最近、Yahooニュースを見ていると、やたら韓国系日刊紙の記事が目に付く。掲載コストが安いのか(そこに韓国側の意図が働いているのか)、親会社Zホールディングスの孫さんに忖度しているのか・・・。こうして目に付く記事で鼻につくのは、何かと日本と比較して、良く言えばライバルとしてベンチマーキングするように見えて、その実、日本に負けたくない根性が丸出しなところであろうか。様々な機関が発表する世界ランキングでは必ず比較して一喜一憂し、最近のパンデミックでは、ワクチン接種に出遅れたが人口当たりでは進んでいるなどとはしゃいでみせる。私も小学生の頃、近所の同級生から何故かライバル視され、偏執的にまとわりつかれて、暑苦しいったらなかった(笑)。ハーバード大学教授の慰安婦論文に対する批判では、自らに正義があると信じるがために、事実や証拠はどうでもよくて、強制性を示す証拠はいっぱいあるなどと大噓を吐き、学術論文なのに河野談話(という政治発言)に合致しないと頓珍漢な批判をし、有無を言わさぬ組織的な言論封殺で世界中を巻き込んで、恥じるところがない。
先ごろのサッカー日韓親善試合では、欧州組の主軸を招集できなくて0-3で完敗したことが余程悔しかったと見えて、韓国代表のユニホーム左胸に日本の国旗を並べてプリントしていることに、屈辱的だとか自尊心は何処に行ったと難癖をつけ、勝負には負けても防疫対策では韓国の方が進んでいると辛うじてガス抜きをして、終には韓国サッカー協会会長がホームページで謝罪するに至った。「失望されたサッカーファン、サッカー人、国民のみなさまに、サッカー協会会長として誠に申し訳なく思っております」で始まり、「競技力不足で、大きなご心配をお掛けしたことを誠に申し訳なく思っております」「最良の状態で試合ができるように支援できなかった同協会の責任がもっと大きい」と、監督に非難が集中するのを擁護し、「今回のことを反省し、今後はもっと積極的な支援をしていきたい」「原因を正確に把握し、6月から再開するW杯予選ではサッカーファンと国民のみなさまに、新しく生まれ変わった代表チーム、喜びと希望を与える代表チームになるよう万全を期する所存」「もう1度、真心を込めて謝罪を申し上げます」と結んでいる(スポーツ報知による)。韓国のコロナ感染で土下座して謝罪する人の映像を見たことがあるが、責任が明らかで言い逃れ出来ないときの、韓国における「謝罪」はかくも異様で、重たい。
それほど重たいものだけに、外国人から見て韓国人は滅多なことでは謝罪しないのが一般的な評価だ。親にしか謝らないとか、日本にはじゃんけんでも負けてはならない、などと聞いたこともある。在日韓国人学者によると、韓国人が謝らないのは「チェミョン(メンツ)」を大事にするからで、謝れば自分の非を認めることになり、一生、その挽回は出来なくなると考えているからだという。このあたりの大袈裟な(恐らく儒教的な)感覚は、ちょっとしたことでも「失礼」「すみません」「ごめんなさい」と、言わば社会の潤滑油のように口をつく日本人には、およそ測り難い。
それなのに、韓国はいとも簡単に日本に謝罪せよと要求する。慰安婦問題では、過去に日本の歴代政権が何度謝罪しても、足りないようだ。最近、日本政府が竹島を「固有の領土」とする高校教科書を検定で合格させたことに対し、「強く抗議し、即時是正を求める」と批判した中で、慰安婦問題について再び、「問題の本質を日本政府が正確に認識して、自ら表明した責任の痛感と謝罪・反省の精神に立ち、関連する歴史の教育に臨むことを促す」と表明した。何かと両国関係は「未来志向的」に発展しなければならないと言う国は、世界広しと言えども韓国くらいで、過去にこだわり過ぎるからであり、そのココロは結局このあたりにある。
司馬遼太郎さんはかつて、「儒教とは華(文明)であるにはどうすればいいかという『宗教』で、『野蛮』を悪とした。しかし現実には文明が野蛮に服従している」と喝破された。2013年の「三・一独立運動」記念式典で朴槿恵大統領(当時)が、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」と発言したときには日本中が驚いたものだが、文明(=韓国)が野蛮(=日本)に服従した(と韓国人が認識する)歴史の中で蓄積された「恨(ハン)」を雪ぎたい一心だったのだろう。韓国人にとって日本への「謝罪」要求は、文明(=韓国)が野蛮(=日本)に優越することを確認する一つの有力な作業なのだろう。日本が戦後、武装解除してGHQの統治に服している隙を狙って韓国が窃取した竹島に対して、日本が領有権を主張することに対して、韓国が狂ったように反発するのは、歴史上、竹島(彼らにとっては独島)は日本に勝利した唯一の証拠として、機微に触れるからだろう。
事実を直視すればいいのにと思うが、なんと窮屈な思い込みで、いつまでもファンタジーに浸っていることだろう・・・
先ごろのサッカー日韓親善試合では、欧州組の主軸を招集できなくて0-3で完敗したことが余程悔しかったと見えて、韓国代表のユニホーム左胸に日本の国旗を並べてプリントしていることに、屈辱的だとか自尊心は何処に行ったと難癖をつけ、勝負には負けても防疫対策では韓国の方が進んでいると辛うじてガス抜きをして、終には韓国サッカー協会会長がホームページで謝罪するに至った。「失望されたサッカーファン、サッカー人、国民のみなさまに、サッカー協会会長として誠に申し訳なく思っております」で始まり、「競技力不足で、大きなご心配をお掛けしたことを誠に申し訳なく思っております」「最良の状態で試合ができるように支援できなかった同協会の責任がもっと大きい」と、監督に非難が集中するのを擁護し、「今回のことを反省し、今後はもっと積極的な支援をしていきたい」「原因を正確に把握し、6月から再開するW杯予選ではサッカーファンと国民のみなさまに、新しく生まれ変わった代表チーム、喜びと希望を与える代表チームになるよう万全を期する所存」「もう1度、真心を込めて謝罪を申し上げます」と結んでいる(スポーツ報知による)。韓国のコロナ感染で土下座して謝罪する人の映像を見たことがあるが、責任が明らかで言い逃れ出来ないときの、韓国における「謝罪」はかくも異様で、重たい。
それほど重たいものだけに、外国人から見て韓国人は滅多なことでは謝罪しないのが一般的な評価だ。親にしか謝らないとか、日本にはじゃんけんでも負けてはならない、などと聞いたこともある。在日韓国人学者によると、韓国人が謝らないのは「チェミョン(メンツ)」を大事にするからで、謝れば自分の非を認めることになり、一生、その挽回は出来なくなると考えているからだという。このあたりの大袈裟な(恐らく儒教的な)感覚は、ちょっとしたことでも「失礼」「すみません」「ごめんなさい」と、言わば社会の潤滑油のように口をつく日本人には、およそ測り難い。
それなのに、韓国はいとも簡単に日本に謝罪せよと要求する。慰安婦問題では、過去に日本の歴代政権が何度謝罪しても、足りないようだ。最近、日本政府が竹島を「固有の領土」とする高校教科書を検定で合格させたことに対し、「強く抗議し、即時是正を求める」と批判した中で、慰安婦問題について再び、「問題の本質を日本政府が正確に認識して、自ら表明した責任の痛感と謝罪・反省の精神に立ち、関連する歴史の教育に臨むことを促す」と表明した。何かと両国関係は「未来志向的」に発展しなければならないと言う国は、世界広しと言えども韓国くらいで、過去にこだわり過ぎるからであり、そのココロは結局このあたりにある。
司馬遼太郎さんはかつて、「儒教とは華(文明)であるにはどうすればいいかという『宗教』で、『野蛮』を悪とした。しかし現実には文明が野蛮に服従している」と喝破された。2013年の「三・一独立運動」記念式典で朴槿恵大統領(当時)が、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」と発言したときには日本中が驚いたものだが、文明(=韓国)が野蛮(=日本)に服従した(と韓国人が認識する)歴史の中で蓄積された「恨(ハン)」を雪ぎたい一心だったのだろう。韓国人にとって日本への「謝罪」要求は、文明(=韓国)が野蛮(=日本)に優越することを確認する一つの有力な作業なのだろう。日本が戦後、武装解除してGHQの統治に服している隙を狙って韓国が窃取した竹島に対して、日本が領有権を主張することに対して、韓国が狂ったように反発するのは、歴史上、竹島(彼らにとっては独島)は日本に勝利した唯一の証拠として、機微に触れるからだろう。
事実を直視すればいいのにと思うが、なんと窮屈な思い込みで、いつまでもファンタジーに浸っていることだろう・・・