想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

知能指数より幸せ指数

2007年10月29日 | インポート
 今、教職の身についているわけですが、私は若い先生に言うことがある。それは、「幸せ指数を大事にしてくださいな。」と、いうことである。自分の職業についても、私生活にいたっても…。算数の問題はできたが、果たして子どもたちは、それで幸せになったのかな、テストができたにもかかわらず幸せ感がないとしたなら、どこに問題があったのか、と、絶えず自問自答して子どもと接して欲しいと思う。そういう観点からすべてが進んでいったなら、もっと充実感あふれる人生になっていると思う。必ずしも勉強ができる子が幸せな人生を歩んできたか、と、いうと、そうと、ばかりは、いいきれない。
 幸せって、失ってみなければわからないような面も無きにしもあらずであるが、やはり、すべてに優先しなければならないことである。
 私はこの長い人生、私なりにいつも、この幸せを求めて、今まで生きてきたつもりである。過去を悔やんだりしたことが一度もない。
 仕事を考えるにも何事も、つまるところ、今、やっていることは幸せにつながることかな、と、いつも自問自答をしてきたように思う。ミクロ的には、必ずしも、そうは考えなかったが、マクロではそれを考えて来たつもりである。分かる、できる。これはこれで、いいのであるが、その先にいつも幸せというものがなかったら、つまらない物になってしまう。
  人類は幸せを求めて色々なことをやってきたように思うが、最近の教育をみていると、どうも、分かる、できるという方面に熱心になりすぎて、この、情緒的な数値目標で測ることのできないものへの尊敬というか、畏敬の念を忘れていることに大きな問題が潜んでいるように思う。漠然としているんだけど、方向としてはいい線いっているとか、そういう漠としたことや、無用の用《「荘子」人間世から》のようなこと、があるのに、その辺を見落としてしまっているような気がしてならない。音楽で言えば休符だ。建築でいう空間、朗読でいえば、間である。間がないことを間抜けと、昔の人はうまいことをいった。
 分かるできるという技術的な面もそれなりに大切だが、情緒的な面も大いに感じてもらいたい。両価値はうまくあいまって、幸せにつながっていって欲しい。あまりにも、最近のTVをみていても、平気で近視眼的に人をだまし消費期限を偽る悪徳商法も氾濫している。また、亀田問題も勝ちが最終目標になってしまい、その奥にある大事な物をわすれてしまい、人様や自分の本当の幸せがどこかにすっとんでしまった。まだ、日本はこのような兆候があらわれると、あるべき姿に戻そうとする力がどこからか出てくるから少しはましである。これがなくなった社会になったら、それこそ、日本という国は世界史からなくなってしまうだろう。色々なことが次から次へと起こってきているが、マクロとミクロの目を持ちしっかり世の中を見ていかなくてはと思う今日この頃である。いわゆる自分の幸せを社会の幸せにリンクしていく知恵を身につけていきたいものである。そんな生き方が、今後、できたらすばらしいなと思う私の希望的観測である。
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