風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

野田内閣発足あれこれ

2011-09-06 23:43:20 | 時事放談
 国民投票が行われていたら、前原内閣が誕生するところでしたが、民主党内の奇妙な力学によって、党内基盤が弱い野田さんに民主党代表のお鉢が回って来て、2日、野田内閣が発足しました。党内基盤が弱くても長期政権になった中曽根さんの例もありますから、悲観することはありません。
 この間、共同通信が実施した全国緊急電話世論調査によると、野田内閣支持率は62.8%に達し、政党支持率も、自民党が23.6%と、菅内閣末期とさして変わらないのに対して、民主党は27.2%まで回復し、とりあえずご祝儀票が集まった形です。かつての自民党政治への回帰には飽くまで抵抗を示しつつ、二年前に期待した政権交代による変化を、僅かではありますが今なお待望する無党派層の苦渋の気持ちが伝わって来ます。民主党は、平和ボケしていた鳩ぽっぽおじさんに続いて、何事も場当たり的でパフォーマンス好きな、そのくせ無為無策を隠すかのように周囲に当り散らしたイラ菅さんによって、すっかり地に落ちた評判を、三度目の正直で、実務肌の野田さんによって、取り戻すことが出来るでしょうか。
 閣僚や党執行部人事を見ると、派閥均衡人事と言われるようです。確かに内外情勢極めて難しい昨今、コップならぬ猪口の中の争いに終始していて良いはずはありません。また国対経験者を多く配していることから、ねじれ国会の問題だけでなく、素人集団単独では如何ともしがたいと思ったかどうかは分かりませんが(むしろそのように冷静に自己評価して欲しいものですが)、野党との連携に望みを繋いでいる苦しい事情もうかがわれます。何より注目すべきは、松下政経塾出身者が初めて政界の頂点に立ったことで、本人のみならず、長浜官房副長官は2期、党代表選に立候補するだけで名をあげた樽床幹事長代行は3期、前原政調会長と玄葉外相は8期など、同塾出身者が野田政権を閣内と党から支えます。市民運動家出身の菅さんが国家経営の器量が全くなかったことからすれば、経営の神様の薫陶を受けた彼らにはもう少し期待できるでしょうか。因みに同塾出身者は、今や与野党合わせて38人に達し、公明党(40人)と並ぶ勢力にあることには、今さらながら驚かされます。
 早速、小宮山厚労相が煙草一箱700円を目指すという失言があり、蓮舫ごときにまで個人的な発言とはねられましたが、この程度であればまだかわいいものです。それよりも、外交分野で未知数の玄葉外相(彼自身に対しては民主党の中で期待している方の部類に入りますが)、同じく、どうしてもなべやかんを思い出してしまう財務畑で未知数の安住財務相、そして大臣就任直前に「安全保障は素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」などと頓珍漢な発言があって失笑を買った一川防衛相を配するなど、民主党に人材が払底していることを見せつけられるような布陣に愕然としてしまいますが、総選挙に追い込む気概が自民党にない以上、瓢箪から駒を望むしかありません。
 菅さんは気の毒なくらい人々の記憶から消えてしまいました。しかし、代表選が行われた日のドサクサに紛れて、立つ鳥跡を濁すような、最後まで思いつきの身勝手をしでかしたことを私は許せません。ご存じの方も多いと思いますが、昨年11月に北朝鮮が韓国を砲撃したことを受けて中断していた朝鮮学校授業料無償化手続きを再開するよう、高木文科相に指示したというものです。一体、北朝鮮情勢にどんな好転の兆しがあったのか、理由をしかと聞いてみたいものです。そんな彼も、鳩ぽっぽおじさん同様、党の最高顧問に就任したというのですから、民主党は一体何を考えているのか、理解に苦しみます。名誉職に追いやって、口出しさせないというのであれば歓迎しますが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュース性のないニュース

2011-09-03 03:25:18 | 日々の生活
 最近、こんなことまでニュースで取り上げられるなんて!?と疑問に思うことが多くなりました。NHKやまともな総合紙までもがワイドショー化していると、かつて別のブログで嘆いたことがありますが、その延長上にあると思われるのが、数日前、宇宙飛行士・山崎直子さんが行った宇宙飛行士引退記者会見についての報道です。宇宙飛行士を引退することは本人の勝手ですが、宇宙飛行士って、そんなことをわざわざ記者会見まで開いて世間に披露するような職業だったのか? 山崎さんを非難するつもりはありません。何か別の狙いがあるなら良いのですが、なんだか自分の価値観に自信がなくなるようなニュースでした。
