東京オリパラ大会組織委員会の森喜朗会長が辞任された。後任人事の透明性に問題があったことも拍車をかけた。予想されたこととは言え、ここまで来たかと思うと感慨深い。まあ、今さら過ぎたことでもあり、このブログでは差し障りのあることを書こうと思う(笑)。
正直なところ、コロナ禍に伴う緊急事態宣言下のストレスに晒されたポピュリズムの酷さ、と言うより「怖さ」を見せつけられた思いでいる。言葉狩り、近世ヨーロッパで言えば魔女狩り(裁判)、スケープ・ゴート・・・言い方はいろいろあるが、ちょっと行き過ぎではなかったかと率直に思う。センセーショナリズムを追い求めるメディアの暴走と、感情に流されやすい世論の危うさと、そんな空気を読むばかりの政治の信念のなさと。もっとも、毎日新聞と社会調査研究センターの世論調査によると、森さんの「辞任は当然」69%、「辞任する必要はなかった」21%、「わからない」10%だそうで、天邪鬼の私は、こういう時はだいたい少数派になってしまうので、私の妄想などアテにならないことをお断りする(笑)。
特にメディアの責任は重いように思う。例えば、アメリカのサキ報道官は「(森会長の女性蔑視発言に関して)まったく容認できるものではありませんでした」と語ったが(FNNプライムオンラインなど)、海外のメディアや関係者が、どこまで森会長の発言を仔細に読み込んでいるかは甚だ疑問だ。前回ブログで書いたように森会長発言は問題あるにしても「女性蔑視」と捉えるのは典型的なフェイクだと思うが、海外のメディアは、日本のメディア報道を引用するか、日本の識者にコメントを求めるか、日本の識者や日本人記者が寄稿することが多くて、結果として「女性蔑視」が世界に拡散してしまったのではないかと思う。そして海外の報道は日本の報道の「鏡」でしかないのに、日本のメディアはそれを有難がって、更に拡大再生産する・・・日本人はいまだに海外からどう見られるかを気にする心象と相俟って、日本のメディアが大騒ぎして(その前提には、国民が大騒ぎしているからだが)、海外のメディアを巻き込んで、騒ぎを大きくしているだけのように見える。
世論の責任も重い。このコロナ禍でオリパラ!?という否定的な心象が背景にありそうだ。そもそも世論は信頼できるようで、信頼できない(が、信頼できないようで、存外、信頼できるものでもある)。正確に言うと、短期的には間違うことが多い(が、長期的にはそれほど間違わないのではないかと、日本のようにある程度成熟した民主主義国についてはそう思う)。今回の森会長辞任や、前回の緊急事態宣言下でツイッターデモ500万人を集めたとかいう検察庁法改正案の問題は、程度の差はあるが、短期的に血迷った類いではなかったかと、突き放してそう思う。振り返れば、2009年の政権交代のとき、こんなんでええんかいな・・・と呆然自失となった。私は海外駐在から帰国したばかり(三ヶ月以内)で、一時的に選挙権がなくて無力感に囚われたのだが、別に私の見識云々ではなく、単に私は海外にいて日本の「空気」を理解していなかったので、冷静さを保ち得たのだろうと思う。案の定、「政権交代。」は三年で挫折した。世論は一時的に見誤り、それに懲りて、その後は野党を見る目が厳しくなって、安倍・長期政権に繋がった(その良し悪しは別にして)。もっと遡れば、戦前の日本もそうで、一時的に(マスコミとともに)血迷って、それに懲りて、戦後はちょっと行き過ぎではあるが・・・恐らく、このあたりが民主主義の弱みであり、強みでもあって、短期的には不安定になるが、長期的には安定するものだと思う。
このあたりは、海外に目を転じても、そう思う。昨今のコロナ禍対応の欧米・民主主義国は、短期的な混乱の極みにある。他方、中国の全体主義的権威主義は、悔しいことに、短期的には強権によってコロナを封じ込め、安定している(とは言え、長期的にどうなのか・・・と強がってみたところで、詮無いことではある)。アメリカの民主主義は、孤立主義と国際協調主義の間を振り子のように揺れると言われるように、短期的に不安定なのは、最近のオバマ→トランプ→バイデンと、振り子のように極端に振れるのを見ても、よく分かる(が、私はなおアメリカの長期的な安定や強さを信じている)。
こうして、短期的=「経験」、長期的=「歴史」と置き換えるのは牽強付会に過ぎるが、「経験」に頼っていては見間違うので「歴史」に学ぶべしと言われたビスマルクの「愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ」といったような格言に通じるように思う。実際、歴史は知恵の宝庫だが、奥が深く、前提とする環境や諸条件が違い過ぎるため、本当の意味で「学び」を得るのは難しい。歴史から学ぶのは、豊富な「経験」を踏まえた良質な「想像力」を備える「賢者」にしか出来なことだろうと思う。ついでながら、マーク・トウェインは「歴史は繰り返さない。が、韻を踏む」というようなことを言われた。この「韻」こそが「学び」のポイントだろう。
暴走してしまったので閑話休題。短期的には、メディアにしても世論にしても、アテにならないものだと身構えた方がよいのではないだろうか。ちょっと極端ではあるが、そもそも人の世で100%クリーンということはあり得ない。8割か、せいぜい良くて9割が、まともな気持ちで遂行されれば、よしとすべきではないかと、50年生きて来た私は諦めている。人には理性だけでは収まり切らない「欲」や、与えられた役割の裏に隠れた「私」があるからだ。今回のケースでは、不幸にして1割か2割のいかがわしさから、人々の反発を誘引してしまった側面があるように思う。いや、世の中のポリティカル・コレクトネスが進んで、私のようないい加減な老人が追い付いていないだけかも知れない。あな、恐ろしや・・・。
正直なところ、コロナ禍に伴う緊急事態宣言下のストレスに晒されたポピュリズムの酷さ、と言うより「怖さ」を見せつけられた思いでいる。言葉狩り、近世ヨーロッパで言えば魔女狩り(裁判)、スケープ・ゴート・・・言い方はいろいろあるが、ちょっと行き過ぎではなかったかと率直に思う。センセーショナリズムを追い求めるメディアの暴走と、感情に流されやすい世論の危うさと、そんな空気を読むばかりの政治の信念のなさと。もっとも、毎日新聞と社会調査研究センターの世論調査によると、森さんの「辞任は当然」69%、「辞任する必要はなかった」21%、「わからない」10%だそうで、天邪鬼の私は、こういう時はだいたい少数派になってしまうので、私の妄想などアテにならないことをお断りする(笑)。
特にメディアの責任は重いように思う。例えば、アメリカのサキ報道官は「(森会長の女性蔑視発言に関して)まったく容認できるものではありませんでした」と語ったが(FNNプライムオンラインなど)、海外のメディアや関係者が、どこまで森会長の発言を仔細に読み込んでいるかは甚だ疑問だ。前回ブログで書いたように森会長発言は問題あるにしても「女性蔑視」と捉えるのは典型的なフェイクだと思うが、海外のメディアは、日本のメディア報道を引用するか、日本の識者にコメントを求めるか、日本の識者や日本人記者が寄稿することが多くて、結果として「女性蔑視」が世界に拡散してしまったのではないかと思う。そして海外の報道は日本の報道の「鏡」でしかないのに、日本のメディアはそれを有難がって、更に拡大再生産する・・・日本人はいまだに海外からどう見られるかを気にする心象と相俟って、日本のメディアが大騒ぎして(その前提には、国民が大騒ぎしているからだが)、海外のメディアを巻き込んで、騒ぎを大きくしているだけのように見える。
世論の責任も重い。このコロナ禍でオリパラ!?という否定的な心象が背景にありそうだ。そもそも世論は信頼できるようで、信頼できない(が、信頼できないようで、存外、信頼できるものでもある)。正確に言うと、短期的には間違うことが多い(が、長期的にはそれほど間違わないのではないかと、日本のようにある程度成熟した民主主義国についてはそう思う)。今回の森会長辞任や、前回の緊急事態宣言下でツイッターデモ500万人を集めたとかいう検察庁法改正案の問題は、程度の差はあるが、短期的に血迷った類いではなかったかと、突き放してそう思う。振り返れば、2009年の政権交代のとき、こんなんでええんかいな・・・と呆然自失となった。私は海外駐在から帰国したばかり(三ヶ月以内)で、一時的に選挙権がなくて無力感に囚われたのだが、別に私の見識云々ではなく、単に私は海外にいて日本の「空気」を理解していなかったので、冷静さを保ち得たのだろうと思う。案の定、「政権交代。」は三年で挫折した。世論は一時的に見誤り、それに懲りて、その後は野党を見る目が厳しくなって、安倍・長期政権に繋がった(その良し悪しは別にして)。もっと遡れば、戦前の日本もそうで、一時的に(マスコミとともに)血迷って、それに懲りて、戦後はちょっと行き過ぎではあるが・・・恐らく、このあたりが民主主義の弱みであり、強みでもあって、短期的には不安定になるが、長期的には安定するものだと思う。
このあたりは、海外に目を転じても、そう思う。昨今のコロナ禍対応の欧米・民主主義国は、短期的な混乱の極みにある。他方、中国の全体主義的権威主義は、悔しいことに、短期的には強権によってコロナを封じ込め、安定している(とは言え、長期的にどうなのか・・・と強がってみたところで、詮無いことではある)。アメリカの民主主義は、孤立主義と国際協調主義の間を振り子のように揺れると言われるように、短期的に不安定なのは、最近のオバマ→トランプ→バイデンと、振り子のように極端に振れるのを見ても、よく分かる(が、私はなおアメリカの長期的な安定や強さを信じている)。
こうして、短期的=「経験」、長期的=「歴史」と置き換えるのは牽強付会に過ぎるが、「経験」に頼っていては見間違うので「歴史」に学ぶべしと言われたビスマルクの「愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ」といったような格言に通じるように思う。実際、歴史は知恵の宝庫だが、奥が深く、前提とする環境や諸条件が違い過ぎるため、本当の意味で「学び」を得るのは難しい。歴史から学ぶのは、豊富な「経験」を踏まえた良質な「想像力」を備える「賢者」にしか出来なことだろうと思う。ついでながら、マーク・トウェインは「歴史は繰り返さない。が、韻を踏む」というようなことを言われた。この「韻」こそが「学び」のポイントだろう。
暴走してしまったので閑話休題。短期的には、メディアにしても世論にしても、アテにならないものだと身構えた方がよいのではないだろうか。ちょっと極端ではあるが、そもそも人の世で100%クリーンということはあり得ない。8割か、せいぜい良くて9割が、まともな気持ちで遂行されれば、よしとすべきではないかと、50年生きて来た私は諦めている。人には理性だけでは収まり切らない「欲」や、与えられた役割の裏に隠れた「私」があるからだ。今回のケースでは、不幸にして1割か2割のいかがわしさから、人々の反発を誘引してしまった側面があるように思う。いや、世の中のポリティカル・コレクトネスが進んで、私のようないい加減な老人が追い付いていないだけかも知れない。あな、恐ろしや・・・。