国のありように思いを致して、結論めいた話は、昨日のブログに既に滲ませておりますので、今日は、その実証データを一つ挙げたいと思います。昨日、予告したもう一つの話題である、シンガポールとマレーシアの為替の話です。
シンガポールがマレーシア連邦から分離・独立したのは1965年のことです。シンガポールではイギリス植民地時代に流入した華人が人口の過半を占め、マレー人と華人の平等政策を主張しましたが、マレーシア連邦ではマレー人が人口の過半を占めマレー人優遇政策を採ろうとしたため、対立が激化したからでした。端的には、マレーシア連邦が、シンガポールを連邦内に留めることによって華人の有権者が増えるのを嫌ったとも言われます。独立と言いながら、かつてマレー独立運動で盟友だったラーマン・マレーシア連邦首相から追放されたに等しいものであったことから、独立を国民に伝える演説の中で、リー・クァンユーは、自制心を失って泣き出す場面もあったそうです。その後、シンガポールとマレーシアは、隣国同士で影響を与え合いながらも、別々の道を歩みました。
その後ほどなくしてシンガポールに造幣局ができ、独自の通貨を持つに至りますが、暫くはマレーシア・ドル(リンギット)も併用し、シンガポール・ドルとマレーシア・リンギットは等価でした。ところが1973年に為替相場が適用されてから、経済力の差を反映して、貨幣価値に差が生まれ始め、今では1シンガポール・ドルは2.5マレーシア・リンギット、つまり2.5倍強くなりました。国力の差を反映していると言えます。
シンガポールについて、断片的な知識をもとにWikippediaで調べてみました。63の島からなる島嶼国家ですが、最も大きなシンガポール島でも、東西42km、南北23kmしかなく、日本の都道府県で最も面積が小さい香川県の半分以下、島の大きさで比べれば奄美大島と対馬の間の大きさでしかありません。そのため空港からも至近で便利この上ない一方、今でもマレーシアから水を購入しているように、天然資源は不足しています。世界に通用する目ぼしい地場産業もなかったことから、外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ちたて、優遇税制や安価な熟練工を提供するなど、投資環境を整備しました。同時に、政府は経済の厳重な統制を維持し、土地、労働と資本的資源の配分を管理したとも言われます。また国防も脆弱だったことから、スイスを手本として非同盟と武装中立を国是とし、徴兵制を導入したほか、フランスやイギリスから装備を購入し、その後、ASEAN諸国や五ヶ国防衛取極め締結国、他の非共産主義諸国などとも軍事関係を築くなど、着々と軍備増強を進めました。政治面では実質的な一党独裁で、まさにアジアに象徴的な開発独裁を牽引し、各種マスコミに対する報道規制もあるため、非政府組織(NGO)「国境なき記者団」が実施する報道の自由度調査(2010年)では178の国・地域中136位と評価は低く、「明るい北朝鮮」と揶揄されることもあります。
その生い立ちには、リー・クァンユーをはじめとする客家人の影を感じます(以下もWikipediaから引用)。漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な漢民族とされながら、戦乱から逃れるため中原から南へと移動を繰り返し、移住先で原住民から“よそ者”「客家」と呼ばれた「客家人」は、移民の通例として土地の所有が困難だったため流通や商業に従事することが多く、師弟の教育にも熱心なことで知られ、商業の他に教育の高さから教職に就くことが多いといった特徴が似ていることから、「中国のユダヤ人」と言われ、ユダヤ人、アルメニア人、印僑とともに「四大移民集団」と呼ばれます。東南アジアに暮らす華人の実に三分の一は客家人とされます。伝統的な中国人の発想として卑しめられることが多かった軍人になったり、反乱や革命に参加したりする者も多く、太平天国の指導者・洪秀全や、中国国民党の孫文などを輩出しました。台湾の李登輝も客家人です。そんな客家人が社会の枢要を占めるシンガポールは「東洋のイスラエル」とも呼ばれ、目覚ましい、しかし特異な発展を遂げました。
古くから東西貿易の拠点として栄えて来ましたが、今や香港と並び多国籍企業のアジア・太平洋地域の重要な拠点(Headquarters)が置かれることが多く、東南アジアの金融センターとしても確固たる地位を築きました。一人当たりGDPは5万ドルに達し、世界経済フォーラムの研究報告書(2011年)において、国際競争力が世界第2位の高い国と評価されました。マレーシア連邦からの追放という挫折をバネに、小さいが故に戦略的に国家を建設し、小さくてもキラリと光る国へと発展を遂げたシンガポールは、契機こそ違うものの、ピューリタンの使命感を背景に、イギリスから独立したアメリカと、なんとなく重なります。共通するのは、国民が歴史的背景を共有しないため、連帯し国としてまとまるためには、将来に向かって人工的な国造りの伝説を紡ぎ続ける必要があることでしょうか。初めから国としてそこにあった日本とは対極にある、これらの国のありようは、未曾有の国難に直面する日本には、少なからぬ示唆を与えるように思います。
シンガポールがマレーシア連邦から分離・独立したのは1965年のことです。シンガポールではイギリス植民地時代に流入した華人が人口の過半を占め、マレー人と華人の平等政策を主張しましたが、マレーシア連邦ではマレー人が人口の過半を占めマレー人優遇政策を採ろうとしたため、対立が激化したからでした。端的には、マレーシア連邦が、シンガポールを連邦内に留めることによって華人の有権者が増えるのを嫌ったとも言われます。独立と言いながら、かつてマレー独立運動で盟友だったラーマン・マレーシア連邦首相から追放されたに等しいものであったことから、独立を国民に伝える演説の中で、リー・クァンユーは、自制心を失って泣き出す場面もあったそうです。その後、シンガポールとマレーシアは、隣国同士で影響を与え合いながらも、別々の道を歩みました。
その後ほどなくしてシンガポールに造幣局ができ、独自の通貨を持つに至りますが、暫くはマレーシア・ドル(リンギット)も併用し、シンガポール・ドルとマレーシア・リンギットは等価でした。ところが1973年に為替相場が適用されてから、経済力の差を反映して、貨幣価値に差が生まれ始め、今では1シンガポール・ドルは2.5マレーシア・リンギット、つまり2.5倍強くなりました。国力の差を反映していると言えます。
シンガポールについて、断片的な知識をもとにWikippediaで調べてみました。63の島からなる島嶼国家ですが、最も大きなシンガポール島でも、東西42km、南北23kmしかなく、日本の都道府県で最も面積が小さい香川県の半分以下、島の大きさで比べれば奄美大島と対馬の間の大きさでしかありません。そのため空港からも至近で便利この上ない一方、今でもマレーシアから水を購入しているように、天然資源は不足しています。世界に通用する目ぼしい地場産業もなかったことから、外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ちたて、優遇税制や安価な熟練工を提供するなど、投資環境を整備しました。同時に、政府は経済の厳重な統制を維持し、土地、労働と資本的資源の配分を管理したとも言われます。また国防も脆弱だったことから、スイスを手本として非同盟と武装中立を国是とし、徴兵制を導入したほか、フランスやイギリスから装備を購入し、その後、ASEAN諸国や五ヶ国防衛取極め締結国、他の非共産主義諸国などとも軍事関係を築くなど、着々と軍備増強を進めました。政治面では実質的な一党独裁で、まさにアジアに象徴的な開発独裁を牽引し、各種マスコミに対する報道規制もあるため、非政府組織(NGO)「国境なき記者団」が実施する報道の自由度調査(2010年)では178の国・地域中136位と評価は低く、「明るい北朝鮮」と揶揄されることもあります。
その生い立ちには、リー・クァンユーをはじめとする客家人の影を感じます(以下もWikipediaから引用)。漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な漢民族とされながら、戦乱から逃れるため中原から南へと移動を繰り返し、移住先で原住民から“よそ者”「客家」と呼ばれた「客家人」は、移民の通例として土地の所有が困難だったため流通や商業に従事することが多く、師弟の教育にも熱心なことで知られ、商業の他に教育の高さから教職に就くことが多いといった特徴が似ていることから、「中国のユダヤ人」と言われ、ユダヤ人、アルメニア人、印僑とともに「四大移民集団」と呼ばれます。東南アジアに暮らす華人の実に三分の一は客家人とされます。伝統的な中国人の発想として卑しめられることが多かった軍人になったり、反乱や革命に参加したりする者も多く、太平天国の指導者・洪秀全や、中国国民党の孫文などを輩出しました。台湾の李登輝も客家人です。そんな客家人が社会の枢要を占めるシンガポールは「東洋のイスラエル」とも呼ばれ、目覚ましい、しかし特異な発展を遂げました。
古くから東西貿易の拠点として栄えて来ましたが、今や香港と並び多国籍企業のアジア・太平洋地域の重要な拠点(Headquarters)が置かれることが多く、東南アジアの金融センターとしても確固たる地位を築きました。一人当たりGDPは5万ドルに達し、世界経済フォーラムの研究報告書(2011年)において、国際競争力が世界第2位の高い国と評価されました。マレーシア連邦からの追放という挫折をバネに、小さいが故に戦略的に国家を建設し、小さくてもキラリと光る国へと発展を遂げたシンガポールは、契機こそ違うものの、ピューリタンの使命感を背景に、イギリスから独立したアメリカと、なんとなく重なります。共通するのは、国民が歴史的背景を共有しないため、連帯し国としてまとまるためには、将来に向かって人工的な国造りの伝説を紡ぎ続ける必要があることでしょうか。初めから国としてそこにあった日本とは対極にある、これらの国のありようは、未曾有の国難に直面する日本には、少なからぬ示唆を与えるように思います。