 ある雑誌で、池上彰さんが、かれこれ30年前、NHKで警視庁捜査一課担当(つまり殺人事件専門の記者)だった頃のことを語って、当時は、特殊な例を除き、殺人事件は、2~3人まとめて殺されるような事件でない限り、全国ニュースにはまずならなかった、例えば北海道で起きた殺人事件は北海道のローカル・ニュースどまりだったと述懐されていました。ところが最近は、殺人事件数は減っているのに殺人事件報道が増えているのは、現在、民放を中心に、ニュース番組の時間枠がどんどん拡大しており、芸能人を起用したコストのかかる番組の代わりに、殺人事件の取材報道はマスコミにとって一番楽で、予算のわりに視聴率が見込める理由からだと解説しています。報道記者やニュースに強いディレクターが増えるわけではない、そんな時、殺人事件報道ほど、注目を集めやすく、かつ取材が楽なものはない、事件の概要は警察が全部発表してくれるし、容疑者や被害者の写真も貰える、カメラマンを現場に出せば、とりあえず現場の映像が撮れる、マイクを向ければ、近所の人は「怖いですね」と言ってくれる、あっという間に5~6分の報道が一丁上がり、というわけです。また、警察の方も、殺人事件は過去最低、といったことは誇りにはなるけれど、警察白書の中にさりげなく書かれるだけでよくて、むしろ治安がいいならば警官の数も少なくていいのではと言われたくないので、大きく報道されない方がいい、却って殺人事件報道が増えた方が自らの組織の存在意義や警察官増員計画を正当化できて好都合だ、などと穿った見方もされています。
 調べてみたら、確かに、2010年に発生した殺人事件(未遂も含む殺人認知件数)は1067件で、戦後最少を2年連続で更新しました。1954~55年には3000件を越えていたのに、その後漸減し、終戦直前の1944~45年に記録した939件や919件に迫る勢いです(昭和初期は2000~2500件)。因みに交通事故死者数も、2010年は4863人で、10年連続減少しています。ところが自殺者数はここ10年強の間、年間3万人レベルで高止まりしていて、日本の社会のある側面を物語るようです。
 さて、殺人事件に話を戻すと、ちょっと古いデータですがICPO調査(2002年)によると、人口10万人あたりの発生率で、日本は1.10件と、先進国の中ではアイルランドと並んで最も低いとされています。因みにスウェーデン約2件、ドイツ約3件、イタリア・フランス・オーストラリア3.6~3.7件レベル、アメリカ5.6件、イギリス・スイス18.5件、ロシア22.2件となっていて、日本は十分に誇って良い。何だか最近いよいよ強まっている日本人の潔癖症のせいか、日本ではちょっとした殺人事件まで全国ニュースで取り上げられるようになって、統計値とかけ離れたあるムードを形成していて、これも日本を元気にさせていない原因の一つになっているように思います。ニュースの扱いや受け止め方は、ワイドーショー化して楽しむ分には良いですが、場合によっては注意が必要です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発と放射線を巡る問題(9・完)

2011-09-01 00:51:37 | 時事放談
 このタイトルでの連載を続けてきましたが、依然、福島で苦しむ人々がいる中で、高みの見物を決め込むつもりは毛頭ありませんし、単なる興味本位でももとよりありません。確かに、今回、事故が起こったのが福島という東北方面だったからこそ、首都圏における被害の実態はよく分からないところがあるものの、私自身は(恐らく多くの方と同様)安穏としていられたわけですが、首都圏の西の方角で大きな爆発が起こり、日本ではそれほど強くはない偏西風がたまたま強く吹き続けて放射性物質が首都圏に大量に流れ込んでいたとしたら・・・と思うとゾッとします。菅内閣の対応を見ていると、浜岡原発停止でそういった懸念が働いたように見えますが、それを除けば、およそ全てにおいて感度が鈍く、想像力が欠如しているように思われてなりません。自分の身は自分で守るしかなく、この狭い日本で、明日は我が身と、覚悟せざるを得ない。ところが・・・
