今週発売のNewsweek日本版の表紙タイトルはたった四文字「またトラ」。背景には、いつになく笑顔がなく神妙な、しかし自信に満ちて右手を高く掲げるトランプ氏の写真を配した。受け入れたくないけれども受け入れざるを得ない現実をまざまざと見せつける秀逸な表紙である。
ジョージタウン大学教授のサム・ポトリッキオ氏による「トランプの地滑り的勝利には理由がある」と題するコラムがまた秀逸だった。理由として五点挙げられた内の三点を紹介しよう。先ず、世界的にも「現職」が不利、ということだ。今年は選挙イヤーと言われ、イギリスでもフランスでもオーストリアでも日本でも、与党は見事に惨敗した。トランプが復活に成功したのは、「彼の特別な資質というより、彼に強力な追い風を与えた外的条件のおかげ」というわけだ。そして、「ハリスの運命は彼女が現職のバイデンから距離を置き損ねたときに決定づけられたように思える」として、10月8日にABCテレビの情報番組「ザ・ビュー」に招かれて、過去4年間でバイデンと違うことが出来たとすれば何かと問われて、「何一つ思い当たらない」と答えてしまった場面を挙げている。続いて、主流メディアの影響力が低下した、ということだ。お騒がせコメディアン兼コメンテーターのジョー・ローガンが主催するポッドキャストや起業家イーロン・マスクのXへの投稿に触れる人たちは、ニューヨーク・タイムズの購読者の30~40倍もいるのだ、と。そして三つ目に、投票行動は変わりやすいとして、「アメリカのように細かく分断されてしまった国では、物事がどちらへ転ぶかは、マスメディアに背を向け政府にも政治にも無関心な有権者が考えを変え、雨の日に投票所へ足を運んでくれるかどうかに懸かっている」との皮肉で結んでいる。
トランプ再選について、20世紀における理念と知性に基づく所謂「アメリカン・デモクラシー」が衰亡した証しだとか、為政者と大衆の欲望が共鳴して民主制の名の下に成立する古典的な「暴民(衆愚)政治」が装い新たに21世紀の「アメリカン・デモクラシー」として降臨した、などとまことしやかに大袈裟に悲観する声がある。しかし「デモクラシー」は所詮は政治制度の一つに過ぎなくて、統治者が選挙によって選ばれることと、言論の自由がある程度保障されて政府批判できることの二つが条件だと一般に解されるようなものだとすれば、アメリカで「デモクラシー」は立派に機能しており、問題があるとは思えない(因みに中国では二つのいずれもが欠けており、中国共産党が宣伝するようには「デモクラシー」と呼べる代物ではないのは明らか)。かのアリストテレスも、政治制度を統治者の数で分け、それが一人の時には(良い政治としての)君主政にもなれば(悪い政治としての)僭主政にもなり、数人の時には(良い政治としての)貴族政にもなれば(悪い政治としての)寡頭政にもなり、多数の時(所謂デモクラシー)には(良い政治としての)ポリスの政治にもなれば(悪い政治としての)暴民(衆愚)政(民衆のことを愚かと呼んでは怒られるので、現代風に言えばポピュリズム)にもなる、と達観している。どの政治制度も、上手く行くこともあれば上手く行かないこともある、というに過ぎず、政治制度そのものは価値中立的である。問題は統治者(の候補者の適格性)であり、つまりは(なぜなぜ分析風に突き詰めれば、それを選ぶ)被治者(人民または国民)に帰すべきものであって、だからと言ってアメリカ人の民度が落ちたとは思えないから、結局、社会の分断のありようが政治に反映されているに過ぎないと言わざるを得ない。実際のところ、国民は目先の経済・社会的なこと(物価高や、雇用や治安に関わる移民問題)に多くの関心を寄せ、アメリカの国益とは何か、国際社会において安全保障をどのように確保するか、なんてことを(私たち日本人が期待するように)考える人は稀だろう。こうした国民と言うより社会の状況が、良からぬ(と、部外者の私たちがつい考えてしまう)候補者に利用されていると言えなくはない。
いずれにしても、よく言われるように、トランプが原因なのではなく、トランプ現象は結果に過ぎない。その潮流が与える影響に、私たちは備えなければならない。