先行事例があり、それはそれで歓喜したものだが、アメリカ人にはどうしてもイチローの小ぶりのヒットより大味の本塁打一発に重きを置く意識が垣間見えて口惜しい思いをした。実際にあのゴジラ・松井秀喜ですら、試合前のフリー打撃でA・ロッドやゲーリー・シェフィールドのパワーを間近に見せつけられて飛距離で勝負はできないと悟らされたのだった。

 大谷は、今季からチャンドラー社製のバットに変更し、重さ32オンス(907グラム)はそのままで、長さを33.5インチ(85.09センチ)から34.5インチ(87.63センチ)に1インチ伸ばした上、ヤンキースのジャッジのモデルを参考に、バットの先端付近に重心を移したそうだ。そうすれば遠心力が働いて飛距離が伸びる。さらに反発力が上昇するよう、素材をカバノキ科のバーチから、より硬いカエデ科のメープルに変えたそうだ。「大谷選手の日本人離れした体格と鍛え抜かれた肉体があるから扱える」(同社の日本の取扱代理店)と指摘される。そして、今年の平均飛距離は、昨年の124.3メートルや一昨年の126.8メートルを上回る128.5メートルを記録した。野球漬けの生活で、私たちの目には触れないところで進化する様々な努力が続けられているのだろう。

 9月は僅かに3試合に出場しただけで本塁打ゼロでの本塁打王は1974年のディック・アレン(ホワイトソックス)以来49年ぶり史上3人目の珍記録だった。投手を務めながらの本塁打王は1918-19年のベーブ・ルース以来104年振りだという。

 44本塁打のほか、325塁打、78長打、出塁率.412、長打率.654、OPS1.066と、6つの項目でア・リーグ・トップの数字を叩き出した。この内、長打率とOPSは両リーグを通じてトップである(ついでにユニホームの売上ランキングでも日本人選手で初めてメジャートップだった)。ア・リーグMVPに輝いた一昨年オフには、シルバースラッガー賞やエドガー・マルティネス賞、各誌の最優秀選手賞など10冠に輝いた。今年もア・リーグMVPが確実視され、一体、どれだけの栄冠を手にすることになるのか、楽しみは続く。

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九月の風

2023-09-30 18:43:11 | スポーツ・芸能好き

 9月末なのに猛暑日を記録するほどの地域がある一方、東京界隈は虫の音が優しく響いて(と、雑音に感じないのが日本人らしさ)、すっかり秋の気配。

 夏の歌と言えば、サザンオールスターズ(の「真夏の果実」)やTUBE(の「あー夏休み」)、更に遡れば井上陽水(の「少年時代」)が浮かぶワンパターンの旧世代だが、夏の盛りを過ぎて秋風が心地よいこの時分、華やいだ夏の暑さを懐かしむ九月には忘れられない曲がある。

 竹内まりあの「September」(1979年)や、Earth, Wind & Fireにも同じタイトルのダンス・ミュージックがあるが(1978年、もっともクリスマスに9月を懐かしむという趣向らしい)、私にとってはラテン・ジャズ、ラテン・フュージョンのピアニスト・松岡直也の「九月の風」(1982年)が忘れられない。同名のベスト・アルバムは、オリコンチャート第2位、半年間30位以内にチャートインするなど、インストゥルメンタル・ミュージック界では珍しいヒット作となった(Wikipedia)。

 松岡直也と言っても、もはや知る人は少ないだろう。中森明菜の楽曲の中ではちょっとユニークな「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」の作・編曲を手掛けたことがあるし、わたせせいぞう作『ハートカクテル』(日テレ)の音楽を担当したこともあり、珍しいところではプロレスラー・藤波辰巳(現・辰爾)の入場テーマ曲「Rock Me Dragon」を作曲したこともある。学生時代、長距離ドライブでBGMに松岡直也を流したら、クラシック好きの友人から「軽いな」の一言。当時、ジャズに傾いていた私は仕方なくWeather Reportに代えると、その友人曰く「これはまだマシやな」。そりゃクラシックの重厚さと比べれば軽いのかも知れないが、音楽の良し悪しは別であろう。松岡直也さんはラテンに傾倒されていたとは言え、底抜けに明るいだけではない、日本人の心に響く叙情がある。

 サザンオールスターズにも同名タイトルの曲(1993年)があるが、サザンには歌詞に「九月の風」が登場する、隠れた!?名曲がある。「I’ll Never Fall in Love Again」(1983年)で、当時の私の傷心を癒してくれた(笑)という意味で思い出深い。九月はとげとげしい暑さが和らいで曖昧な秋へと移ろい、宴が終わった侘しさが心に沁みて浮かれ気分が名残り惜しくもあり、落ち着いた季節へと向かう静けさが心を優しく逆撫でする。

