アントニオ猪木氏が10月1日、心不全で亡くなった。享年79。全身性トランスサイレチンアミロイドーシスとかいう、100万人に1人と言われる心臓の難病で闘病生活を送っておられたそうだ。呼吸するにも楽な姿勢はなく、痛みが全身を襲って、とにかく苦しかったらしい。随分痩せて、身長が10センチも縮んだと言われた。
私の世代にとって、昭和のプロレス界の圧倒的なヒーローである。幼稚園の頃こそ、将来、大きくなったらバスの運転手やお医者さんといった身近なヒーローになりたがったが、その後、金曜夜8時のプロレス中継を見るようになると、将来はプロレスラーになって外人レスラーを倒すんだと、友達とプロレスごっこに夢中になった。今も、テーマ曲『炎のファイター INOKI BOM-BA-YE』が脳内を駆け巡る。情熱的な赤のタオルや、赤のショールがよく似合う人だった。1960年9月にデビューし、1998年4月のドン・フライ戦をもって正式に現役を引退したので、実に40年近くもの間、日本が高度経済成長を謳歌し、バブルが崩壊して沈むまで、元気な日本を象徴するように、リングの上で「燃える闘魂」そのままに闘い続けた。恩師の力道山が北朝鮮出身だったことから、訪朝は33回を数え、その北朝鮮コネクションに目を付けた韓国・金泳三政権が北朝鮮との橋渡しを依頼したほどだったそうだし(辺真一氏による)、湾岸戦争では日本人人質解放のキーマンとなるなど、リングの外でも闘い続け、最後は病魔と闘って、ついに力尽きた。
アントニオ猪木と言えば、何と言っても「プロレスこそ格闘技の頂点」とする「ストロングスタイル」が売りだった。先輩のヒロ・マツダ氏は、「猪木はどんな相手でも強く見せて名勝負をする」と話していたそうだが、相手に得意技をかけさせて、その良さを十二分に引き出し、自らも応酬することで、名勝負を演じて、最後は勝つ、というタフネス振りと切れのあるワザが魅力だった。1974年3月、“昭和の巌流島”と呼ばれたストロング小林戦で勝利した後には、「こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない」と語ったこともある。アメリカに滞在していた頃、テレビで見かけたプロレスのいかにも大袈裟なリアクションが目障りなショーだったことから、猪木氏が旗揚げした新日本プロレスが切り拓いた、「しっかりとしたレスリング技術を基盤にしたストロングスタイル」(日刊スポーツ)が無性に懐かしくなったものだ。あのハルク・ホーガンも、猪木氏らが見出した当初は、パワーだけが取り柄の粗削りなレスラーで、レスリングが出来なければやっていけなかったことから、試合前のリング上で積極的に練習に取り組んだらしい(同)。
白眉は、1976年6月に行われた、ボクシングの世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの異種格闘技戦だろう。土曜のお昼の吉本新喜劇が人気の大阪で、ついぞ昼日中からテレビを見る習慣がなかった私でも、この時ばかりはテレビにかじりついた。蓋を開けたら、当時の多くのファンと同じように、がっかりしたのだったが、総合格闘技が当たり前の今なら、違った見方をしていたかも知れない。猪木氏は日本の総合格闘技のパイオニアでもあった。日本経済の成長が鈍化し、成熟するにつれて、量から質へと、猪木氏自身の中でも変化していたのだ。
以前、雑誌のインタビューで、自分の墓について、「墓石はオーストリアのラジウム鉱石で作りたいね。有名なパワーストーンなんですよ。猪木の墓にくれば元気になれるって話題になるでしょ?」と語ったそうだ(女性自身)。いやあ、まさに、元気ですか~っと気合いを入れて貰えそうだ。一度でいいから、闘魂ビンタを注入して貰いたかった。
アントニオ猪木が輝いていた時代がなんだか無性に懐かしい。ヒールがいて、場外乱闘が当たり前で、ハチャメチャなこともあって、一喜一憂しながら、日本も日本人も元気だった。
心よりご冥福をお祈りし、合唱。