安倍元首相が亡くなってから早三ヶ月が過ぎた。まさか死してなお追及されるとは、よもや安倍氏ご自身も思いもよらず戸惑っておられることだろう(苦笑)。安倍氏亡きあと、岸田首相が野党やリベラル左派メディアのターゲットになったが、まあ、体制側の足を引っ張ることがミッションの彼らにとって、何等かのネタがあれば誰でもよいのだろう。
知り合いの警察の方は、国葬儀に向けて支援要請され、国葬儀を警護するのも大変なら、残された者も少ない陣容で街を守らなければならないので大変だとぼやいておられたが、何はともあれ、警察が威信をかけた国葬儀が無事終わって、よかったと思う。山口組系暴力団は、こうした全国的イベントのときは行動を自粛するお触れを全国に出すのだそうだ。このタイミングで諍いを起こして、警察から恨まれるのを避けるというわけだ。ところが、よりによって黙祷のときを狙って鉦や太鼓を持ち寄って騒ぎ立てる人達がいるとは、なんとお行儀が悪い、能天気なことだろう(苦笑)。それに引き換え、献花の列は四ツ谷駅あたりまで7キロほど続いて、4時間かかっても整然と並んで待っていたという。この三ヶ月の喧噪の中で、ようやく本来の日本人らしさを見せてくれたような気がして、ほっとする。日本人にも、それから政治レベルでも、品位があって欲しいものだとつくづく思う。
その品位を考えるとき、いまどきの言論空間の品のなさを思わずにはいられない。
世論は移ろいやすいもので、安倍元首相が亡くなった当初は、選挙期間中の暗殺という衝撃と、志半ばで凶弾に斃れたことへの同情が集まったことから、7月半ばの時点で、リベラル寄りの毎日新聞が実施した世論調査でさえ、安倍元首相の功績を「評価する」と答えた人は7割に上った。しかしその後、自民党と旧・統一教会の「ずぶずぶ」の関係が追及されるようになると、空気は一変した。接点があった政治家は自民党だけではなく、規模は違えど立憲民主党にもいる。旧・統一教会は確かに社会通念上はカルト教団と見られているが、法的に反社と位置づけられるわけでもなければ解散命令も出せていない。それにもかかわらず、野党やリベラル左派メディアはここぞとばかりに自民党叩きに夢中になった。私も、日本人の朝鮮半島に対する贖罪意識に付け込んだという事実だけで旧・統一教会を許せない思いだが、安倍政権の韓国や北朝鮮に対する政策を見る限り、その影響を受けたとは思えない。ここ20年は目立った被害報道がなかったという意味では、最近になって俄かに騒ぎ立てるメディアは先ずその不明を恥じるべきではないかと思うが、その気配はない。どうにもイカガワシイ。
こうした誘導は、少数ながらも(と私が勝手に思っているだけだが)声が大きいために、さも大勢であるかのように装い、庶民感情に「アヤシイ」「ウタガワシイ」と訴える、これまでも何度も繰り返されて来た印象操作だった。ここで少数と言うのは、社会の分断が深刻化しているアメリカの岩盤保守・リベラル・無党派層の比率が大雑把に30・30・40%(例えば上智大・前嶋和弘教授による)とのヒソミに倣えば、日本の岩盤保守・左派・無党派層は30・20・50%(左派はせいぜい15~20%か)というのが、私の勝手なイメージだからだ。あれほど国会を空転させながら追及し切れなかったのに、論理としての「疑わしきは罰せず」が通用しない言論空間では独特の生理的反応が支配するようだ。国会にはもっと他に議論することがあるだろうに・・・と思うが、どうもそうではない。そのような価値判断基準の方々には、安倍政権の、とりわけ過去の政権と比べて専門家の評価が高い外交・安全保障政策の功績をいくら語ったところで、聞く耳を持たないのだろう。
こうした党派性は世代論としても語られ得るのが日本の特徴だろう。同志社大学の兼原信克氏(元・内閣官房副長官補)はある論考で、「歴史問題は、日本人のアイデンティティを引き裂いて来た」「大日本帝国時代を知る世代と、戦後直後のマルクス主義世代と、高度成長後の自由主義的な世代は、全く異なる日本人である」と述べておられる。私なりに敷衍すると、大日本帝国時代を知る人は、帝国主義という、食うか食われるかの時代相の下で、戦争を繰り返すまいと祈る庶民感情は尊いとしても、欧米列強の植民地支配の脅威に対抗し伍するために立ち上がったとの矜持や国家のありようを否定することは出来ないだろう。私の父やその上の世代がそうだ。そういった現実感覚・現場感覚のない戦後のマルクス主義世代は、歴史を理念として捉え、戦後の平和は憲法9条のお陰と(信じ難いことに)心から信じる護憲派であり、国家権力を悪と忌み嫌うのは生理的ですらある。全共闘世代がその典型であろう(前々回のブログで触れた高田氏もこの世代と思われる)。そして私を含む高度成長期にかかる世代は、大手メディアを中心に色濃く残る日本的な意味でのリベラル左派の空気を吸わされながらも、上記二世代のいずれからも距離を置く、しかし人によってその距離感はさまざまな世代である。更に言うと、高度成長を知らない若い世代が後に続いて、彼らはSNSを駆使するからリベラル左派メディア(所謂オールド・メディア)からは自由であり、護憲という戦後の政治思想界における呪縛からも解放されて、国際環境が変わったことを理解し、就職環境を良くしてくれた安倍政権を素直に評価する。若い人ほど保守的と言われるのも、年配者に比べればという相対的なものとして、理解され得る。
いずれにしても、こうした党派性は世論にどのように作用するのだろうか。
昨年、「エコーチェンバー可視化システム」というアプリをリリースされた鳥海不二夫・東京大学教授は、ご自身のツイッターアカウントがエコーチェンバー度上位10%に入っており、かなり強いエコーチェンバーの中でタイムラインを眺めていることが分かったと告白されていた(*)。日頃、研究者やIT技術者を数多くフォローされているため、結果として居心地の良い情報環境を構築することになったのも無理からぬことだと思われる。その鳥海教授によると、最近出版された論文では、リベラル系の方がエコーチェンバー度が高い傾向があることが示されているそうだ。長くなるが引用する。
(前略)安倍元総理に関するツイートがそれぞれのコミュニティでどの程度拡散しているかを分析すると、安倍批判のツイートを拡散している人の大半は、同様のツイートを10回以上拡散しているリベラルなアカウントであることが示されました。これはかなりコアの「反安倍政権」の人々です。一般に政治的なツイートを10回もするアカウントは、それほど多くありません。安倍元総理批判のツイートの約9割はそういう人たちが発信したツイートでした。 このようなアカウントが作っているコミュニティを分析して見てみると、これらのアカウントは主にお互いにフォローする関係にあることがわかりました。 すなわち、外部とのつながりが少ないコミュニティを形成し、リベラルはリベラル同士で関係性を作る割合が高くなっていたのです。すなわち、リベラルなアカウントが好む安倍元総理を批判するようなツイートは内部でのみ拡散している、エコーチェンバー現象が起きていることがわかったのです。(後略)
なんとなく首肯したくなる話ではないだろうか。また、2017年の衆議院選挙の際、立憲民主党のツイッター公式アカウントのフォロワー数が自民党のそれを超えたのは、立憲民主党の人気がネット上で高まったからではなく、仲間内ばかりでフォローをして数が増えただけで、拡散する力は自民党の公式アカウントの方が強かったことが分かったそうだ。そして、こうも語っておられる。
(前略)エコーチェンバーの中にいると、周りはみんな自分に賛成してくれるので、世界中の人が賛成してくれているような気がしてきます。私たちは、目に見えないものを想像するのは苦手です。実は自分たちが少数派だということには、なかなか気づきません。だから選挙の後に、「自分の周囲は皆、野党を応援しているのに、なぜ与党が勝つのか。これは不正選挙に違いない」と言い出す人が出てきたりします。(後略)
2020年のアメリカ大統領選挙を思い出すが、エコーチェンバーのもたらす影響は、何もリベラル左派に限ったものではなく、保守的と言われる共和党のトランプ支持派にも言えるだろう。日本では、リベラル左派のエコーチェンバーの中にいる人たちが仮に少数派であっても多数派と思い込み、その少数派のリベラル左派がリアルのメディア環境を支配しているために、なんとなく無党派層を巻き込む結果としての世論調査を弾き出しているのではないだろうか。こうして、安全保障法案や特定秘密保護法、さらにはアベノマスクのような個別事象で盛り上がり(自民党の足を引っ張り)、しかし、平静に戻る選挙では自民党支持が大勢を占める(足を引っ張るだけの野党には支持が集まらない)というのがこれまでの状況だったと考えられる。そして此度は、旧・統一教会や国葬儀で盛り上がった。
かつてのヴォルテールの言葉(あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る)を持ち出すまでもなく、言論の自由は守られなければならない。さりとて、自由をはき違えて、個別事象で盛り上がり、この国会では旧・統一教会問題で盛り上がって、それでよいのかということだ。他に議論すべき重要なテーマがあるだろうに・・・と、つい憂えてしまうのである。自民党に対抗し政権交代を担い得る野党の登場を期待するのは、夢のまた夢であろうか。