風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ある熱狂(上)

2011-02-12 15:33:17 | 日々の生活
 もう一週間前のことになりますが、永田洋子死刑囚が多臓器不全により東京拘置所の獄中で死亡しました。誕生日を4日後に控えた享年65歳。元・連合赤軍幹部で、1971年末から翌72年にかけて、僅か二ヶ月足らずの間に同志十二人をリンチ殺害した凄惨な事件(山岳ベース事件)は社会に大きな衝撃を与えたものでしたが、既に1984年には脳腫瘍と診断され、最近は、視力をほとんど失った上に、訪れる面会者が誰か認識することが難しいほど厳しい病状になっていたと伝えられており、ちょっと寂しい最期でした。
 1968年に世界的な広がりを見せた学生の反乱は、フランスでは労働者も巻き込んだ一千万人規模のゼネストに発展し、ド・ゴール大統領は事態を打開するために議会解散に追い込まれました。日本でも、東大・日大の全共闘を手始めに“燎原の火の如く”全国の大学に広がりましたが、1968年当時、学生運動を支持あるいは共感するとした回答者は全体の7%程度に過ぎないという政府統計があるように、民主主義に対する歴史的な厚みの違いあるいは社会的な違いによるものか、彼我の温度差は否めませんでした。全共闘は、もともとノンセクト・ラディカル(急進的無党派)色の強い広がりをもった運動だったはずですが、授業料値上げ反対闘争が、学生による自治や民主化要求に発展し、いつしか「大学解体」などの政治性や「自己否定」といった思想性を帯び、「学生と国家権力との間の闘い」にまで先鋭化する中で、中核対革マルといった新左翼諸党派間の主導権争いや内ゲバが激しくなり、革命戦争路線の最左翼・赤軍派が登場して、その流れをひく日本赤軍によるハイジャック事件や連合赤軍によるあさま山荘事件などが勃発すると、運動は急速に退潮していきました。
 私が学生時代を過ごした1980年代は、こうした“政治の季節”の潮が退いた後、“シラケ世代”と揶揄されて既に久しい時代でした(今では“シラケ”という言葉自体が当たり前になって死語と化していますが)。それでも、京都という土地柄は、長年、日本の都だった自負のせいで、今なお日本の中心だとする無意識の裏返しで、東京を頂点とする日本社会の流行に取り残されたような、良く言えば惑わされない反骨心のようなものを温存していて、私が通った頃でも、学生運動の名残りをそこかしこに色濃く残していました。大学構内の建物は「安保粉砕」「反日帝」「闘争」などの独特の字体が躍る勇ましいアジ・ビラやタテカン(立て看板)に溢れ、赤ヘルや白ヘルや黒ヘルのお兄さんたちがハンドマイクでがなりたてるダミ声に包まれながら、塀の外に待機する機動隊のマイクロバスを横目に通り過ぎるのがごく当たり前の学園風景でした。あるとき、大学の寮の自治闘争をやっていた同級生が、授業の前に演説をぶち始めて、なかなか終わらないものだから、諦めた教授が出て行ってしまって、いわば授業を占拠してしまったことがありましたが、その時、彼が語った「自由は勝ち取るものである」というフレーズは、今でも忘れることが出来ません(そんな彼も労働省(現・厚労省)の役人になり、数年前に会った時には、かつて黒ヘルをかぶっていたことなど忘れたかのように、大臣の国会答弁のペーパーを用意するのに忙しいとぼやいていましたが)。
 あの頃は、その後、ほどなくしてバブル崩壊や日米貿易戦争が始まる前の、安定した成長を謳歌し、誰もが多少なりとも豊かさを実感できた時代であり、ごく普通の生活と隣り合わせにかつての学生運動の熱狂の残滓がなお息づく時代でした。大学の校舎の地下室に、指名手配中のかつての活動家が潜伏していると噂されたのは、既に都市伝説の一つだったかも知れませんが、佐世保に原子力空母エンタープライズが寄港した時、電信柱のような丸太を担いで突っ込んだという武勇伝をもつ予備校講師がいたように、駿台予備校の物理科講師である山本義隆さん(東大全共闘議長)だけでなく、予備校は、当時の闘士が偽名を使って潜伏する巣窟だと言われたものでしたし、高校時代の友人に連れられて行った大学そばの喫茶店で、その友人と喫茶店のマスターが新左翼の議論に夜通し興じるような、のどかな時代でした。
 それだけに、かつての熱狂は、私にとって冷めた歴史の一コマではなく、常に肌に感じて拭い去れずにいた、ぬくもりを持った不思議であり、永田洋子死刑囚の死には、その記憶が呼び戻されて、ほろ苦い気持ちにさせられました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする