コロナ元年1月25日
子どもの頃から天才といえば、アインシュタインとかレオナルドダビンチとかゲーテ等の人物名を聞いたことがあります。そして、IQが独り歩きして来た感があります。天才なら何でもできちゃうという想いがあり、凡人には、神がかり的存在でした。誰でも一時はそんな人にあこがれを抱いたことがあることでしょう。
しかし、人類の大半は究極的には命を繋ぎ、幸せに生きようと誰でも願っています。天才は一握りのひとしか存在しません。だから、天才です。すべての人類が天才だったら、もう、天才とはいわないでしょう。天才=凡才となってしまいます。
そう考えるともう、天才でなくてもいいのではと納得してしまいます。個性あふれる自分を演出できればそれで、幸せです。それが仏教でいう自らの分け前である自分です。天才でも凡才でもそれはどうでもいいのです。一人一人はみな自分です。かけがえのない存在です。それが、個性です。その中で天から与えられた使命を終えればいいのです。
今、何でもできるはずの天才がコロナ禍から人類を救えているのでしょうか。その方向で頑張ってくれていることは認めます。が、今回のコロナの出現はなかなか難しい問題で未だ未解決の状態です。
やがて、時の流れの中で、コロナ禍との対決も共存の道を歩んでいくしかないと私は推察しています。世の中の動きは正反合の弁証法で表現ができますが、仮に今回言い薬が出たとしても、一時的なもので、やがて、また、新しいウイルス変異を起こし、どこまで行っても切りがないでしょう。どの生物も自己保存を図る仕組みが生来あるでしょうから、それが免疫力あり、自然治癒力です。それが、生物というものでしょう。
だから、人類だけ生きようとしても、どっこい、それは不可能です。世界は多様性の中で成り立っているのです。結論としては、どこかで折り合いをつけて、いくしかないのです。勝者はなく、同じ生物として、共存していく方法をみつけるしかないのでしょう。私はそう考えます。
科学は天才たちによって新しい医薬品を発明するでしょうが、それは、いたちごっこで一時の時です。世界の本質は変化ですから、仏教では諸行無常ともいいます。また、新しい対立点を生み新たな課題を突き付けてくるでしょう。
ところで、今回のコロナ禍を誰が予想したでしょう。誰も、予測できませんでした。まさに青天のへきれきの出来事でした。平和ぼけのど真ん中にいて、地球資源を惜しみなく使い切っていた現代人には想像もてきなかったことでしょう。天才をもってしてもだめでした。仮に未来を透視できる天才がいれば別だったでしょう。来るべくして来、起こるべくして起こった自然現象でした。
実際にコロナ禍が起こってみれば、その前にスペイン風邪もあり、人類は伝染病との戦いの中にいたのです。平和ぼけの中でそのことに気づかなかったののです。平和とは絶対的なものでなく、相対的なものなのです。平和な状態とはいつも内面では悪と正義のバランスの上に成り立っていたのです。地球の引力と月の引力が丁度釣り合っているから、月と地球は衝突しないのです。その両者の微妙なバランス感覚の中に平和はあったのです。一見すると平和な状態は一元的に想えますが、その中では絶えず正反のバランスがあったのです。
これからも、私たちは絶えず環境との変化の中で折り合いをつけながら、脈々と子孫を繁栄させていくしかないのです。万物の霊長としての人類でなくささやかな生物の一員としての人類でいないと、大変な目にあいます。地球温暖化の問題も人間だけが尊大になり過ぎた結果なのです。有限なる資源をすべての生物と分かち合えながら、進むしか方法がないのです。今回の未曽有のコロナ禍はそのことが大きく問われているだろうと想います。
人口爆発の問題も産業革命以来徐々に進んで来ていたのです。ですから、地球への負荷は益々増大していたのです。このままでいくと、地球の生物は人類だけになってしまいます。まさに地球が限界を迎えつつあったわけです。
欲望の資本主義もやがて、環境の資本主義に変えていかざる運命の中にあるのです。
今回のコロナ禍はまさにその真っ只中で起こるべくして起こったのではないでしょうか。人間だけ、万物の霊長して尊大にふるまった結果として、私たちは謙虚にこのことを反省した方がいいように想いました。