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今年のプロ野球

2023-09-26 01:23:27 | スポーツ・芸能好き

 巨人の自力でのCS進出が消滅した。Aクラス入りを狙うという低い目標設定は屈辱的で、今年も巨人は弱かった。ここ数日で朝晩はすっかり秋めいてきたが、私の心の中はずっと以前から秋風が吹き晒している(笑)

 坂本は復帰すれば存在感が大きく、三塁コンバート後は更に調子を上げてきたが、菅野は復帰後も調子がピリッとしない。若手の台頭がいまひとつ安定しない中で、一年を通してベテランが力を発揮できなかったのが、今の巨人の弱さだろう。若手の実力者も期待通りの働きが見られなかった。クローザーの大勢はWBCのジンクス?で、調子が上がらないままだったし、岡本も見掛けはHRキングが確実だが、41本塁打にしては93打点と物足りないのは、本人だけのせいではなく1・2番が固定せず安定しなかったせいでもあるが、仮にチャンスが巡って来ても得点圏打率.241では4番としての迫力に欠ける。チーム本塁打数はリーグ断トツで、本塁打を畳み掛ける大味の試合は出来ても、1点が遠い試合が多かった印象がある。

 巨人は過去、二年連続でBクラスになったことが一度だけある(2005年の堀内監督が5位、引き継いだ原監督が翌2006年に4位)そうだが、原監督は、我慢して若返りを図って来たとは言え、このまま浮上しなければ、昨季の4位に続いて同一監督で二年連続Bクラスという球団史上初の汚点を残すことになるという。このチーム事情からすれば本望なのかも知れないが・・・

 そんな傷心の私を癒してくれたのは、今年も、海の向こうの大谷翔平だった。WBCの活躍のあと、2年連続の開幕投手など、投打でフル回転したメジャー6年目は、しかし、レギュラーシーズン25試合を残したところで打ち止めとなった。数字を並べてみれば、あらためて目を見張るものがある。特に打者として135試合に出場し、497打数151安打、打率.304、44本塁打、95打点、20盗塁、三年連続規定打席に到達し、初のシーズン3割をマークした。OPSに至っては現時点で両リーグトップの1.066である。投手としては23試合132イニングを投げ、10勝5敗、防御率3.14、167奪三振、WHIP1.06、被打率.184と決して悪くはなく、大リーグ史上初の「2年連続2桁勝利&2桁本塁打」「10勝&40HR」を達成したが、規定投球回到達には30イニング足りなかった。選手の貢献度を表す指標「WAR」では、両リーグトップの「10.0」をマークし、ア・リーグでは2位のシーガー(レンジャーズ)に3もの差を付けて断トツだ。チームとしては、地区優勝・プレーオフ進出の可能性は完全消滅し、ア・リーグ西地区4位も確定している。ジ・アスレチックの記者は「野球界のために、これがオオタニとエ軍の決別であることを願う」と題する記事で、「エ軍は彼をだめにした。勝ち越しシーズンを一度も経験させられなかった。彼にはもっといい場所が相応しい」と書いた。確かに感覚的には今年15勝くらいしていてもおかしくないほどの活躍だったと思う。

 暗転したのは8月23日(日本時間24日)のことだった。投手として先発したが、右肘に異変を訴えて2回途中で緊急降板し、試合後の検査で、右肘内側側副靱帯損傷と診断された。その後、打者に専念していたが、9月4日(同5日)の本拠地・オリオールズ戦前に行った屋外でのフリー打撃で右脇腹に張りを訴えた後、11試合連続で欠場し、15日(同16日)の試合序盤に大谷がロッカーを整理したことが話題になった。翌16日(同17日)に15日間のIL(負傷者リスト)入りが発表され、大谷の夢のようなシーズンが終わった。16-17日(同17-18日)はパーカー姿でベンチに登場し、戦況を見つめる姿が明るく朗らかに見えるのが却って痛々しかった。この日からの敵地での遠征には帯同せず、19日(同20日)に手術を受けて無事成功したようだ。

 身体はひと回りもふた回りも大きくなったが、あの超人的な活躍は、想像する以上に身体への負担が大きいのだろう。慶友整形外科病院(群馬県館林市)の古島弘三・副院長は次のように述べておられる。彼の溢れる才能はさすがの彼の身体能力をも超えている、あるいは身体が受け止め切れないと言うべきなのだろうか。

(引用はじめ)

 今回はいろんな要素が重なって故障が起きたと思う。

 まず、ほぼ毎日出場する中で蓄積した疲労が大きい。投手でなく野手で出場しても、バットにボールが当たる瞬間にグリップを握って力が入る。練習でも負荷はかかるから、疲労が回復しないまま積み重なる悪循環になっていたのではないか。

 多投していたスイーパーを含むスライダー系の球種にも原因があるとみている。他の球種と比べて前腕の内側に負担がかかりやすい。直球も球速160キロ台を計測するだけに、他の投手よりも負荷はかかりやすい。

 肘全体にかかる力のうち、骨が2割、筋肉が3割、靱帯が5割くらいで支えているとされている。疲労によって筋肉の力が弱まれば、その分靱帯に負担がかかる。元々柔軟性があり、体の使い方が上手な大谷選手でなければ、もっと早くに痛めていただろう。

(引用おわり)

 実は、遡ること20日前の8月3日(同4日)の試合で、右腕と指の痙攣により4回でマウンドを降りると、試合終了直前、ベンチに座っていた大谷は、茫然としたまま瞬きを繰り返し、その目は潤んで、今にも涙がこぼれ落ちそうなのをこらえていたそうだ。その感傷的な様子がSNSにアップされると、“大谷が泣いた”と話題になったという。本人は既にこのとき、思うところがあったのかも知れない。

 ここに来ての大谷ロスは大きいが、二年振りのMVPと日本人初の本塁打王に期待したい。

 巨人の話に戻ると、それでも後半には辛うじて先発投手で山崎伊織、野手で門脇や秋広など、期待の芽が出て来た。浅野という若武者も元気一杯。二度あることは三度あるのではなく、三度目の正直となることを(私の心の平穏のためにも 笑)切に願う。

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浅野翔吾のプロ初アーチ

2023-08-19 14:12:11 | スポーツ・芸能好き

 第一印象は、オッサン臭い奴やな・・・事実、坂本勇人からは「浅野のおっちゃん」と呼ばれて可愛がられているらしい。サンスポはもう少し上品に、「ニックネーム:貫禄のある風貌から高校時代のあだ名は『おじさん』」と書いてくれている。その浅野翔吾が昨日の広島戦に7番・右翼でスタメン出場し、3点を追う5回に、プロ通算12打席目にして初アーチとなる2ランを放った。

 オッサン臭いとは言え、まだ18歳である。一年前の同じ8月18日、高松商の主将として甲子園・準々決勝の近江戦でバックスクリーンに高校通算68号のラスト・アーチを放った。

 あれから一年。

 7月7日に一軍登録され、翌8日のDeNA戦6回に代打で登場すると、かつての長嶋茂雄を思わせるような豪快な二打席連続空振り三振、その後の初の守備機会では豪快にずっこけて、菅野智之投手から頭を“ぽんっ”とされた。昨日の初本塁打でも、ランナー二塁で先にホームインしていた中田翔から頭を“ぽんぽんっ”と満面の笑顔で迎えられた。オッサン臭いが、まだ18歳なのである(ちょっとしつこい・・・)。

 高卒ルーキーのアーチは2リーグ制後7人目、巨人では(王貞治や松井秀喜に続く)2015年の岡本和真以来となる。「変化球に出されることなくしっかりと残して芯で捉えることができました。うれしい気持ちはありましたが、リードされているので次の打席でも打てるように集中していきます」と健気なコメントが伝えられたが、次の打席は、6回一死一、二塁の絶好機に巡って来て、代打・丸が送られた。一塁走者も中田翔に代走で門脇が送られ、原監督としては勝負に出たが、最悪の二ゴロ併殺に終わった。あのまま浅野に打たせてあげたかったところだが、かつての常勝・巨人もなかなかAクラスに這い上がれない苦しいペナントレース終盤、原監督の立場も辛い。

 しかし、この試合9回には、(今年はチャンスに弱い)岡本和真が(珍しく)タイムリーツーベースで勝越しに成功し、ルーキーの初アーチに花を添えた。そんなところに浅野の運の強さを感じさせる。

 ジャイアンツ球場でファンにサインをする姿はお馴染みの光景らしいが、高校時代も甲子園終了後は地元の少年野球チームに引っ張りだこで、「毎週末、多くのチームの練習に顔を出し、野球を教えるだけでなくサインや記念撮影にも応じていた」(スポーツニッポン)そうだ。ファンサービスもヒーローの条件で、ツラ構えだけでない既に貫禄十分の18歳に期待したい。

