風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

眞子さまと白鵬が背負うもの

2021-11-06 12:09:50 | 日々の生活
 秋篠宮家の長女・眞子さまが小室圭さんと結婚され、皇室を離れて小室家の眞子さんと、普通に「さん」付けで呼ばれるようになった。本来、おめでたい場であるはずの結婚会見だったが、一種異様な印象は、今なお小骨のように喉に、と言うより心に突き刺さって、その薄っすらとした痛みがわだかまっている。
 TVのワイドショーなどは、質問を受け付けない、従い、これまで騒がれてきた小室家の金銭トラブルの疑惑に対して納得のいく説明がなく、ただ自分たちが言いたいことを一方的に主張するだけに終わった頑なな態度を、批判的に報じていたようだが、私はただ寂しく切なかった。ノンフィクションライターの窪田順生氏によると、会見で「誤った情報」という表現が8回、「いわれのない物語」という表現が3回、「誹謗中傷」が2回、繰り返され、自分たちに批判的な人たちを、言い方こそ皇族らしく婉曲的だったが、結局は故なく「フェイク」と決めつけるような言わば「トランプ話法」を駆使された・・・とは言い得て妙だが、私には、それが国民への決別会見のように見えて寂しかった。早速、ニューヨークの弁護士試験に合格しなかったとか、眞子さんの恐らく最大の理解者だったであろう祖父・川嶋辰彦さんが亡くなるという、幸先悪いニュースが流れたが、準備が整い次第、予定通り日本を捨ててアメリカに旅立たれるのだろうか。
 若気の至りだろうと思う。しかし、そんな眞子さんを、誰が責めることが出来ようか。
 今回に限って矮小化して見れば、何十頁にも及ぶ、よく分からない文書で逃げるのではなく、小室さんご本人がしっかり問題に向き合うべきだったと思う。しかし、真相はうやむやなまま、眞子さんが力づくでカバーアップすることでケリをつけてしまった後味の悪さばかりが残る。
 そして、この不幸な、言わば国民との物別れは、この先、皇室という日本で最も由緒ある旧家の「伝統」を、国民一人ひとりがどのように受け止めるかという根本問題を突き付けている。
 かつて結婚は「家」と「家」が親戚づきあいの縁を結ぶものだった。今も結婚式場では「~家」と「~家」の挙式場との看板が立つ。50年前なら、天皇家ではなくて一般家庭であっても、今回のように親に問題がある人との結婚には、一応のいちゃもんがついたことだろう。
 戦後、共同体的な「家」同士の問題だった結婚が、少なくとも一般家庭においては「両性の合意」によって成り立つとする近代的なタテマエが実質を帯びるようになった。今では「長男の嫁」という特別な地位はほぼ認められない。それを、伝統ある皇室にどこまで認めるかどうかは、立場によっていろいろな考え方があり得る。ロイヤルファミリーを持たない共和制の自由・民主主義諸国の識者や、日本でも人権弁護士のようなリベラル派や、時代の先端を行く若者たちの鋭利な(しかし未成熟な)感覚からすれば、個人としての愛や一人の女性としての幸せを貫くことに拍手喝采を送っていることだろう。また、私のごく身近にも皇室は無駄だと広言する人がいて驚かされるが(無駄の中にこそ文化が宿るものだと思うが 笑)、皇室利用という言葉に見られるように、皇室の「権威」を見せつけられて嫌悪する人もいることだろう。そして恐らく多くの国民は、伝統ある皇室を素朴に敬う余り、お相手が皇室に「相応しい」か否かという意味での「家格」に拘り、此度のご結婚を物足りなく思っていることだろう。何と言っても、殆ど民主化した日本にあって皇室は殆ど唯一と言ってもいい「アイドル」家系なのだ。
 それが、近所のお節介なおっちゃん・おばちゃんが井戸端で噂するレベルであれば他愛ないところだが、SNSの匿名の時代に、しかもこのコロナ禍で荒んだ心が吐け口を求めて口汚くネット空間を暴れまわるだけでなく、リアルな世界にも漏れ出して、誹謗中傷と受け止められて、当事者が精神的に病む事態に至ったのは、不幸なことだった。。悪意ある場合は除いて、「裏切られた」という思いがあったのだろうか。
 宗教改革以来、歴史的に「個人」の確立に一日の長があるヨーロッパでは、最近は英国のほか、ノルウェーのホーコン皇太子やスウェーデンのヴィクトリア王太子のように、物議を醸しながらも「普通」の結婚を貫き、周囲の理解を得るに至る例が増えて来た。しかし、日本では「個人」の確立が遅れている上、ヨーロッパのように国境を越えて王室同士の血が混ざって、EUという地域で束ねられても抵抗がないほど一体感がある(その分、純潔は薄れた)土地柄と違って、大陸から程よく離れた島国で、征服の歴史がなく、純粋培養された皇室が1000年、1500年という単位で続く尊さは、世界に類を見ない奇跡であるだけに、「普通」であることへの軋轢は今なお小さくない。女性皇族でこの騒ぎになるということは(これだけではなく、かつて皇室に入られた一般女性は失語症を患われ、適応障害を患われた)、男性皇族のときは如何ばかりかと、先が思い遣られる。逆に、皇族のお立場からすれば、一応は民間人となられる女性皇族ですらこの有様では、一生、逃れられない運命を背負った男性皇族のご苦悩は如何ばかりかと、心底、慮られる。
