風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

訪欧(上)トルコ航空

2015-02-11 01:00:16 | 永遠の旅人
 最近、すっかりアジア出張づいていたのは、実は意図的で(苦笑)、この歳になると時差ボケが辛いので、過去二回のアメリカ出張を部下に押し付けていましたし、欧州も(私自身の苦手意識から?か)なんとかく遠ざけていました。今回は逃れられず、西方向への時差がありますが、先週一週間、欧州に出張していました。まずはトルコ・イスタンブール訪問の印象です。
 欧州出張・・・などと無造作に言いましたが、一般に調査会社などの統計資料で欧州・中東・アフリカをひとまとめにしてEMEA(Europe, Middle East and Africa)などと呼び、私の会社でも販売テリトリーはこの区分に沿っているように、トルコはもとより欧州ではなく、アジアと欧州のどちらのニオイをも感じさせつつ(言語的にはアジア系であり、政治・経済的には欧州寄りで、NATO加盟国であり、EU加盟も申請しているのはご存知の通り)、外務省の区分では中東に属します。歴史上、ギリシャやローマの文明が栄え、イスラム大国だったこともあり、その目に見えない資産は小さくないでしょうし、ISISの問題であらためて注目されたように、シリア、イラク、そしてイランとも国境を接し、現代の国際政治にあっても独自の外交を展開して隠然たる力をもつキーとなる国・・・などと想像するのですが、実際のところもそうなのでしょう。
 成田からイスタンブールまで、アジアの東端(極東)から西端(極西)まで移動するのに要する時間は、実に13時間、ロシアから西南方向へ抜けるルートと、欧州から東南方向に抜けるルートの交差点という地政学的要衝にあって、イスラームの国でありながら世俗国家として発展・・・すなわち政治が宗教から分離されるなど、独特の立ち位置を見せます。現に空港やタクシーの中から流し見ただけですが、イスタンブールの街並みは、つい日本人が想像しがちな、モスクが独特の佇まいを見せるような中東的な印象はまるでなく、むしろ白とレンガ色が基調の整った街並みはアジア的でもあり欧州的(あるいは地中海的)ですらあります(それはイスタンブールがボスポラス海峡を越えた欧州側に位置しているせいかも知れません)。女性の衣装は、中東の民族衣装のように黒っぽいわけでもありませんし、マレーシアの民族衣装のように華やかなわけでもありません。
 そうした異文化交流の現実を如実に感じさせたのが、今回利用したトルコ航空でした。初めての搭乗であり、しかも人質事件があって、土地柄、何かと心配されたのですが、同僚から航空会社の総合満足度ランキングで2013年度4位にランクされたと聞き、ちょっと期待していたところ、期待を十分に上回る内容でした。先ずは搭乗後、大き目のサイコロ大の餅状の菓子が一粒振る舞われます。ピスタッチオをこねてあって、歯ごたえが良く、甘さ控えめで意外に美味い。アジア系の航空会社ではよくピーナッツの袋が振舞われますが、こちらの方がなかなか洒落ていると思います。そして何より食事が美味い。アジアのテイストに、欧州の洗練が加わって、アメリカ系航空会社はもとより、コテコテのアジア系航空会社よりも、ずっと美味しく感じたほどです。世界三大料理などと言われるのは、日本人には余り実感が伴わないものですが、こと機内食に関しては伊達ではありません。さらに今どきエコノミー・クラスであるにも係らず歯磨きセット(アイマスク、靴下、耳栓、ハンドクリーム入り)が手渡されました。先々月、プライベートでマレーシアに遊びに行ったとき、利用したユナイテッドは、LCCでもないのに、アルコール類を有料にしていてガッカリしたばかりだったので、天国のようで、ビールに赤ワインと、存分に食事を楽しみました。どうやら人件費高騰の欧米を尻目に、アジア系(新興国)航空会社はコスト圧力のもとでもサービス競争にまだ余力があると見えます。
 僅か一日の滞在で、相変わらず空港とホテルとオフィスの間をカンパニー・カーで移動するだけの出張でしたので、残念ながらこれ以上のネタがないのはなんとも寂しい限りです。日本では余り報道されることがない?のですが、土地柄、自爆テロは絶えないようで、イスタンブールでは1月にも二度あり、イスタンブール県は外務省によって黄色(要注意)にマーキングされ、会社の人事からもわざわざ連絡シートを書かされて注意喚起されていましたので、実のところ、無事、脱出できてちょっとホッとしたというのが偽ざるところでした。因みに、航空運賃を極力安くあげるため、金曜夜の帰国便もトルコ航空で、ロンドン発、真夜中にイスタンブールで日本行きに乗り換え、ロンドンのオフィスを出てから自宅に到着するまでドア・トゥ・ドアで実に23時間の長旅になり、トルコ航空のサービスを存分に楽しみました腰がイカレテしまいました(溜息)。
 上の写真はホテルから見たイスタンブールの街並み。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰郷・ペナン編(下)

2015-01-02 01:19:12 | 永遠の旅人
 落穂拾いです。
 シンガポールやマレーシアに住む中国人は華人(因みに出稼ぎで戻り得る人は華僑)と呼ばれ、中華人民共和国という国や共産党政権への思い入れがないのは、それが中国人であり、さらに出身地のせいだと思われますが、東南アジアでは福建や広東などの南方系の中国語圏が広がるとともに、商圏も広がります。シンガポールの空港の本屋の入口中央に、中国語本コーナーがあり、習近平国家主席の顔写真がでかでかと載った本が平積みになっていたので、中国共産党による宣伝工作の一環かと思ってよくよく見ると、習近平氏だけではなく、周永康氏や令計画氏など、失脚した人にまつわる本もあって、どうやら最近の腐敗取り締まりに関わるスキャンダラスなネタばかりのようなので、頁を繰って出版社を見ると、全て香港でした。雨傘革命で揺れ、最後は押しつぶされたようなものでしたが、香港の言論界はなかなか健在のようです(とは言え、実際は反体制なのか体制寄りなのかよく分かりませんでしたが)。
