風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

追悼・坂上二郎さん

2011-06-11 15:07:42 | スポーツ・芸能好き
 昨日の続きで、東日本大震災のどさくさで、書き忘れていたことの一つに、震災前日に亡くなった坂上二郎さんのことも挙げたいと思います。享年76歳。欽ちゃんこと萩本欽一さんとのコンビで「コント55号」を結成し、「コント55号の世界は笑う」(1968年7月~1970年3月の土曜夜8~9時、フジテレビ系)や「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」(1969年4月~1970年3月の日曜夜8~9時、日本テレビ系)などの番組で一世を風靡しました。
 何しろ「コント55号の世界は笑う」が面白くて、私には姉がいて、その姉と一緒にTVを見ていたので、同級生より5歳くらいはTV経験がずれていると思うのですが、「タレ目」(欽ちゃん)と「ちっこい目」(二郎さん)のコントに夢中になり、物心ついて初めて「お笑い」に目覚めたのでした。ビートたけしさんが、コント55号の笑いについて、「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と語っているそうですが、私自身、子供の頃には欽ちゃんのナンセンスで執拗なまでの突っ込みがおかしかったのですが、今になって思えば、二郎さんの大らかなボケの芸が二人のコントを支えていたのだと思います。
 因みにこの番組は、翌年10月から始まったザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」(TBS系)が、TBSの人気ドラマのゲストを起用するなどして、その華やかさも手伝って茶の間の人気を呼び、さらに同時期の日曜夜8時に、当時圧倒的人気を誇ったNHK大河ドラマ「天と地と」にぶつけて実際に視聴率でぶっ飛ばした「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」が、番組の目玉だった野球拳によって低俗番組として槍玉に挙げられるにつれ、「コント55号」人気が急速に萎んで行き、実際に私のような子供たちは一斉に「8時だョ!全員集合」に流れて(こちらもPTAから低俗番組として槍玉に挙げられ続けたものでした)、「コント55号」の二つの番組は同時期に放映中止に追い込まれました。ちょうど大阪万国博覧会が始まったばかりで世間が湧いていた時代です。さらに因みに、この土曜夜8時のゴールデンタイムには、5年後、欽ちゃんが「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で再び帰って来て、私のようにちょっと歳を重ねてドリフの子供だましの芸に飽き始めていた世代の人気を取り戻しました。
 さてもう一つの「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」では、野球拳という一種のお座敷芸が、日曜夜8時という家族団らんの茶の間に堂々と流れたものですから、子供心には衝撃でした。脱がされた女優さんも楽しんでいたようでしたし、何しろ二郎さんがノリノリで、圧倒的な明るさに満ちていて、テレビ創成期に咲いた一つのアダ花と言えるのではないかと思います(実際にその後テレビ界では野球拳はほとんど放送されていないようです)。二郎さんは、かつて週刊ポストの取材に応えて、こう語っています。「タイミングもあってたのかもしれないな。テレビの普及は昭和39年の東京オリンピックあたりからでしょ。デビューが41年、売れてきたのが43年。ボクらはテレビが爆発する勢いに、押し出された。おまけに、時代も全学連とかなんとかでもめてた頃。世の中が落ち着くのか、もっと揺れ動くのか見当もつかない。そんな中途半端な時代に、“過激”が受けちゃったんじゃないかな。」
 この番組に対する評価が、欽ちゃんと二郎さんとで異なるところが、二人の性格の違いを表しているようで興味深く思います。欽ちゃんは、この番組を「最も嫌いな番組」としていて、PTAから「俗悪番組」の槍玉に挙げられただけでなく、コント55号本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかなかった一方、二郎さんは、乗り切れなかった欽ちゃんと対照的に、この番組で脚光を浴び、自身も乗り気で参加し、代表作の一つに挙げているそうです(Wikipedia)。本人に芸があるというよりも他人を使うのがうまく、相方をいじって笑いに結びつける点では天才的な欽ちゃん(それは「欽ドン」「欽どこ」や「仮装大賞」で素人相手に遺憾なく発揮されています)と、ボケに徹していつの間にかそれを演じていることを忘れて自ら楽しんでしまうような天性のボケとも言える二郎さんの、芸風の違いと言えましょうか。人を笑わせるという点では負けず劣らず厳しい二人ですが、二郎さんの方には茶目っ気と拘りのない余裕を感じさせ、それが人間的な魅力につながっているように思います。そんな二郎さんは「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した」と回顧する一方、欽ちゃんも「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった」と証言しており(Wikipedia)、キャラの違う二人のすれ違いが、コント55号のコントのナンセンスぶりをきわ際立たせ、見る者を心の底から楽しませ得たのでしょう。
 Wikipediaに出ていた次の評価は、コンパ芸に毛が生えた程度の芸人が多い昨今のお笑い界に聞かせたい。「激しい突っ込みや野球拳等で売れたものの、駄洒落やパロディ、楽屋落ち、世相批判、性的興味や糞尿譚といった下ネタ、そして相手の悪態やプライバシーを突いてまたは相手を陥れて笑いを取ることは一切行わなかった。」心よりご冥福をお祈り致します。
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追悼・谷沢永一氏

2011-06-10 22:25:26 | たまに文学・歴史・芸術も
 東日本大震災のどさくさで、書き忘れていたことがいくつかあります。その一つは、震災前の3月8日に逝去された谷沢永一氏のことです。享年81歳。関西大学の名誉教授で、国文学者として著名で、博覧強記ぶりでも知られ、ものした書籍は数知れず、ご本人は書誌学者という名称を好んで使っておられたそうです。私はもとよりお会いしたことがなく、最初にお名前を拝見したのは、雑誌か何かで知った、松下幸之助氏が創設した政策研究提言機構「京都座会」だったと記憶しますが、以後、書籍を通して敬愛申し上げて来ました。渡部昇一氏との共著作が多く、最近も、「Will」5月号の中で、創刊まもない頃から最近まで巻頭の匿名コラム「天地無用」を書かれていたのは実は谷沢永一氏だったと、渡部氏が披露するとともに、追悼文を寄せられ、切々と故人を忍ぶ言葉が書き綴られているのを読んで、あらためて惜しい人を亡くしたものだと認識をあらたにしました。そのエッセイの中から、谷沢氏の「凄さ」について触れたところを、いくつか引用します。
 「大修館書店の編集者・藤田洸一郎氏によるとこういう人だったという。『ものすごい蔵書家で、現代国文学の世界では鬼のように恐れられている人です。学会を見に行ったことがありますが、谷沢先生が入場すると一瞬、会場が静まり返るんです』 というのも、谷沢先生の歯に衣着せぬ発言で、学会のボスのような学者がその学会に二度と出られなくなった、という噂すらあったほど、谷沢先生は何でも遠慮なくものを言う人だ、とのことでした。」
 「本好きの私が谷沢先生から教わった最も大きなことは、『古本屋の本は値切るな』ということでした。自分の鑑識力をかけて値段をつけているものを値切るものではない、という心得を貰いました。」
 「谷沢先生は国会図書館にもないような本をたくさんお持ちで、特に雑書を集めるのがお好きだった。雑書を読むとたいそう偉そうな書籍よりもずっと実情が書かれている、という見識をお持ちでした。」
 「関西大学内でも非常に力があったそうですが、その根源は何かというと、地位に野心がないこと、学校の中で偉くなる気がないので、却って力があったようです。」
 そして最後に渡部氏は谷沢氏のことを「本当に余人を以て替え難い人で、惜しい人を亡くしました。」と締め括っています。私が敬愛する高坂正堯先生が亡くなられた時にも、「朝まで・・・」で一緒だった田原総一郎氏が「余人を以て替え難い人」と語っていたのを思い出しました。
 渡部氏もこの原稿で述べておられることですが、「天皇制」という言葉をサヨク用語だと私が断じているのは、実は谷沢氏からの請け売りです(因みに谷沢氏は「天皇制」に代わる呼び名として「皇室伝統」を提唱されました)。また、このブログの昨年1月15日の稿で「聖徳太子はいなかった」という本について所感を述べましたが、谷沢氏がものしたもので、私が読んだ氏の最後の本になりました。切れ味鋭い書評だけでなく、時事問題も縦横無尽に切って捨てて痛快でしたが、もう目にすることが出来ないと思うと寂しい限りです。心よりご冥福をお祈り致します。
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東京タワー

2011-06-09 23:15:41 | 日々の生活
 私のオフィスから東京タワーが見えます。九州生まれの大阪育ち、広い意味での関西で生まれ育った私にとって、東京タワーと富士山は、江戸あるいは東京の象徴であり、これに新宿の摩天楼を加えれば、子供の頃からの一種の憧れでもありました。東京タワーは高度成長の象徴であり、富士山は霊性あるいは神性という日本人の原点であり、新宿ビル街は都会の生活の象徴であり、いずれも私たち日本人の原風景です。
 あのゴジラもなぎ倒すのを遠慮した東京タワーのアンテナが、今般の東日本大震災で曲がったとの報道がありましたが、オフィスから見る限りでは、よく分かりませんでした。たまたま夕方、外出して仰ぎ見て、確かに曲がってしまっていることを確認しました。だからといってどうってことはないのが上の写真です。
 1958年10月14日の竣工で、間もなく53歳、早くも肩叩きにあいました。日建設計(株)とともに共同で設計を行った建築設計の構造学専攻の内藤多仲氏は、構造美について「タワーの美しさについて別に作為はしませんでした。無駄のない安定したものを追求していった結果できたものです。いわば数字のつくった美しさとでも言えましょう」と答えているそうですが(Wikipedia)、確かにタワーのシルエットはなめらかで美しい。しかし特別展望台(地上223m)はともかく大展望台(地上120m)のカタチは、ちょっぴり肩肘張って、期せずしてぎこちなく自己主張しているような、高度成長前のニッポンの青臭さを彷彿とさせます。実際に、特別展望台から上の部分に使用されている鉄材の原料には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車が使われているのは、当時、まだ良質の鉄材が日本にはなかったからであり、そんなエピソードも含めて、全てがあの時代のもつ雑然とした、しかし最近のアジア諸国に漲るパワーをニッポンにおいてそこはかとなくスマートに感じさせ、えも言われぬいとおしさを覚えます。
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子供は夢、若さは希望

2011-06-08 00:21:44 | 日々の生活
 最近は激しい運動をしなくなりましたし、本当は日本酒を飲み過ぎると、ロレツが回らなくなったりするのですが、そんな自分が情けなくもあり、深酒もしなくなったので、余り年齢を感じることはありません。ところが指先のちょっとした切り傷はちょっと舐めておけば放ったらかしでも・・・という訳に行かなくて、化膿止めを塗って一日バンドエイドを貼っておかないと暫く腫れが引かないなんてことになりかねなくて、体力の衰えを実感させられます。
 前置きが長くなりましたが、こんな年齢だからこそ、今回の大震災で被災した地の人々を、多くのスポーツ選手や芸能人などの著名人が慰問に訪れ、とりわけ子供たちに笑顔を与えられているのが嬉しくもあり、また、なんとも羨ましくもありました。子供は夢であり、若さは希望でもあると、つくづく思います。それは子供におんぶにだっこになろうとか、年金不安があるので若い世代にもっと頑張って貰いたい、などと下心があるかどうか以前の、素朴な感情です。ただ若い女性や赤ん坊がいるだけで場が和むように、子供たちが元気になると、周囲が明るく元気になります。
 それは、子供たちが、“今”を懸命に生きていて、“今”が未来永劫続くことを疑ったりしないからでしょう。将来は、単に未知の時間が待ち構えているだけで、私たちオトナのような不安のカケラもありませんし、失敗を恐れることもありません。実際に、子供の頃を振り返ると、自分が15歳やハタチになることなど想像できず、360度、見渡す限り、ただ無限の荒野が広がっていた印象ですが、今の私は60歳になって引退して時間がたっぷり出来たら何をしようかと想像するほどに、歩む道はケモノ道のように、先が見えています。こうして子供たちの屈託のない笑顔を見ていると、昔の自分たちだってそうだったことを思い出し、揺るぎない未来と希望を連想できるからかも知れません。そして私たちオトナは思うのです、この子供たちが幸せに生きる未来を、この社会を、日本という国を、しっかり守り、引き継ぐ義務があるのだと。
 私の会社は、業績が低迷し、新入社員を大量に雇う余力がくなってしまい、私が所属する今の組織にはここ何年も新人が入ってこなくて、毎年、皆、年を重ねて、組織も老いていくのを感じます。かつてのニッポンの大企業で、同じような閉塞感に苛まれているところは、少なくないのではないでしょうか。成長する人間の組織が新陳代謝が必要なように、会社や様々な組織も健全さと活力を保つためには新陳代謝が必要です。勿論、年を重ねてこその経験があれば。無駄な試行錯誤を経ることなく、ある結論にワープすることが出来るのを感じます。しかし、経験は失敗を避けることが出来ても、未来の成功を確約するものではありません。今の日本に必要なことは、失敗を避けることが出来る経験よりも、若さ故の無謀とも言えるチャレンジなのだと思います。
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茶番・続

2011-06-05 18:11:47 | 時事放談
 さすがの菅総理も、自らの置かれた状況をようやく悟ったか、遅くとも8月までに退陣する意向を固めたそうです。日刊各紙によると、主要閣僚あるいは自らに近い閣僚と電話で会談し、「今夏の早期」(朝日)あるいは「そう遠くない時期」(読売)に退陣を受け入れる意向を伝えたと言われます。ただ時期については、第二次補正予算案の国会提出のタイミングでの退陣が念頭にあるとみられ、枝野官房長官は「そんなに遅い時期ではない」「(9月前半に予定される日米首脳会談も)自分が出るという趣旨のことは言っていない」と述べ、安住国対委員長は「夏を区切りにするというのは一つはある」と述べましたが、自民党だけでなく同じ民主党内でも鳩山氏や小沢氏は月内退陣を主張しており、まだ多少なりとも波乱含みではあります。
 産経のWebニュース(阿比留瑠比という署名記事)に勝海舟の言葉が引用されていました。「政治家の秘訣は、ほかにはないのだよ。ただ誠心誠意の四字しかないよ。伊藤(博文)さんは、この政治家の秘訣を知らない」1896年5月のことだそうです。造反の芽を摘んで不信任決議案を否決した途端に続投表明したことに、「誠意」の「せ」の字もない、卑怯で姑息と断じ、首相が愚弄したのは首相の延命に手を貸すピエロを演じた鳩山氏だけではなく、首相の意思を尊重し不信任決議案に反対票を投じた党所属議員、そしてその背後にいる有権者も等しくコケにしたと、手厳しい。
 確かにこれほど「誠意」が見えず、結果として人望がない首相も、珍しい。ルーピー鳩山さんも「菅首相では、この国難は乗り切れない。他人の言うことを聞かず、イエスマンしか近くに置かない。意見した人間には怒鳴り散らして、徹底的に排除する。自分で責任は取らず、他人に押し付ける。この1年で、官僚は面従腹背になった。信頼関係が欠如している。震災・原発事故への対応が遅れているが、菅首相に大きな原因がある」と評しましたが、なかなか的確だと喜んでいられません。同じ党に所属する前首相から、ここまで言われてしまうのは異常です。また、かつて市川房江さんを担いで政治行動を共にし、その後は疎遠になって、今はホームレスに身をやつすかつての同士・田上等氏(4月の文芸春秋やTBS報道特集に登場)は「福島第1原発事故で何でも東電のせいにしたり、東電本店に怒鳴り込んだりしたのは、彼独特の「合理性」から。みんな自己責任だと思っている」と述べて、田上氏が自己破産したときも「自分の家を取られた不始末はお前の責任だ」と血も涙もなく突き放されたエピソードを披露し、「当時から国家観や哲学なんてものはなかった」「落選中、社会市民連合の代表となったが、口の利き方にはほとほと呆れていた。日ごろ手足となり応援してくれる年上の市会議員が事務所にきても、なぜか敬意を払おうとはしない。だから話はちっとも和まない。要は処世術がないのだと思う」「菅が将来、もし首相になったら日本人を辞める、という仲間が周りに少なくなかった」などと話しています(産経ニュース)。ホームレスだからこそのウラミツラミとは思えないほどのリアリティがあります。
 世論調査では、首相の震災対応を評価しない声が大半なのにも係らず、この困難な時期に首相交代を望まない声もまた大半という、矛盾した状況です。確かに、小泉さんが退陣した2006年9月からの5年で5人の首相が登場し、1年以上勤めあげたのは安倍さん(366日)だけで、その後は福田さん(365日、但し閏年のため一年に一日足りず)、麻生さん(358日)、鳩山さん(266日)、と一年未満が続き、菅さんはようやく6月8日から二年目に入るそうですが、私も、当初は、世論調査同様、国際社会の世間体と復興の大義から、我慢すべきと思って来ました。それはまた、仮に交代するにしても決定打がいない、貧しい政治状況が見えているからでもあります。これを誰かが政治的ニヒリズムと呼んでいましたが、まさにその通り。やはり日本がこのまま沈むのを見過ごすべきではありません。
 今朝のNHK討論番組で、下地某なる国民新党の小物は、「大連立」の考えを示した民主党の岡田幹事長を批判し、この期に及んでなお連立与党の地位に汲々とする見識のなさを晒して、民主・自民の両幹事長から相手にされていませんでしたし、別の番組では国民新党の顔・亀井某も存在感を示そうと躍起になっていたのが象徴的だったように、ここに来てようやく機は熟したか、自民党領袖からも期間限定・目的限定での協力の声があがり、ようやく政治が前進する兆しが見えてきました。政権交代だけが目的だった民主党という、有権者も半ば諦めつつ半ば喜んで騙されて、あわよくば瓢箪から駒のような奇跡を、淡い期待を抱いて待ち続けやっぱり裏切られ続けた、この二年間の日本の政治状況の茶番も、そろそろ打ち止めにし、全ての政治家が政治哲学を明らかにし、理念と政策本位の政治に回帰して欲しいものです。
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茶番

2011-06-04 08:48:59 | 時事放談
 それにしても、とんだ茶番劇があったものです(当日の夜は呆れて不貞寝して、昨晩、本稿を書き終えたのですが、一晩、寝かせて、今朝、あらためて抑制を効かせるよう推敲しました)。
 菅さんは、一昨日の民主党代議士会で「(震災の復旧・復興に)一定のめどがついた段階で、若い世代の皆さんに責任を移していきたい」と、事実上の退陣表明を行い、内閣不信任案を捨て身で否決させました。誰もがそう受け取ったし、当の鳩山さんもシメシメと思ったことでしょう。もっともこうした局面で何故また鳩山さんが登場するのか?という疑問は残ります。この方がしゃしゃり出るとロクなことにはならないですね。昨日の日経・春秋でも「もしかすると鳩山由紀夫前首相はすごい政治家なのではないか」と揶揄されていましたが、政治家を辞めることを表明しながら、現世に未練が残る亡霊のように永田町界隈を彷徨うのが目障りで、この方が大震災の時の首相でなくて良かったと思っている人は多いはずです(もっとも菅さんでも似たようなものですが)。
 ところが「一定のめどがついた段階で」という退陣の時期について、菅さんは言質を取られないように注意し、結果、鳩山さんからペテン師呼ばわりされても、とにかく暫くは政権にしがみつく覚悟のようです。ムーミンのようにトロンと眠そうな顔をして、時おり意味なくニヤつきながら、一体、この方は何をやりたいのか、全くもって不気味です。一方の鳩山さんは、相変わらず詰めが甘いですね。やんごとなき家系に生まれ合わせた宿命と言うべきなのでしょうか。
 二人が確認した事項とやらを引用します。
    一、民主党を壊さないこと
    二、自民党政権に逆戻りさせないこと
    三、大震災の復興並びに被災者の救済に責任を持つこと
      ①復興基本法案の成立
      ②第2次補正予算の早期編成のめどをつけること
 綱領もない摩訶不思議な政党である民主党のどこを守るのか、分かりかねます。その民主党を壊さないことが第一であり、自民党政権に逆戻りさせないことが第二であり、いずれも大震災の復興や被災者救済に先行しているのが、どうにも解せません。菅さんにしても、鳩山さんにしても、一体、何を守ろうとしているのか、許せない曖昧さ、と言えましょう。さて、こうしたドタバタ劇の末にあらためて明らかになったことが3つありました。
 一つは、こうした政局の舞台裏がほぼリアルタイムで世間一般に知れ渡ってしまうことの馬鹿馬鹿しさでしょう。まさかとは思いますが、これだけではないと思いたい。この国難をなんとかしなければならないという憂いと信念がぶつかり合い、政治家としてのプライドを賭けた様々な駆け引きがあったと思いたい。ところが、今、世間に知れているようなストーリーが全てであり、これが民主党が掲げるオープンな政治の行きつく先なのだとすれば、余りに薄っぺらで志が低過ぎて情けなくなります。
 次は、菅さんのスタイルは相変わらずだということです。かつて周辺に漏らしていたという、「民主主義とは、政権交代可能な独裁だ」という持論は、しかし甚だしき勘違いです。大統領制か、はたまた民主主義の本家・イギリスのエリート主義的な、と言ってしまうと語弊があるのなら、イギリスでは最も優秀な人材が政治家を目指すという前提があってこそ成り立つ政治家の一種の独裁的手法が、市民運動家に過ぎない、国を経営する信念も器量もない方が、いやしくも、のたまうべきことではありません。日本で最も優秀な人材が目指すのは官僚だというのが通り相場です。日本的な組織の論理に埋もれてしまいがちという欠点はあるものの、概ねそれは正しい。そうであるなら、日本にあっては、政治主導などと頓珍漢なことを喚くのではなく、冷静に、優秀な官僚を使いこなす器量を発揮するべきです。
 およそ市民運動家はサヨクの変形または進化系であり、かつての薬害エイズ訴訟や消えた年金のようにシングル・イシューを責めたてるのは得意ですが、政権与党として目指さなければならない「総合性」は、からっきし苦手です。あちらを立てればこちらが立たないのが世の常であり、政治力とは、その利害が厳しく対立する中で、まがりなりにも調整し納得させて丸く収める力技です。然るに民主党のマニフェストは、政権担当能力を誇示せんがために「総合」計画の衣装をまとっているかのように見せかけながら、その実、シングル・イシューの羅列でしかなく、ビジネスの世界では当たり前の優先順位づけだとか、個々の政策を全体として調整するような国家意思は、カケラも見えません。だからこそ人はそれを「バラマキ」と呼ぶのです。
 そして最後は、いよいよ菅政権はフン詰まり、レイムダック化したということです。未曾有の大災害に遭遇し、本来なら国民の安全を守るべき菅一派や反・菅一派は、自らの身の安全を守ろうとするばかりで、相変わらずコップの中の政争に明け暮れるばかり。何しろ、松木某という、普段はやんちゃで歯牙にもかけられない人が、今回は筋を通したともてはやされるほどなのです。そんな日本の政治の体たらくをよそに、国際社会は、事実上の退陣表明を行った(政権に留まったとしても進退窮まる)政権と、まともに付き合ってくれるとは思えません。こうしてジャパン・リスクの汚名挽回のチャンスは遠のき、再びジャパン・パッシングが始まるのでしょうか。
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