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同級生

2023-08-13 10:43:06 | スポーツ・芸能好き

 プロ野球つながりで・・・大谷翔平の活躍は、漫画やドラマを超えて、もはや異次元か異星人のもので、賞賛を惜しまない者はなく、レジェンドと言われる元・大リーガーも例外ではない。彼が大リーグに挑戦したとき、これほどの活躍を誰が予想しただろう。驚くべきことだ。

 日々、私たちに元気を与えてくれる彼の活躍だが、彼の世代はなかなか豪華だ。

 数日前のNEWSポストセブンは、「大谷はこれまでにも数多のハードルを乗り越えてきた。その陰には、本人の努力はもちろん、切磋琢磨する『同級生アスリート』たちから得たヒントがあった」と言い、ラグビー日本代表の姫野和樹のほか、野球界では鈴木誠也、サッカーの浅野拓磨、南野拓実、水泳の萩野公介、瀬戸大也、バドミントンの桃田賢斗、奥原希望、スピードスケートの高木美帆、柔道のベイカー茉秋、バスケットボールの渡邉雄太を挙げている。「野球をしている時間以外はずっと寝ているような印象の強い大谷」だが、「そんな彼が顔を出す数少ない機会の1つが、『94年会』」(同)なのだそうだ。その「94年会」に大谷が参加を切望する「最後の大物」が、最近、結婚を発表した羽生結弦だという。なるほど綺羅星の如く・・・である。

 そう言えば、チャリティー・ソング「時代遅れのRock’n’Roll Band」を引っ提げて、昨年末のNHK紅白歌合戦・特別企画に登場したのも同級生バンドだった。桑田佳祐が作詞・作曲し、メールのやりとりはあってもなかなか共演する機会がなかったという世良公則と久しぶりにプライベートで顔を合わせて、「同級生で協調して、今の時代に向けた発信をできないか?」という会話がきっかけで話が進み、80年代に共演歴があった佐野元春やChar、かねて桑田佳祐がリスペクトしていた野口五郎が、「今あえて時代遅れなやり方で、我々の世代が『音楽という名の協調』を楽しむ姿を発信し、その中で『次世代へのエール』や『平和のメッセージ』を届けたい」という思いに賛同し、結成が決まったという(2022年12月18日付、日刊スポーツ「桑田佳祐ら“最強の同級生”バンドが紅白に出場 特別企画で『時代遅れの-』テレビ初歌唱」)。こちらもなかなか豪華な顔ぶれだ(1955~56年生まれで、ほかに郷ひろみ、大友康平などがいる)。

 かつて「中三トリオ」と呼ばれた山口百恵、桜田淳子、森昌子の年代(1958~59年)には、岩崎宏美、久保田早紀、岡田奈々などがいる。天地真理の年代(1951~52年)には阿川泰子、藤圭子、今陽子(ピンキー)などがいるし、南沙織、太田裕美、竹内まりや、丸山圭子、庄野真代の年代(1954~55年)もなかなか興味深い。

 だいたい1950年代生まれは、その前の全共闘世代(あるいは1947~50年に生まれた団塊の世代)が革命の夢に破れたあと、音楽によって自己表現・自己実現することが流行り、その中で物心ついた世代だ(例えば坂本龍一は1952年生まれだった)。とりわけ歌謡界は上手くても下手でも盛り上がった時代で、インフレ気味と言えなくもない。そこから随分下って大谷翔平の世代は、戦後の日本が一応の達成を遂げる過程で、(そのために日本の高度成長が終わらせられたとでも言うべき)欧米スタンダードに合わせることが要請された時代に、野茂英雄が大リーグに挑戦したのを皮切りにスポーツで世界に飛翔することを当たり前に目指した世代と言えるのかも知れない。

 「同級生」には独特の響きがある。先日、久しぶりに集った学生時代の友人の中には、入社した会社の社長に昇りつめた者もいれば、子会社の社長という定番におさまって悠々自適の者や、転職して第二ステージで活躍する者もあり、さまざまだが、いざ話を始めれば、あっという間に30年以上の時を超えて、学生時代の当時に舞い戻る。実際に交わっていた時間は長くてもせいぜい4年程度なのに、多感な時代を過ごした重みなのか、かつて同じようなテレビ番組や映画を見て、音楽を聴いて育ち、その後、歩んだ道は違っても、バブル景気やその後の失われたと言われて久しい時代の空気を同じように吸って、肌感覚が合うのだろう。日経・交遊抄に呼ばれることはないだろうけれども(笑)

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