 レベル感は違うが、大相撲という「伝統」芸能の世界にも通じるものがある。
 白鵬関が引退された。凋落する大相撲界を牽引して来られた功労者だが、角界ではおよそ「横綱らしくない」という、モンゴル人にとってみれば甚だ理不尽とも映るであろう評価が根強く、その功績を素直に受け入れられない一定層が存在する(斯く言う私もその一人だ 溜息)。朝青龍関ほど「やんちゃ」ではないと思われていた白鵬関でも、寄る年波に勝てず、余裕がなくなって行くに従い、勝ちにこだわる余り、「横綱らしくない」言動が目立つようになった。所詮、モンゴル相撲は伝統芸能ではなくて格闘技なのだ。その本性が隠しおおせなくなったということだろうか。あるいは、「横綱らしさ」に拘る妙な日本人を挑発し続けたのだろうか。しかし、「伝統」に拘る日本人には、横綱は英語表記されるSumo Championを超えるもの、ただ勝って、強ければよしとするのではなく、勝ちっぷりや普段の立ち居振る舞いに至る「品格」が重視される存在である、とする考え方が今なお根強い。
 皇室に見る「家格」と、大相撲に見る横綱の「品格」。
 個人は尊く、自由・民主主義をあまねく貫徹すべし、とする考え方には、基本的に誰も否定できない。他方で、妙な拘りとも言える「伝統」を拭い去った世界がのっぺらぼうで、ひだひだのある潤いや味わいが失われてしまうのは余りに惜しいと感じることもまた、私には否定することができない。
 ここに来て、これまで大っぴらに論じられることはなかった皇室の存在意義を問い直す発言が堂々と登場するようになった(たとえばプレジデント・オンライン11月4月付、弁護士の堀新氏コラム『「すべての公務を廃止しても問題はない」 皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと』など。因みにプレジデントは、人権派弁護士のコラムやアメリカ人の王室ジャーナリストへのインタビューを通して、民主化キャンペーンを張っているかのようだ 笑)。これまで曖昧にされて来たが、皇統の問題に向き合うにあたり、主権者たる国民が、あらため考えなければならない課題だろう。
 私は、皇室は神道的な清らかさを体現する、日本人らしい精神性そのものであると思うし、西欧の王室のように革命の対象になることなく、仁徳天皇の「かまどの煙」伝説以来、国民の安寧と繁栄を祈り、ひいては世界の平和を祈られるという(歴史的には奇麗ごとばかりではなかったのだが)、日本らしい国のありようのバックボーンを形成していると思う(こうした崇高な理念があってこそ、現実政治における権力政治的な対処が重要になる)。もとより常に身近に感じる存在ではなく、普段はむしろ気にすることなく生活する私たちが、たまに行われる儀礼を通して、日本人の来し方を振返り、そのありようを確認することができる、曰く言い難い有難い存在だ。天皇陛下が海外の要人と面会されるときの皇室内の部屋の、贅を尽くした華美とは対極にある、洗練された質素な趣はつとに知られるところで、中東・アラブの王室から寄せられる敬意は、(歴史的に対立して来たキリスト教ではないこともあって)絶大なものがあると言われるし、お隣の中国や韓国にとっては、悔しくてもどう逆立ちしても持ち得ない、永遠の憧憬(と嫉妬)の対象であろう。皇室が持ち得る外交的な価値は計り知れない。皇室や、また大相撲の世界くらいには、それぞれなにがしかの(全てとは言わないが合理的だけではない神秘的な!?)「らしさ」をそれなりに残して欲しいものだと思う。
 こうした、1000年、1500年という単位で続く「伝統」を守るのは、皇室と私たち国民との共同作業である。そして、その変容をどこまで許容するかは、持続可能性との兼ね合いで、私たち国民に突き付けられた覚悟の問題であり、煎じ詰めれば美意識あるいは美学の問題に行きつく。そこが何やら難しいところで、近代的な価値と対立する中で、均衡点を見出すまでには時間がかかるだろう。時間をかけて、じっくり馴染ませて行ければよいが、それが許される状況なのか、むしろ持続可能な形へと誘導する努力が必要なのではないか・・・なかなか悩ましい問題だ。少なくともその間の軋轢は余り荒立てたくはないものだと思うのだが・・・。
コメント
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