 もう一つ。Japan Home Centerと銘打った「日本城」なる雑貨店を、Gurney PlazaやQueensbay Mallで見かけました。粗雑で武骨な外国製・・・などと一括りにしては失礼ですが、安かろう悪かろうが主流の家庭用雑貨の分野で、炊飯器やフライパンのほか、ちょっと便利そうなキッチン・グッズから、ちょっとお洒落なコスメティクス・グッズまで取り揃え、日本製の使い勝手の良さや品質の高さを売りにしているのは明らかですが、この会社自体は香港に本社があり、中には日本製のものもありますが大部分は中国製やベトナム製やトルコ製です。ここペナンにもDAISOが進出していますが、如何にも如才ない香港人ビジネスパーソンが日本ブランドにあやかった、似たような商売を手掛けているもののようで、香港の商魂はなかなか逞しいと感じた次第です。後でネットで調べると、International Housewares Retail Company Limited(國際家居零售有限公司)という香港の会社のサイトに行きつきました。中国語なので正確には分かりませんが、2000年にライバル企業・日乃城発展有限公司を買収したとあって、それほど最近のことでもなさそうです。ご存じの通り、和食は世界文化遺産になるほどの知名度があって、海外では似非日本食レストランが多く、それだけ日本ブランドの価値が高いことは喜ぶべきことであるとともに、いわば便乗商法は宿命でもあるのでしょう。そうは言っても凡そ日本ブランドを掲げる以上、日本品質(ひいてはその評判)を落として欲しくないと思います。このあたりは難しいところで、海外で手にし得る、あるいは口にし得るものは、所詮はsecondaryなものであって、本物は飽くまで日本に行かなければ味わえるものではないことは基本的な了解事項だろうと思います。むしろ東南アジアでこうした(多分)高品質なものを嗜好する所得水準層が確実に出来つつあることには、あらためて驚かされます。
 そんな所得水準の高まりを捉えて東南アジアで急成長しているのがエア・アジアをはじめとするLCCです。エア・アジアのキャッチコピーはまさに「今、誰もが大空へ(Previously No One Can Fly. Now Everone Can Fly.)」。運行は基本的にPoint-to-pointなので、乗り換えがある場合には、荷物のチェックインなど不便極まりないのですが、単なる拠点間往復なら、安くて便利で、かつてペナン滞在中も家族旅行によく利用し、今回も、シンガポールとペナンの往復に利用しました。最近はホテル業にも進出し、エアコンやタオルもいちいち有料だという話が日経に出ていて、そこまで行くのは極端な気がしますが、その勢いは衰える気配がありません。
 ところが、12月28日、ちょうど私たちがシンガポールからペナンに移動した次の日、ペナンからシンガポールに戻る前の日、シンガポールに向けてインドネシアのスラバヤを出発したエア・アジア機が行方不明になりました。エア・アジアとして、当初、マレーシア政府系重工業会社DRB-ハイコム傘下で出発し、業績低迷により経営破綻した後、今のCEOに2001年に買い取られてから、初めての大惨事です。日本ではそれほど詳細に報道されていないようですが、CNN(と言っても香港発ですが)やBBCでは、2008年に納品した比較的新しい機体であること、11月に保守点検がなされたばかりであること、2万時間を超える飛行経験があるパイロットであることなど、諸条件から極めて稀な不運な事故である可能性が頻りに示唆されました。が、翌日にエア・アジアを利用する私も新聞やTVニュースで事故を知って、しかしそこまでの情報はまだなく、心穏やかではいられませんでした。 
 私たちが搭乗したエアアジアは無事シンガポールに到着しましたが、機内に持ち込もうと思えば持ち込める小型バッグ3つの内、1つだけがペナン空港で積み残しになってしまいました。しかも、私は半袖ポロシャツ姿で移動中、日本に戻ってから着用するはずの冬服はバッグにしまったままでした。シンガポール空港のエアアジア・カウンターに届け出て、ホテルにチェックインしてからも何度かコンタクトして、ラチが明かないので、ホテルのコンシェルジェに頼んで(たまたま空港隣接のホテルで、通行証も持っていて手慣れたものでした)、空港内に再入場して、再度かけあって、ようやく、荷物はその後2便あったシンガポール便に間に合わず、とりあえずクアラルンプールに行き、翌日、シンガポールに到着することが判明しました。しかし私たちは翌朝7時のフライト(ユナイテッド)で帰国するので間に合いません。結局、空港界隈をうろついて、しかし常夏のシンガポールなので大した防寒着は買えませんでしたが、最低限の備えをして、帰国の途についたのでした。エア・アジアの担当者に言われた通り、成田空港に到着後、ユナイテッドのカウンターに届け出て、善後策を話し合ったのですが、基本的には待ちの姿勢で、出来ることは限られています。エア・アジアがIATAに加盟しているかどうか定かでなく、どうやら荷物紛失も珍しいわけではない由。格安航空会社なので、悪名高い遅延だけでなく、それなりにリスクがあることは承知しておいた方が良さそうです。エア・アジアのCEOは、日本での普及に並々ならぬ意欲を示しているそうですが、品質重視の日本人に、どう受け止められることやら(というのは、既にANAとの合弁で上手く行かなかったところではありますが)。
 上の写真は、前日の27日、私たちが乗ったシンガポール発ペナン行き。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰郷・ペナン編(中)

2014-12-31 23:45:04 | 永遠の旅人
 ペナン二日目は、朝からQueensbay Mallに出かけました。私たちがかつて生活していた頃、日本のイオンが入るというので鳴物入りで開業したペナン島・東海岸随一の大型ショッピング・コンプレックスで、当時のまま、相変わらずの繁盛振りです。ここでの狙いはBordersというアメリカ系の書店で、小学校6年間を内外のインターナショナル・スクールやシドニーのローカル・スクールで過ごした下の子が10冊ほど英語の本を買い込むのにつき合わされました。
 午後には、Midlandsという、開業して数十年は経っていようかという、鄙びたショッピング・センターを訪れました。ここは地元民だけではなく、安い所謂オートクチュールの店があるので、海外からの駐在員の奥様方に根強い人気がありましたし、パソコンの周辺機器やパソコン用ソフト・映画・ゲームなどの海賊版DVDやCDを売る店が二十ほども軒を連ねて、観光客にも人気の隠れた買い物スポットでした。しかし当時からGurney Plazaにどんどん客を奪われて斜陽化しつつあったのですが、今では店の9割方にシャッターが下りていて、当時の勢いはおろか、もはやショッピング・センターの体をなしているとは言えません。当時から時限的にシャッターが下りて、当局の査察を逃れていたもので、私も一時間ばかり閉じ込められたことがありましたが、今はRENTの張り紙がそこかしこに見えて恒常的のようです。そんな中、海賊版DVDを扱う店が辛うじて数軒ばかり残っていたので、覗いて見ると、当時、1枚8リンギッ(240円、屋台のラーメン8食分)していたハリウッド映画DVDが、10年近く経った今、5リンギッで売られていて、過当競争の結果なのかも知れませんが、豊かになる一方のペナン社会で陰のような存在は、益々居場所が狭くなっていくようです。こうした店では、個々の商品に値札はなく、ブルーレイだと1枚いくらなどと壁に張り紙がしてあって、観光客と分かると、つり銭を言わないと呉れないところなどは、今も健在です。
 二日目の夕食は、ペナン島ジョージタウンの街のレストランで三本の指に数えられると我が家が自信を以てお勧めできる内のひとつ、イタリア料理レストランBella Italiaに行きました。驚いたことに、かつてバツー・フェリンギという島の西北のはずれの保養地の支店で呼び込みをやっていたバングラディッシュ系かミャンマー系のおじさんが、ここ本店でフロア・マネージャー然と振舞っていて、当時と変わらぬお気に入りのオーダーを入れようと、スパゲッティと言いかけるとボンゴレと答え、ピザと言いかけるとポロと答えてくれて、記憶力の良さというより今なおワン・パターンであることに、お互いに思わず破顔一笑したのでした。
 その後、土産物を買いに、Gurney Plaza地下一階のCold Storageに行きました。かつて食料品スーパーとして重宝し、毎週のように買い出しに来たもので、土産物もここで調達するのが常でした。ペナン土産としてお勧めは、COCONというブランドのマンゴー・プリン(12個で10リンギッ前後)と、cocoalandというブランドのマンゴー・グミ(5リンギッ弱)で、日本人の知人に評判が良くて、しかも経済的です。なお、近所の日本食料品店MEIJIYAがなくなって(後でネットで調べたら引っ越しただけのようですが)、日本人駐在員家族やセカンド・ライフの年配の方々はさぞ困っているかと思っていたら、Cold Storageの一角に日本食材コーナーがあって、日本の調味料や海苔やカップ麺や菓子類が所狭しと並んで、ごく普通に売られているのに驚きました。
 私たちがかつて住んでいたガーニー・ドライブ沿いには今も高層マンションの建設が続き、街は少しずつ表情を変えています。2008年の統一地方選挙の際、ペナン州では期せずして野党が勝ったため、計画されていたペナン第二ブリッジに予算がつかなくなるなど、中央の与党からイジワルされたものでしたが、第二ブリッジは、無事、開通している上、高速道路を走っていると第一・第二ブリッジ並べて渋滞何分などの表示があるため早い方を選べることが出来て、なかなか便利ではありませんか。Gurney PlazaやGurney Paragonの駐車場では、個々のパーキング・ロットにセンサーがつけられ、各フロアに何台分のオープン・スペースがあるか表示されるので、これもまた便利ではありませんか。そんなペナンの愛すべき人たちは概して人が好くて、オッケー、オッケー・ラーなどといい加減で、それはただ周囲を察することに乏しいだけなのが実態でもあるのですが、それでいて多民族社会の故か生きるために抜け目ないところも多分にあって、私たち日本人にとって油断ならないところもあるのは、日本以外の土地では当たり前なのでしょう。
 いつしか心は当時に飛んで、ひとしきり遊んで、ホテルに戻ると、ただの観光客だという現実に引き戻されるのでした。名残り惜しみつつ、ペナンを後にしたのですが、旅は、満喫するよりちょっと物足りないくらいが良いようです。
 上の写真は、歴史的建造物も取り込んで、発展を続けるペナンのショッピング・モール(Gurney Paragon)。背後に聳え立つのは高層マンション。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰郷・ペナン編(上)

2014-12-31 01:58:19 | 永遠の旅人
 「第二の故郷」などという言い方もするので、かつて住み慣れた土地を再訪するのを「帰郷」と称することもまた許されるでしょうか。一日早く有給休暇をとって、かつて3年暮らしたマレーシア・ペナン島のジョージタウンに家族揃って遊びに行って来ました。
 このところ子供たちの受験が続いたので、旅行や遊びなどの自粛疲れで、何をするでもない、4泊5日のちょっと豪華な旅・・・と期待したのですが大間違い。旅慣れている方はお分かりの通り、ペナンまで直行便がないため、シンガポール経由となり、シンガポールまでの往復がそれぞれ1日仕事となる上、乗継ぎフライトがうまく繋がらず、シンガポールで行き帰りにそれぞれ半日過ごすことになって、結果としてペナン滞在は僅かに丸2日間だけの慌ただしい日程です。振り返ると、ペナンを離れたのはリーマンショックのちょっと前の2008年7月のこと、かれこれ6年半振りの訪問です。発展するアジアということでの変わったところ、しかし土着文化が根強くて良くも悪くも変わらないところ、それぞれにいろいろあって、とても興味深い旅となりました。
 国際空港とは名ばかりで相変わらずしょぼいペナンの空港に降り立つと、なんとも言えないまったりとしたニオイが鼻をつきます。これは開発独裁の人工的な都市国家・シンガポールでは感じることはない、田舎の空港ならではの土地のニオイです。かつて民主化前後の台湾では香(こう)と干し肉のニオイに包まれたものでしたが、ここペナンの場合は肉や香辛料が混ざった懐かしい屋台のニオイでしょうか。このニオイに出迎えられただけで、ああ帰って来たなあ・・・とホッとした気持ちになります。
 ペナン島にしてもジョージタウンにしても、さほど大きな島でも街でもありませんが、かつて生活していたときのように車で移動することを想定し、レンタカーを借りることにしました。カウンターで予約確認のメール・コピーを差し出すと、マレー人の人の好さそうなお兄ちゃんはメールのある箇所を指さし、ここで70リンギッ(2500円位)支払えと言います。クレジットカードにチャージされる金額ばかり気になって、気が付きませんでしたが、確かにカウンターで支払えと書いてある。お兄ちゃんはその70リンギッをそそくさと自分の財布に仕舞いました。あれれ・・・なんじゃこりゃ。因みに、二日後、レンタカーを返却するとき、既に月曜日の朝11時近くになっていたにもかかわらず、カウンターには誰も見当たらなくて、隣のカウンターの人に声をかけると、いつ来るか分からないよ、という生返事。とてもレンタカー会社の社員とは思えないようないい加減な対応に、あの70リンギッはエージェントとしての彼個人の取り分だったのかも知れないと、何とも怪しげないい加減なところもまたペナンらしいと、つい合点してしまいます。
 運転し始めると、車線をふらふらはみ出すいい加減な走りや、交差点での強引な割り込み、そして突然右側から追い越しをかけるバイクに驚かされるのもまたペナンらしくて、血が騒ぎます(なお、マレーシアは植民地支配されたイギリスに倣い、日本と同じ右ハンドル)。かつてペナンに生活していた頃、蜂の子のように群がるバイクに往生し、私なりにいくつか運転原則を打ち立てたのを思い出しました。急な車線変更は要注意、急な加速・減速も要注意、日本人気質丸出しで譲っていては馬鹿を見る、の三点です。まあ、謙譲の美徳は、世界広しと言えども日本人だけに見られる資質と考えるべきでしょう。それにしても、日本車が増えたように感じたのは気のせいではないのでしょう。マレーシア建国の祖とも言うべきマハティール首相(当時)は、二十年余りの在任中、日本の高度成長を見習うルック・イースト政策を掲げ、その一つとして、国産のProtonやPeroduaなどの自動車産業を立ち上げたことで有名です。しかし、品質の悪さは否めず、それでも国産車保護のため税的優遇政策をとり続け、日本車をはじめとする外車は高嶺の花と位置づけられていました。独断と偏見を許されるならば、貧しいマレー人はバイク、ちょっと豊かになると国産車、金持ちの華人は日本車やドイツ・イタリア車を乗り回しますが、そこまで行かない華人は韓国車、といったような見えない厳然たる序列があったように思います。そんな中で日本車が増えた気がしたのは、豊かな人が増えたということか。
