ある生態人類学の研究者の話を聞いた。
アフリカのコンゴ民主共和国の奥地に住むボンガンドという焼畑農耕民に、「ボナンゴ」という不思議な(と思うのは現代の文明社会の私たちだけなのかも知れないが)コミュニケーションが存在するらしい。主に中年や老年(ときに女性や若者も)が通りで大声で「呟く」もので、それが「明日みんなで橋を修理しよう」、「村の男が森で迷って帰ってこない」などといった情報伝達的な話であれば分かるのだが、そればかりではなく、「うちの孫が学校に行きたがらない」、「今日は日が照って暑すぎる」、「いつも雨ばかりだ、嵐が来ないで欲しい」といった個人的でどうでもいい、しょーもない話もあり、数百メートル先まで届くような通る声で(あるいは道具:トーキング・ドラムを使うと数十キロ先まで届くらしい)、短いものもあれば20~30分続くこともあるのだそうだ。理由は、とにかく話すことを欲するらしい。特定の相手に向けられたものではなく、従い明示的な受け手がいるわけでもなく、一方向的に行われるという意味で、「対話」ではなく「発話」であり、その研究者はBroadcastという形容がピッタリだと言い、「投擲的発話」と呼んでいる。近所の人々は、まさにラジオに接するような感覚で、聞くとはなしに聞き、せいぜい小さな笑い声をあげる程度で、さほど関心を示すわけでもない(儀礼的無関心)らしい。
そこで研究者は言う。そもそも「対話」はコミュニケーションの一つでしかなく、「発話」という形式もある。つまり私たちは「対話的」であるのを良しとしてしまう「対話ドグマ」に陥っているのではないか、と。
もう一つ、人工知能における重要な難問の一つで、「有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示す『フレーム問題』」(Wikipedia)にも言及する。私たちは、普段、入って来る情報の全てを処理しないで、不要な情報を「都合よく切る」ことが出来るが、人口知能はそうはいかない。そもそも人工知能は有限の情報処理能力しか持たないので、現実に起こりうる全ての問題に対処し切れない。ある指示を与えられると(Wikipediaでは「マクドナルドでハンバーガーを買え」という例で説明する)、「人工知能は起こりうる出来事の中から、関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう」(Wikipedia)というものだ。ところが「ボナンゴ」ではごく自然に情報をふるい分け、殆どの情報が流される(無視される)。
さて、この「ボナンゴ」は、不特定多数に対して放擲される、相手のことを考えない「呟き」であり、聞き手も余り深刻に受け止めずに聞き流す・・・ご存知ツイッターに酷似しているという指摘がある。近代社会において抑圧されてきたものが、インターネットというIT技術によって可能になり、解放されたのではないか、対話的ではないコミュニケーションの形態を再び得ることになったのではないか、と言うわけだ。
ほんの30年前まで、私たちは携帯端末を一人一台もつことなど想像出来なかった。ところが今では繋がることが便利になって、むしろアップアップしているのが現実ではないだろうか。かつて、オフィスを離れるのは仕事を離れるのと同義だった。BYOとは、シドニーで、レストランに自ら酒を持ち込む(Bring your Own、これは酒類取扱い免許取得にうるさく、免許をもたないレストランが多い当地でのひとつの知恵)ことを指しているものと思っていたら、個人使用のスマホやタブレットやパソコンをビジネスでも使う意味で使われるようになって(BYOD=Bring Your Own Device)、公私がシームレスに区別なく繋がるようになってしまった。私たちは、オン・オフを上手く使い分けているのだろうか。
アフリカ奥地の話を聞いて、あらためて、私のブログだって、元々は個人的な記録で始めて、今では立派に不特定多数に向けた「呟き」であり、共鳴できる関係を心のどこかで求めているのではないかと思うと、これもまたコミュニケーションの一つと言えるし、また、溢れる情報を適当に遮断すること(それによって必要な情報処理にフォーカスすること)もまた高度なコミュニケーション能力(情報処理能力と言うべきか)だったことを、あらためて思い知った次第である。私たちは、現代社会の中で当たり前のこととしていることの外に、そうではないものを実は忘れ去っているのではないかということに思い至る。生態人類学、おそるべし。
アフリカのコンゴ民主共和国の奥地に住むボンガンドという焼畑農耕民に、「ボナンゴ」という不思議な(と思うのは現代の文明社会の私たちだけなのかも知れないが)コミュニケーションが存在するらしい。主に中年や老年(ときに女性や若者も)が通りで大声で「呟く」もので、それが「明日みんなで橋を修理しよう」、「村の男が森で迷って帰ってこない」などといった情報伝達的な話であれば分かるのだが、そればかりではなく、「うちの孫が学校に行きたがらない」、「今日は日が照って暑すぎる」、「いつも雨ばかりだ、嵐が来ないで欲しい」といった個人的でどうでもいい、しょーもない話もあり、数百メートル先まで届くような通る声で(あるいは道具:トーキング・ドラムを使うと数十キロ先まで届くらしい)、短いものもあれば20~30分続くこともあるのだそうだ。理由は、とにかく話すことを欲するらしい。特定の相手に向けられたものではなく、従い明示的な受け手がいるわけでもなく、一方向的に行われるという意味で、「対話」ではなく「発話」であり、その研究者はBroadcastという形容がピッタリだと言い、「投擲的発話」と呼んでいる。近所の人々は、まさにラジオに接するような感覚で、聞くとはなしに聞き、せいぜい小さな笑い声をあげる程度で、さほど関心を示すわけでもない(儀礼的無関心)らしい。
そこで研究者は言う。そもそも「対話」はコミュニケーションの一つでしかなく、「発話」という形式もある。つまり私たちは「対話的」であるのを良しとしてしまう「対話ドグマ」に陥っているのではないか、と。
もう一つ、人工知能における重要な難問の一つで、「有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示す『フレーム問題』」(Wikipedia)にも言及する。私たちは、普段、入って来る情報の全てを処理しないで、不要な情報を「都合よく切る」ことが出来るが、人口知能はそうはいかない。そもそも人工知能は有限の情報処理能力しか持たないので、現実に起こりうる全ての問題に対処し切れない。ある指示を与えられると(Wikipediaでは「マクドナルドでハンバーガーを買え」という例で説明する)、「人工知能は起こりうる出来事の中から、関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう」(Wikipedia)というものだ。ところが「ボナンゴ」ではごく自然に情報をふるい分け、殆どの情報が流される(無視される)。
さて、この「ボナンゴ」は、不特定多数に対して放擲される、相手のことを考えない「呟き」であり、聞き手も余り深刻に受け止めずに聞き流す・・・ご存知ツイッターに酷似しているという指摘がある。近代社会において抑圧されてきたものが、インターネットというIT技術によって可能になり、解放されたのではないか、対話的ではないコミュニケーションの形態を再び得ることになったのではないか、と言うわけだ。
ほんの30年前まで、私たちは携帯端末を一人一台もつことなど想像出来なかった。ところが今では繋がることが便利になって、むしろアップアップしているのが現実ではないだろうか。かつて、オフィスを離れるのは仕事を離れるのと同義だった。BYOとは、シドニーで、レストランに自ら酒を持ち込む(Bring your Own、これは酒類取扱い免許取得にうるさく、免許をもたないレストランが多い当地でのひとつの知恵)ことを指しているものと思っていたら、個人使用のスマホやタブレットやパソコンをビジネスでも使う意味で使われるようになって(BYOD=Bring Your Own Device)、公私がシームレスに区別なく繋がるようになってしまった。私たちは、オン・オフを上手く使い分けているのだろうか。
アフリカ奥地の話を聞いて、あらためて、私のブログだって、元々は個人的な記録で始めて、今では立派に不特定多数に向けた「呟き」であり、共鳴できる関係を心のどこかで求めているのではないかと思うと、これもまたコミュニケーションの一つと言えるし、また、溢れる情報を適当に遮断すること(それによって必要な情報処理にフォーカスすること)もまた高度なコミュニケーション能力(情報処理能力と言うべきか)だったことを、あらためて思い知った次第である。私たちは、現代社会の中で当たり前のこととしていることの外に、そうではないものを実は忘れ去っているのではないかということに思い至る。生態人類学、おそるべし。