 福島原発で事故が起こった当初、何が起こっているのかさっぱり分かりませんでした。一番事情を把握しているはずの政府が、把握していたのかいなかったのか、分かっていて情報統制していたのかいなかったのか、今もってよく分かりません。その結果、TV番組や雑誌には専門家や俄か専門家モドキが氾濫し、原発推進派から原発反対派まで、それに伴い、放射線被害を過小評価する論評から危険視するものまで、様々な解説が乱れ飛び、私たちシロウトを混乱させました。ただ私の行動原理としては、事情を掴んでいるはずの政府や東電関係者が東京を離れようとしていない限りは、とりあえずは大丈夫だろうと・・・(笑) それはともかくとして、そうであるならば、原発や放射線の問題について、分からないままに措いておくのではなく、またイデオロギー論争だと忌避するのでもなく、自分なりに読み解いて理解しようと、ささやかに集中的に取組んでみたものでした。
 ちょっと前の日経新聞・経済教室で、東大の元学長・吉川弘之さんが、事故への対応のみならず行動者に対するより広い科学的助言の問題を論じておられます。科学者の助言には二つあって、一つは、工学研究者が企業技術者に行うような同じ領域内での専門的助言であり、もう一つは、行政への助言のように専門内にとどまらない公的決定に対する社会的助言です。原発事故への助言は後者であり、欧米では、生命倫理、遺伝子組み換え食品、BSE(牛海綿状脳症)などの困難な経験を通して、「独立、不偏、学派なし(どの学派も代表しない)」という中立的助言でなければならないとの考え方が定着してきたそうです。一人ひとりの科学者が自己の考えをそのまま助言すれば、学会の中での学問上の対立が社会に持ち込まれて社会的紛争を拡大してしまうからです。しかし日本では、公害、薬害、食費衛生、干拓、ダム建設などにおける科学者間の解釈の違いが政策決定の差異を強化して社会的紛争を激化させ、被害や社会的損失を拡大してしまった例が多くありますが、残念ながらこれから学ぶことがなかったと述べられます。現代社会のシステムは多領域にわたる知識を使って高度に統合化されており、一人の科学者では全体を見通すことができず、領域を超えた複数の科学者の俯瞰的協力作業が必要で、科学者は、領域に埋没する日常的な研究とともに、自己の領域から一歩踏み出し、科学的知識の全体状況を俯瞰し、集合的知性を創り出すという、二つの異なる使命が求められると提言されています。
 科学者らしく、政治性を極力排し、抑制のきいた格調高い文章で、日本の科学アカデミーに対して苦言を呈しておられるわけです。これを読むと、日本の社会は十分に成熟しているはずなのに、「個」に対する「公」領域の位置づけがいまひとつ曖昧で、個人とコミュニティの関係、個々の科学者と社会的貢献といった関係が、欧米と比べて健全な成長を遂げていない印象を受けます。それは科学者側の問題であるとともに、行政側の問題でもあり、いわば社会の問題です。
 とりわけ今の日本の政治は、未曾有の大災害や原発問題に直面して、何の助けにもならないことが判明してがっかりしました。連載の中で登場した武田邦彦さんは、本来は「安全な原発」推進派だったそうですが、政府や行政のお粗末な対応を見て来て、とてもこれでは制御できるわけがないと、原発反対派に転じたそうです。専門家らしい割り切り方ですが、さもありなん。私も「安全な原発」推進派、しかし私はそれでも日本の技術を信じたい気がしますが、本来、信じる信じないの類いの問題であるべきではありません。日本のエネルギー戦略は、菅総理のような思いつきで脱原発依存に舵を切るのはともかく、今後の進め方とりわけスケジュール感について、吉川弘之さんが言われたように、「独立、不偏、学派なし(どの学派も代表しない)」の中立的助言をもとに、しっかり議論されるべきです。
 日本人にとって、3・11の問題の本質は、自然災害の恐ろしさを再認識し、地震や津波はどこで起こっても何の不思議はない日本列島にあって、明日は我が身の日本人としての連帯感とある種の諦観を再認識したこと、そんな中、一人の個人がなし得ることはたかが知れているという無力感を、しかし多くの力が集まれば山までは行かないまでも小山くらいは動かせるという微かながらも確かな手ごたえとともに、否応なしに思い知らされたこと、そして身の安全は国が守るのではない、やはり自分で守らなければならないことを再認識したことでした。かかる過酷な環境にいる日本人だからこそ高度に発達させてきた「忘れっぽさ」の美徳は、この際、発揮させることなく、戦後シンドロームの中で、安全保障まで他国に依存し、国を守るという意識すら退化させてきた日本人に、大きな反省を迫るものであれば良いと心から願いつつ、このシリーズはいったん終了したいと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする