昨日の続きで、東日本大震災のどさくさで、書き忘れていたことの一つに、震災前日に亡くなった坂上二郎さんのことも挙げたいと思います。享年76歳。欽ちゃんこと萩本欽一さんとのコンビで「コント55号」を結成し、「コント55号の世界は笑う」(1968年7月~1970年3月の土曜夜8~9時、フジテレビ系)や「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」(1969年4月~1970年3月の日曜夜8~9時、日本テレビ系)などの番組で一世を風靡しました。
何しろ「コント55号の世界は笑う」が面白くて、私には姉がいて、その姉と一緒にTVを見ていたので、同級生より5歳くらいはTV経験がずれていると思うのですが、「タレ目」(欽ちゃん)と「ちっこい目」(二郎さん)のコントに夢中になり、物心ついて初めて「お笑い」に目覚めたのでした。ビートたけしさんが、コント55号の笑いについて、「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と語っているそうですが、私自身、子供の頃には欽ちゃんのナンセンスで執拗なまでの突っ込みがおかしかったのですが、今になって思えば、二郎さんの大らかなボケの芸が二人のコントを支えていたのだと思います。
因みにこの番組は、翌年10月から始まったザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」(TBS系)が、TBSの人気ドラマのゲストを起用するなどして、その華やかさも手伝って茶の間の人気を呼び、さらに同時期の日曜夜8時に、当時圧倒的人気を誇ったNHK大河ドラマ「天と地と」にぶつけて実際に視聴率でぶっ飛ばした「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」が、番組の目玉だった野球拳によって低俗番組として槍玉に挙げられるにつれ、「コント55号」人気が急速に萎んで行き、実際に私のような子供たちは一斉に「8時だョ!全員集合」に流れて(こちらもPTAから低俗番組として槍玉に挙げられ続けたものでした)、「コント55号」の二つの番組は同時期に放映中止に追い込まれました。ちょうど大阪万国博覧会が始まったばかりで世間が湧いていた時代です。さらに因みに、この土曜夜8時のゴールデンタイムには、5年後、欽ちゃんが「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で再び帰って来て、私のようにちょっと歳を重ねてドリフの子供だましの芸に飽き始めていた世代の人気を取り戻しました。
さてもう一つの「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」では、野球拳という一種のお座敷芸が、日曜夜8時という家族団らんの茶の間に堂々と流れたものですから、子供心には衝撃でした。脱がされた女優さんも楽しんでいたようでしたし、何しろ二郎さんがノリノリで、圧倒的な明るさに満ちていて、テレビ創成期に咲いた一つのアダ花と言えるのではないかと思います(実際にその後テレビ界では野球拳はほとんど放送されていないようです)。二郎さんは、かつて週刊ポストの取材に応えて、こう語っています。「タイミングもあってたのかもしれないな。テレビの普及は昭和39年の東京オリンピックあたりからでしょ。デビューが41年、売れてきたのが43年。ボクらはテレビが爆発する勢いに、押し出された。おまけに、時代も全学連とかなんとかでもめてた頃。世の中が落ち着くのか、もっと揺れ動くのか見当もつかない。そんな中途半端な時代に、“過激”が受けちゃったんじゃないかな。」
この番組に対する評価が、欽ちゃんと二郎さんとで異なるところが、二人の性格の違いを表しているようで興味深く思います。欽ちゃんは、この番組を「最も嫌いな番組」としていて、PTAから「俗悪番組」の槍玉に挙げられただけでなく、コント55号本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかなかった一方、二郎さんは、乗り切れなかった欽ちゃんと対照的に、この番組で脚光を浴び、自身も乗り気で参加し、代表作の一つに挙げているそうです(Wikipedia)。本人に芸があるというよりも他人を使うのがうまく、相方をいじって笑いに結びつける点では天才的な欽ちゃん(それは「欽ドン」「欽どこ」や「仮装大賞」で素人相手に遺憾なく発揮されています)と、ボケに徹していつの間にかそれを演じていることを忘れて自ら楽しんでしまうような天性のボケとも言える二郎さんの、芸風の違いと言えましょうか。人を笑わせるという点では負けず劣らず厳しい二人ですが、二郎さんの方には茶目っ気と拘りのない余裕を感じさせ、それが人間的な魅力につながっているように思います。そんな二郎さんは「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した」と回顧する一方、欽ちゃんも「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった」と証言しており(Wikipedia)、キャラの違う二人のすれ違いが、コント55号のコントのナンセンスぶりをきわ際立たせ、見る者を心の底から楽しませ得たのでしょう。
Wikipediaに出ていた次の評価は、コンパ芸に毛が生えた程度の芸人が多い昨今のお笑い界に聞かせたい。「激しい突っ込みや野球拳等で売れたものの、駄洒落やパロディ、楽屋落ち、世相批判、性的興味や糞尿譚といった下ネタ、そして相手の悪態やプライバシーを突いてまたは相手を陥れて笑いを取ることは一切行わなかった。」心よりご冥福をお祈り致します。
何しろ「コント55号の世界は笑う」が面白くて、私には姉がいて、その姉と一緒にTVを見ていたので、同級生より5歳くらいはTV経験がずれていると思うのですが、「タレ目」(欽ちゃん)と「ちっこい目」(二郎さん)のコントに夢中になり、物心ついて初めて「お笑い」に目覚めたのでした。ビートたけしさんが、コント55号の笑いについて、「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と語っているそうですが、私自身、子供の頃には欽ちゃんのナンセンスで執拗なまでの突っ込みがおかしかったのですが、今になって思えば、二郎さんの大らかなボケの芸が二人のコントを支えていたのだと思います。
因みにこの番組は、翌年10月から始まったザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」(TBS系)が、TBSの人気ドラマのゲストを起用するなどして、その華やかさも手伝って茶の間の人気を呼び、さらに同時期の日曜夜8時に、当時圧倒的人気を誇ったNHK大河ドラマ「天と地と」にぶつけて実際に視聴率でぶっ飛ばした「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」が、番組の目玉だった野球拳によって低俗番組として槍玉に挙げられるにつれ、「コント55号」人気が急速に萎んで行き、実際に私のような子供たちは一斉に「8時だョ!全員集合」に流れて(こちらもPTAから低俗番組として槍玉に挙げられ続けたものでした)、「コント55号」の二つの番組は同時期に放映中止に追い込まれました。ちょうど大阪万国博覧会が始まったばかりで世間が湧いていた時代です。さらに因みに、この土曜夜8時のゴールデンタイムには、5年後、欽ちゃんが「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で再び帰って来て、私のようにちょっと歳を重ねてドリフの子供だましの芸に飽き始めていた世代の人気を取り戻しました。
さてもう一つの「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」では、野球拳という一種のお座敷芸が、日曜夜8時という家族団らんの茶の間に堂々と流れたものですから、子供心には衝撃でした。脱がされた女優さんも楽しんでいたようでしたし、何しろ二郎さんがノリノリで、圧倒的な明るさに満ちていて、テレビ創成期に咲いた一つのアダ花と言えるのではないかと思います(実際にその後テレビ界では野球拳はほとんど放送されていないようです)。二郎さんは、かつて週刊ポストの取材に応えて、こう語っています。「タイミングもあってたのかもしれないな。テレビの普及は昭和39年の東京オリンピックあたりからでしょ。デビューが41年、売れてきたのが43年。ボクらはテレビが爆発する勢いに、押し出された。おまけに、時代も全学連とかなんとかでもめてた頃。世の中が落ち着くのか、もっと揺れ動くのか見当もつかない。そんな中途半端な時代に、“過激”が受けちゃったんじゃないかな。」
この番組に対する評価が、欽ちゃんと二郎さんとで異なるところが、二人の性格の違いを表しているようで興味深く思います。欽ちゃんは、この番組を「最も嫌いな番組」としていて、PTAから「俗悪番組」の槍玉に挙げられただけでなく、コント55号本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかなかった一方、二郎さんは、乗り切れなかった欽ちゃんと対照的に、この番組で脚光を浴び、自身も乗り気で参加し、代表作の一つに挙げているそうです(Wikipedia)。本人に芸があるというよりも他人を使うのがうまく、相方をいじって笑いに結びつける点では天才的な欽ちゃん(それは「欽ドン」「欽どこ」や「仮装大賞」で素人相手に遺憾なく発揮されています)と、ボケに徹していつの間にかそれを演じていることを忘れて自ら楽しんでしまうような天性のボケとも言える二郎さんの、芸風の違いと言えましょうか。人を笑わせるという点では負けず劣らず厳しい二人ですが、二郎さんの方には茶目っ気と拘りのない余裕を感じさせ、それが人間的な魅力につながっているように思います。そんな二郎さんは「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した」と回顧する一方、欽ちゃんも「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった」と証言しており(Wikipedia)、キャラの違う二人のすれ違いが、コント55号のコントのナンセンスぶりをきわ際立たせ、見る者を心の底から楽しませ得たのでしょう。
Wikipediaに出ていた次の評価は、コンパ芸に毛が生えた程度の芸人が多い昨今のお笑い界に聞かせたい。「激しい突っ込みや野球拳等で売れたものの、駄洒落やパロディ、楽屋落ち、世相批判、性的興味や糞尿譚といった下ネタ、そして相手の悪態やプライバシーを突いてまたは相手を陥れて笑いを取ることは一切行わなかった。」心よりご冥福をお祈り致します。