 ホテルにチェックインした後、早速、かつて通い慣れたショッピング・モールであるGurney Plazaに行こうとして、Gurney Paragon Mallなる大規模ショッピング・コンプレックスに辿りついて、てっきり買収されて再開発されたのかと勘違いしたのですが、そうではなく、新たに造成されたものと分かりました。それほどに偉容を誇り、アジアの中核的都市であるクアラルンプールやバンコクやジャカルタやマニラに見るような、アジア的と言うより華僑的と言うべきかも知れません、豪華絢爛な造りにあらためて目を見張り、ついにアジア的な開発独裁の波がペナン島にも押し寄せたのかと、感慨深いものがありました。値段も、ブランド物はグローバル共通かと思わせるほど、貧しいマレーシアとは思えない値付けで、驚かされました。豊かな人が増えているのは間違いありません。そして、かつて誰もが・・・つまり地元民の憧れだけでなく海外駐在員の生活必需の場として訪れていたGurney Plazaが健在だったのを知って嬉しくなったのも束の間、今やすっかり色褪せ、地元民の憩いの場に堕しているかのように見えたのが、時代の流れを感じ、ちょっと寂しくもありました。しかし、当時と変わらない、お気に入りのF.O.S.(Factory Outlet Store)や地元の百貨店Parksonがあって、安心して買い物が出来る使い勝手の良さが掛けがえのないものであったことは言うまでもありません。
 夕食は、ペナン島ジョージタウンの街のレストランで三本の指に数えられると我が家が自信を以てお勧めできる韓国料理の店Seoul Gardenに行きました(Gurney Plaza やQueensbay Mallに入っているチェーン展開している店とは異なります、念のため)。そして、当時のままにママさんに出迎えられたことに感動しました。当時、それこそ毎月二・三度は訪れて、子供たちが同じインターナショナル・スクールに通っていたご縁もあって、顔馴染みだったのですが、子供たちは成長して見違えても、私たちはちょっと皺や白髪や体重が増えたり髪が薄くなったりして歳を重ねただけでそれほど変わることはないせいでしょうか、なんとも懐かしい気分に浸ることが出来ました。そんな気分とともに、この店のカルビ・タンやユッケ・ジャンなどのスープ物は昔のまま、実に美味くて堪能しました。
 ペナン二日目のことは、稿をあらためます。
 上の写真はGurney Plaza(但し裏玄関)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア点描・サイゴン

2014-11-18 00:15:04 | 永遠の旅人
 今回の出張で訪れた三つ目の都市・ホーチミン市(Ho Chi Minh City、略称HCMC、人名と区別するためにCityを付けるそうです)では、今なお旧名サイゴンが公式・非公式にさまざまな場面で使われ、都市名としてはホーチミンよりも通じるほど(Wikipedia)なのだそうです。なんだか同じベトナムでありながら占領・被占領の人々の間の微妙な感情が垣間見えます。「サイゴン」と言うと、私には、子供の頃、新聞一面を飾った「サイゴン陥落」の文字が強烈に印象付けられ、一種のノスタルジックな感情を催します。子供でしたから、当時、何を思ったか、その後に加えらえた感情も入り混じって、今となっては正確に思い出せませんが、国が戦に敗れることの悲哀(戦後世代にとっては想像力の世界ですが)、しかも、代理戦争だったとは言え、圧倒的な強さを誇り世界の警察官を任じる、あのアメリカでも敗れるという、俄かには信じ難い衝撃と一種の脱力感のようなものに彩られ、なんとも曰く形容しがたいものがあります(と、このように表現すると、後年の脚色まみれになりますが)。しかし「ホーチミン市」と言うと、もはやそんな情念渦巻く印象は掻き消され、明らかに戦後の町になってしまいます。
 珍しく今回の出張では週末を挟み、土曜日にホーチミン市からシンガポールを経由してメルボルンに移動する日程で、どうせシンガポール発の夜行便に乗るので、ホーチミン市でなるべく長い時間を過ごすことにし、土曜の朝、ホテルから歩いて15分というので、散歩がてら統一会堂 (Dinh Thống Nhất)を訪れました。
 これは、南ベトナム政権時代の旧大統領官邸で、閣議室から、応接室、宴会場、寝室、映画館やダンスホールやビリーヤード台のほか、屋上には常に緊急用ヘリが待機し、地下には指令室や通信室など軍事施設を備え、大小100以上の部屋がある豪勢なもので、今でも国賓や会議の際に利用され、普段は観光客向けに一般公開されています。地下には立入禁止の通路や開かずの間が多く、どうもその先の通路の一つはタンソンニャット空港まで続いているという噂もあるようです。何より、1975年4月30日、所謂(北の)解放軍の戦車が無血入城を果たし、ベトナム戦争が終結した歴史的な建物でもあります。先ほど触れたように、アメリカ的な文脈では「サイゴン陥落」と呼ばれ、現地では「サイゴン解放」と呼ばれるものです。
 ロバート・カプラン氏は近著「南シナ海」で、「8世紀のチャンパ王国(注:ベトナム中部沿海地方に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国、192~1832年)は、北はダナンから南はドンナイ川平原まで領土を広げた」とジャン・フランソワ・ウベール氏が「チャンパの芸術」(The Art of Champa)に書いたくだりを引用し、「これをベトナム戦争の時代にたとえると、北限がベトナム戦争時代の軍事境界線、南限がサイゴンだ。よって、ウベールの中世の地図は、冷戦時代の地図をそのまま示している」と言い、「ベトナム南部の歴史・文化の伝統の源となっているチャンパ王国は、中国化した大越(注:北部の王国で、1000年以上も中華帝国の属州だった)よりも、つねにクメール王朝(9~15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアの元となった国)やマレー人の世界との関係が深かった」と述べています。ベトナム戦争で戦った北と南は、当時のソ連とアメリカからそれぞれ支援を受けつつ、中華圏に属する地域と、南アジアおよび東南アジア圏に属する地域の歴史的な対立だったとも言えるのを知ると、感慨深いものがあります。東南アジアというのは、奥が深い。
 上の写真は、統一会堂から見る敷地内の前庭と、その先にはレユアン通り。この道を解放軍の戦車がやって来たのかと思うと感慨深いのですが、今はその面影すらなく、観光客が訪れる公園であり、オートバイが疾駆する成長著しいベトナムの喧騒の街の一角でしかありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア点描・対中

2014-11-15 22:46:53 | 永遠の旅人
 一週間、日本を離れている間に起こったことで驚いたことが二つありました。一つは、衆議院解散・総選挙が既成事実化されていたこと。政局の観点から見れば、これから国論の割れる政策課題に挑み支持を落とすかも知れない自民党にとって、2年後の選挙に挑むより、安定的な支持を得ている今の内に選挙をこなして4年の時間を稼ぐことに意義を見出すのは、当然の発想なのでしょう。しかし私たち国民には明らかな争点が見えない上、総選挙一回で800億円もの血税が投入されると知れば、何ら大義がないことに憤りを隠せないのもまた当然の発想です。もう一つは、事前予想を大幅に超える25分に及んだ約3年振りの日・中首脳会談です。正式な首脳会談を開くために、中国側は、領土問題(尖閣諸島を巡る領土問題が日・中に存在することを日本側が認めること)と歴史問題(安倍首相が今後靖国神社を参拝しないことを表明すること)の2つの条件を提示したそうですが、以前から条件をつけないと公言していた安倍首相は、いずれをも呑むことはありませんでした。そのため、習近平総書記は、ロシアのプーチン大統領や韓国の朴槿惠大統領を国賓として迎え、公式の首脳会談としながら、安倍首相との会談で撮影された写真には両国の国旗を映さず、単にAPEC主催国の首脳とAPEC出席国の首脳との非公式会談に格下げし、ぎこちない笑みを浮かべて歩み寄る安倍首相に目を合わせることなく仏頂面で応じました。まるで未熟な子供の喧嘩ですね。世界第二の経済大国の首脳たるものが、なんと料簡の狭いことでしょう。テレビのニュース映像を見ていて可笑しくなりました。これこそ、中国側が如何に国内の反発をおそれ、神経質になっているかの証左と言えましょう。日本側では日中歩み寄りの第一歩と好意的に受け止められていますが、何のその。実際に、当日夜のCCTV(中国国営中央テレビ)は、習近平総書記と外国要人の会談の様子を延々報じた後、安倍首相との会談はパプアニューギニアに続く7ヶ国目に、ほんの数秒間、握手の場面を放映しただけだったようです。挙句に、事前に発表された4項目の合意文書の英語版は共同で作成せれず、それぞれ勝手に作成して別々に発信されました。因みに、領土に関わる項目3を、日本側では“Both sides recognized that they had different views as to the emergence of tense situations in recent years in the waters of the East China Sea, including those around the Senkaku Islands…”と訳したのに対し、中国側では“The two sides have acknowledged that different positions exist between them regarding the tensions which have emerged in recent years over the Diaoyu Islands and some waters in the East China Sea…”と訳しました。お分かりの通り日本は領土問題で「異なる見解」(different views)と述べた(つまり日本は領土問題を認めていない)のに対し、中国は「異なる立場」(different positions)と、さも領土問題が存在するかのように言い、日本は「尖閣諸島を含む東シナ海における緊張」と述べたのに対し、中国は「東シナ海の尖閣諸島を巡る緊張」と名指しするなど、お互いに都合の良い言い方を貫きました。
 前置きが長くなりました。今回、出張で訪れたフリピンにしてもベトナムにしても、中国を仮想敵国として(と言うと言い過ぎかな)、防衛装備や海上監視の装備を着々と整え、しかもこれらの分野では日本企業に期待を寄せています。
 ちょっと古いデータですが、アウンコンサルティングが2年前にアジア10ヶ国で実施した親日度調査によると(http://www.auncon.co.jp/corporate/2012/2012110602.pdf)、フィリピンは日本という国が「大好き」「好き」合わせて94%(各67%、27%)、ベトナム97%(各34%、52%)に達し、中国55%(各14%、41%)や韓国36%(各8%、28%)と対照をなしました。実は東南アジアのどの国も大同小異で、タイ93%(各58%、35%)、インドネシア91%(各41%、50%)、シンガポール90%(各66%、24%)、マレーシア86%(各41%、45%)といった塩梅です。ついでながら同調査で、台湾84%(各49%、35%)、香港84%(各46%、38%)となっており、中国と韓国の異常さが際立ちます。
 だからと言って、戦前の大日本帝国による侵略の歴史が全て許されていると考えるのは早計でしょう。しかし、東南アジア諸国は、中国や韓国と違って、自らの統治の正統性を主張する契機に乏しく、過去に拘るより未来を見ていることは確かで、しかも大東亜共栄圏というコンセプトに似て、「敵の敵は味方」という(蛇足ですが、当時の敵は西欧植民地帝国であり、また今の敵は中国であり、敵の敵はいずれも日本と位置づけられます)、冷徹な国際政治の現実感覚から、日本に好意を寄せているに過ぎないとも言えます。勿論、戦後70年にわたり日本が平和勢力として台頭した国のありようが評価されていることは間違いありません。日本は、ODAなどの経済援助にあたって、中国のように美味しいところを全て自国・自国民でかっさらうような品性下劣なところはありませんし、何か自国に有利なように条件をつけることもありませんから・・・。
 フィリピンのアキノ大統領は、今月4日、マラカニアン宮殿(大統領府)で日本記者クラブ取材団と会見し、「集団的自衛権行使を容認するための日本の憲法解釈変更を改めて歓迎、南シナ海や東シナ海での中国の台頭を念頭にフィリピン軍と自衛隊の『合同演習ができればよい』と述べ、防衛協力の段階的深化に期待を示」すとともに、「領有権問題で国際社会が中国の強硬姿勢を前に沈黙すれば、この問題に『関心がないような印象を与え、(中国を)さらに増長させてしまう』と警鐘を鳴らし、国際規範を守るよう圧力をかけ続ける必要を訴え」ました(産経Web)。さらに今年2月4日の米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)とのインタビューでは、「過ちだと信じていることをそのまま認めてしまえば、(中国の)誤った意思が一線を越えかねないと指摘」し、「世界は中国に『いいかげんにしろ』と言うべきだと、国際社会に警鐘を鳴らし」ました。その上で「1938年に当時のチェコスロバキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに併合された歴史を挙げ、『ヒトラーをなだめて大戦を防ごうと割譲されたことを忘れたか』とし、融和策の危険性を訴え」ました(いずれも産経Web)。フィリピンは、中国との間でスプラトリー諸島(南沙諸島)の領有権を巡る対立で、2012年春、中国から「嫌がらせ」の一環でフィリピン・バナナの輸入制限が始まり、日本へのバナナ輸出が増えたこと(そのためバナナの価格が下がっていること)が報じられたことがありましたが、多分、状況は変わっていないことでしょう。
 ベトナムもまた、中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)の領有権を巡って緊張を高めたこと、しかも小国でありながら果敢に中国に立ち向かったことは記憶に新しいところです。中国が5月にこの海域で石油掘削リグを設置したことが知れると、ベトナムが抗議し、海上で両国漁船が衝突したり、ベトナムの工業団地で反中暴動が起きて死者が出たりするなどし、中国は7月に係争海域からリグを撤去しました。
 日本としては、あくまで平和国家としての原則を崩すことなく、一方で、これら東南アジア諸国との間で、甘い幻想に浸ることなく、過去を真摯に反省しつつ、信頼を醸成しながら、他方で、冷徹な国際政治の現実感覚をもって、粛々と連携を進めるべきだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア点描ふたたび

2014-11-12 23:41:25 | 永遠の旅人
 一週間、アジア・大洋州に出張していました。マニラ(フィリピン)→ハノイ(ベトナム)→ホーチミン(ベトナム)→メルボルン(オーストラリア)の4都市を回り、使った航空会社は、フィリピン航空、タイ航空、ベトナム航空、シンガポール航空、カンタス航空の5社、ハノイ行きはフライトの便が悪くバンコク経由となり、ホーチミンからメルボルンに行くのもまた不便で遠いためシンガポール経由の夜行便となるなど(帰国便もシドニー経由で成田への夜行便)、成田以外に7つの空港に降り立ち、移動にほとほと疲れ果ててしまった一週間でした。
 それでも、メルボルンへの往復の夜行便2泊はさておき、マニラ、ハノイ、ホーチミン、メルボルン各都市でちゃっかり1泊ずつしてしっかり食事をとれたのは決して狙ったわけではなく、勿怪の幸いでした。マニラでは何故かいつも日本食レストランに連れて行って貰うので省略します(それだけ現地駐在員にとって出張者を連れて行くローカルの恰好のレストランを見つけるのは難しいのだろうと察しますが、どうでしょうか)。ベトナムでは、アメリカ西海岸駐在の頃に覚えてお気に入りのベトナム麺のほか、本格ベトナム料理を堪能しました。ホーチミンの、もとはシルクの高級ストールが有名で、今やコーヒーショップやレストランやリゾート開発も手掛けるカイ・シルク(Khaisilk)のオーナーが経営するNam Phanという高級店で、高級フランス料理店と見紛うようなコロニアル調の建物に、味は現地にいる方々の間では賛否あるようですが、凝った盛り付けに、調度品や照明などの落ち着いた雰囲気は、文句なしに素晴らしい(そのかわり値段もそれなりです)。トランジットで立ち寄ったシンガポール空港のフードコートでは、ささっと(これもまたお気に入りの)肉骨茶(バクテー)をすすることができ、メルボルンでは、フリンダース・ストリート駅のはす向かい、サウスバンクにある高級店でワイン片手にオージー・ビーフを頬張って、ちょっとご満悦でした。
 しかし、こうした食事も含めて、それぞれの国の最も良い面ばかりを、つまりは上っ面を撫でて過ごしただけで、とても「アジア点描」などというブログ・タイトルには値しません。本当は、地図を片手に自らの足で路地を歩き、さまざまな店を自らの目や耳や鼻や舌で試して、観光ガイドにはない発見をして自己満足に浸りたい・・・ところですが、空港とホテルとオフィスをタクシーで往復するだけの籠の鳥状態で、私自身、極めて不本意でした。
 辛うじて、マニラでは、この7月に国の人口が1億人を突破したそうで、人口の半分以上が25歳以下、実際に平均年齢は23歳と言われ、ベトナムなど周辺国に比べて圧倒的に若い労働力が経済成長(因みに2013年の実質GDP成長率は7.2%)を押し上げる「人口ボーナス」が続いているとされる、その片鱗を、都会の喧騒と共に、タクシーの窓越しに感じました。ハノイやホーチミンでは、相変わらずのオートバイの洪水はあらためて息をのむほどで、こうした状況では、急な加速・減速はご法度、車線変更も細心の注意を要するといった、マレーシア・ペナンでの運転を、つい昨日のことのように思い出しました。こうしたアジアの成長に引き換え、メルボルンの落ち着いた佇まいは、私たち日本人に、ある種の安心感を催させます。逆に、フィリピンやベトナムの、一面、豪勢な高層ビルが立ち並ぶ開発独裁の勢いに圧倒され、他面、目を背けたくなるような薄汚い裏道やスラム街が残って、懐かしいやら街の若さが羨ましいやら、心がさざ波立って、情緒不安定になるのが、良くも悪くもアジアなのでしょう。
 上の写真は、Nam Phanにかかれば、春巻きだってこんな盛り付け・・・趣味が余りよろしくないと思うのは私だけではないかも。隣に鎮座するのはローカル・ビールの「333(現地語でそのままバーバーバーと呼びます、一説には3つの3という意味でバーバーとも)」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア紀行(下)

2014-07-17 00:19:41 | 永遠の旅人
 前々回、そして前回の続きで、今回はいよいよ食の話です。
 今回の出張では、シンガポールに三泊したので、シンガポール料理を堪能しました。実は私が入社した頃、当時の上司や先輩は、シンガポール料理が美味くないとさんざんこぼしていたもので、今から思うとそれはニョニャ料理(ニョニャは娘惹と書いて、海峡中国人の意、ニョニャ料理は中華料理の食材とマレー料理のスパイスとを掛け合わせたマレーシアやシンガポールに特有のローカル中華料理で、味にクセがあります)だったからではないかと思うのですが、今となっては究明する術はありません。しかし明らかに言えることは、その後、シンガポールの地位が向上するとともに、新たな移民がもたらした中華料理は、遥かに洗練されており、今では九大(Best Nine)チャイナタウンの一つに挙げられるほどの活況を呈しています(因みに、残りの8つは、横浜、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルル、バンクーバー、ロンドン、シドニー、バンコクだそうで、私はこの内、ホノルルとバンクーバーのみ行ったことがありません)。
 初日は現地駐在員とともに、オーソドックスな庶民的広東料理を食し、二日目は我が社のCFO殿もたまたまシンガポールに出張で来られていて、ペーパーチキンとやらをご一緒し、三日目は同行した上司と二人だけで中華街の奥深くに分け入って怪しげな湖南料理をトライしました(これは四川料理以上に辛くて翌朝苦労しました、毒を食らわば皿までの心境・・・)。
 そもそもシンガポールを代表する中華料理は何かと聞かれると、答えるのはなかなか難しい。もともと福建省や広東省などの貧しい農村から出稼ぎに来た人が多かったので、私の知る限り、福建麺を使ったバリエーション料理や海南チキンライス(鶏飯、日本人がイメージするものとは違って、蒸し鶏がどてっとご飯の上に載っています)、またマレー料理をもとにした肉骨茶(バクテー)やシンガポール・ラクサ、そして先ほどのニョニャ料理を思い浮かべますが、いずれも庶民的な屋台(ホーカーセンター)料理であり、個室で食するようなオーソドックスな料理となると、土地柄、広東料理が一番人気でしょうが、今では四川や北京や上海など、何でもありと言えるのではないかと思います(が、このあたりの話になると私も自信がありません)。
 そんな中、現地法人社長が連れて行ってくれたのは、ペーパーチキンのお店でした。かつてマレーシア駐在の間、何度かシンガポールで遊びましたが、全く知りませんでした。ペッパー・チキンではありません、タレに漬け込んだ鶏肉をペーパー(油紙)に包んで揚げたもので、その油紙を破いて鶏肉だけを食べます(当たり前ですね)。油紙に包んでいるので、肉汁も逃さず、なかなか美味ですが、そんなに驚くほどではありません。しかし、訪れたレストラン・ヒルマン(嘉臨門大飯店)は、「世界的に有名なフランス人シェフ、ポール・ボキューズ氏が、シンガポールを訪れた時に、この店のペーパーチキンを食べて『このペーパーチキンにミシュラン3ツ星を進呈したい』と評したことから、一気にシンガポール中に評判が広がり、有名店となったという逸話を持つ」(All Aboutの稲嶺さん)というのですから、驚きです。実際に、訪れた日も多くの日本人客で賑わっていました。
 むしろ、私にとって嬉しかったのは、ローカル・フードの代表である肉骨茶(バクテーと発音します、福建語由来)の食べ比べが出来たことです。マレーシアでは、ベスト100が話題を呼ぶほど、それぞれのお店が個性ある味を競うもので、韓国のキムチに相当すると言ってもよいのでしょう。そして、マレーシアのそれは、ぶつ切りの豚あばら肉や内臓を、漢方薬に用いるスパイスと中国醤油で煮込むため、どす黒く濁って、見た目には味付けが濃いとつい思ってしまいがちですが、勿論コクはありますが、意外にあっさりしていて、ぶっかけご飯にするとご飯が進んでクセになる味です。他方、シンガポールでは、その国柄のユニバーサル性と相俟って、クリア・スープで、どちらかと言うと胡椒による味付けが中心で、万人受けする美味しさは、実は私には物足りないのですが、美味いことは間違いない。
 そして最後に、今、マレーシアではラマダンの時期にあたり(ムスリムのヒジュラ暦の第9月、日の出から日の入りまで断食をします。今年は6月28日~7月27日)、日中、マレー人の生産性が落ちたりするわけですが(苦笑)、ホテルの朝食のバッフェでは、日没とともに食するクエと呼ばれるマレー菓子やスイーツが並んでいて、とても懐かしく思いました。毎日ならちょっとご勘弁・・・とも思いますが、やはり欧米と違ってアジアは私たち日本人には感覚が近く、なかなか飽きることはありません。
 なお、上の写真は、現地法人のオフィス玄関にあった飾り付けです。Selamatは「おめでとう!」の意。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア紀行(中)

2014-07-15 00:18:35 | 永遠の旅人
 前回の続きで、今日は、シンガポールでも中国語放送を流し続ける中国の国営テレビ局CCTVを見たときの雑感です。
 外食後、ホテルに戻ってシャワーを浴びて、まだ飲み足りなく感じて近所のコンビニまでビールとつまみを買いに行って、英語の字幕が出るので何とはなしに見ていました。7月7日、七夕の日は、中国が言う日中戦争、私たちが子供の頃に習った日華事変または支那事変のキッカケとなった盧溝橋事件からちょうど77年目だったようで、日本の「新しい教科書」に絡めて、日本の若者が正確に近代史を理解していないことを嘆く日本人の有識者の声を、もっともらしく伝えていました。日本の進歩的知識人(というのは今どき死語でしょうか?)は、日本の良識派として中国共産党に利用されている(国益を損なっているとまでは言いませんが)現実を、知ろうとも思わないのでしょうね。
 こうした日本の(中国に都合の良い)映像利用も含めて、中国はディスインフォメーションを垂れ流し続け、心ある国際社会から眉を顰められています。また、最近で言えば、イラク問題に関して、中国はイラクの石油業界への最大の投資国としてイラク政府に一定の影響力を有していながら、通り一遍のコメントを出しただけで沈黙を守り続けており、世界に対しては「大国扱い」を求めながら、自らは大国らしく振舞う気がない、所謂ご都合主義も、心ある国際社会からは見透かされています。
 更に、最近、南シナ海と東シナ海における中国の海洋進出を巡り、敵の敵は味方という現実感覚からか、日本に急接近しつつあるフィリピンと日本の協力に対して、中国外務省は、「中国の台頭を封じ込める作戦の一部」と見て、安倍総理とアキノ大統領の共同声明に不快感を示し、フィリピン政府に対して「関係国は故意に緊張を高め、地域情勢に緊張と対立を招くような要素を増やすべきではなく、誠意を示して中国と同じ方向に進むべきだ」と言い放ったそうです。ニューズウィーク7/8号は、これを、アジアの盟主である中国に逆らったり、日本の味方をしたりすれば、痛い目に合うということらしい、と言い換えていました。ことほど左様に、最近は、近隣の小国に対して恫喝も辞さない構えです。
 CCTVに戻りますと、中国が目指すのは、ウソも100回言えば本当になる・・・ということだと、まことしやかに語られます。国際社会は心ある人たちばかりではなく、いかにも勿体つけてわざとらしいCCTVであっても、疑心なく無垢に目にする人は少なくないわけで、日本としても何らかの対策が必要であるのを実感します。目には目を、歯には歯を・・・と同じ目線で対抗するのではなく、全く異次元で、そう、政治的な駆け引きや権謀術数の苦手な日本人としては、日本人らしさを見せつけることだと思います。問題は、世界中で存在感を示すことです。ただ大人しく、つき従っていればよい、というものではありません。
 そのためにも、私たち自身が自信をもたなければならない。同じくニューズウィーク7/8号によると、フィリピン・アキノ大統領は、集団的自衛権行使を容認する日本国憲法の解釈変更に賛成し、「日本国民もそれを望んでいる」ことを前提に、「国際的義務を果たす日本の能力が強化され、両国の共通目標である平和・安定・相互繁栄に近づくならば、フィリピンは日本国憲法を見直す如何なる提案にも警戒の念は抱かない」、「日本政府が他国を助ける力を得れば、善意の国家にとっては恩恵あるのみだ」とも語ったそうです。そして演説の締め括りに、アキノ大統領は日本人に「過去のとりこにならない」ように呼びかけたそうです。
 これを読んで、マレーシア駐在時代の上司(マレーシア華人)から言われたことを思い出しました。「日本人は国際社会でもっとリーダーシップをとるべきだ」と。返答に困って、「いや、日本人は第二次世界大戦のときにアジアで侵略行為を行ったことから罪悪感を引き摺っていて、自信をもって行動するのを妨げられているのだ」と言い訳すると、「それは君たちの世代の問題ではない」と一喝されたものでした。同じ中華系でありながら、東南アジアで土着している華人は、中国共産党とは違って、過去に囚われることなく、現実的に今を生きているのだと感じたものです。それは、日系企業に勤める親しさからという理由によるものではないのは、狭い社会ながらも、近隣の知り合いや、不動産屋のおばちゃんやおねえちゃんや、マーケットのおじさんや、学校の子供繋がりで様々なバックグラウンドをもつ父兄も同じだったことからも明らかです。マレーシアの日本人と付き合うことによって祖国で受けた反日の歴史教育が間違っていたことを認識したと告白した韓国人がいたことは、以前、このブログでも触れました。
 安倍総理の積極的な外交姿勢が国際社会で評価されています。私たち一般人も、頑張って存在感を示したいものだと、これは、普通に海外にいれば多かれ少なかれ日本国を背負うことになる、また日本人の代表と見られざるを得ないことへの、ささやかな矜持の宣言でもありますが。
 上の写真は、シンガポールの新しいビル群の谷間に残るコロニアル調の建物(これは床屋ですね、中華街にて)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア紀行(上)

2014-07-12 22:03:16 | 永遠の旅人
 半年振りのアジア出張で、一年ぶりにシンガポールとマレーシアを訪れました。久しくブログにはご無沙汰しておりましたが、取り急ぎ、印象を記します。今回は、国の戦略性の話です。
 シンガポールがマレーシアから独立したのは1965年のことでした。来年は50周年で盛大にお祝いされることでしょう。私たち日本人は、独立と言うと、国家や民族の悲願と思いがちですし、私自身も、マレーシアに駐在する9年前までは漠然とそう思っていました。しかし、国民に独立を伝えるテレビ演説で、当時のリー・クアンユー氏(開発独裁を象徴する伝説的な首相)は涙を流したと伝えられます。マレー人優遇政策を進めるマレーシアから、華人主体のシンガポールは体よく捨てられたのでした。シンガポールは、高低差が少ない狭い国土で、水資源にも乏しいため、マレーシアとしては、水と食料を握れば、容易にコントロール出来ると見たフシがあります。
 確かに、その後も、私がマレーシアに滞在していた当時も、マレーシアは、水道料金を値上げするとか、水の供給を止めると言っては、シンガポールを困らせ(端的に、脅し)、ただでさえお隣同士で仲が悪い両者は言い争っていたものでした。因みに、以前、ブログに書いたことがありますが、東南アジアでは、お隣同士が仲が良くないのは当たり前で、日本が韓国や中国との仲を気にする必要は全くありません。余談ですが。
 ところが、いろいろ話を聞いていると、シンガポールは、もはや下水処理や淡水化の技術で世界をリードする存在になっており、今なおコストが高くつくため、マレーシアから水を輸入しているようですが、有事の際には、マレーシアからの輸入が途絶しても、国家として自立してやっていけるだけの能力を備えるに至ったそうです。マレーシアから独立して49年、経済や科学技術では既にマレーシアを凌駕し、540万人という都市国家で、国のありようが全く異なるため単純比較は難しいですが、一人当たりGDPでは日本の上を行く5万1千ドル(IMFの2009年報告)と、イスラム国家としては優等生のマレーシア(1万4千ドル)の3.5倍で、ASEANでも独り勝ちの様相で、なかなかしぶとい。
 安倍首相が5月末にシンガポールを訪問し、シャングリラ・ダイアローグ(会議自体の日程は5月30日~6月1日)において基調演説を行い、積極的平和主義を理念とする日本の安全保障政策について発信して好評を博したのは記憶に新しいですが、シンガポール人は、その時の安倍首相とリー・シェンロン首相(怪人リー・クアンユーの息子)との間の“Security Alliance”を好意的に受け止めていました。日本では殆ど報道されませんし、何のことだろうと外務省のウエブサイトを見ても、何か特別な取り決めがあったような記述は見当たりません。表向き、中国を刺激する発言を控えつつ、日本の報道では、アメリカ寄りのフィリピンやベトナムと、中国寄りのカンボジアやラオスなどとの間で、ニュートラルに位置づけられ、一種のバランサーのように振舞っているかに見えますが、イギリスの植民地だった親しさがあるでしょうし、Wikipediaを見ると、「冷戦を通じてアメリカ軍との関係も深ま」り、「1990年にはアメリカ軍によるシンガポール国内施設の使用に関する覚書を締結」し、「シンガポール軍の装備も、アメリカ製が多い」ようですし、「台湾との間で『星光計画』と呼ばれる協力関係が1975年以来続いて」おり(シンガポールの国土が狭いため、当時のリー・クアンユー首相と蒋経国総統の間で、シンガポール陸軍部隊の訓練を台湾国内で行うことなどを取り決めたもの)、「台湾と対立を続ける中国もシンガポール軍に海南島の訓練施設の提供を申し出たが、シンガポール側はこれに応じていない」し、「シンガポールとフィリピンが「台湾有事」の際に、台湾の防衛に協力するという「敦邦計画」が存在するとの報道もある」など、古くは東西貿易の中継地として、また最近は欧米企業のアジア地域統括本部として機能し、金融・観光サービスへの投資を呼び込むための自己認識は、なかなかしたたかでしっかりしているように見えます。
 シンガポールを見ていると、国家規模が小さいだけに、繰り返しますが、都市国家と国のありようが異なり単純比較は難しいですが、戦略的とも言うべきものとして、日本が見習うことは多そうです。
 上の写真は、この日のマーライオン。世界三大がっかりの一つですが、この日も盛況でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする