震災8年9月24日
スーパーボランティア尾畠治夫さんのドキュメンタリーがTBSで昨夜10時から放映されていました。私は録画をして、後でじっくりみてみました。
特に今夏の明るいニュースを尾畠さんが提供してくださいました。あんな美しい心を持った人が今どきいるだろうかとびっくりしているところです。どのお顔も、素晴らしいです。まさに、長年私がわすれていた偉人といわれる人でした。
最近の道徳では偉人は扱わなくなりました。誰もが、まねできないからでしょう。凡人と同質な人の生き方を問う場面のペーパー道徳が多くなってしまいました。それはそれでいいと思います。昔は修身といわれる死んでもラッパを離しません的なものしかなかったのだから、しかし、今の道徳も修身から離れすぎて普段の人の生き方を問うペーパー道徳になってしまいました。道徳も教科に格上げさせられ教える時代になりました。やはり、同質的な人間を扱うとともに永遠になれないかもしれないけれど、異質な偉人を扱ってもいいとおもいます。大切なことは片方だけをみるのでなく、その同質性異質性の両面を考え実践することが大事なのです。
今回の尾畠さんの美しい心からにじみ出た行いは称賛に値しますし、利己主義、拝金思想がはびこる中にあって久々の世の中を明るくするビッグニュースでした。
さて、偉人は我々の凡人では真似だできないだろうけど、その方向を向くことはできるだろうと思います。永遠にベクトルの向きの先に偉人がいると捉えたなら偉人の存在も大きな意義を持つのではないかと思います。
私たちと違う人なのよと、軽くいなしてばかりいないで、できないかもしれないが、そういう人を尊敬して、その方向に日常のエネルギーを向けていくことはできるのです。ある人は1%のボランティア精神でもいいのです。それが、少しでも伸び2%になるだけでも…、それで、日本の社会が住みよい社会になっていくのです。
人はしがらみの中で生きています。妻をめとれば、彼女のことも考えなくてはなりません。子ができれば、子の人生も考えなくてはいけません。突拍子なことはできないのが普通です。その中にあっても凡人であったも、ベクトルだけは偉人に向けることができます。
今、そのベクトルの向きが、表面的な個人利益にだけ、向いている人が多数になってしまっているのが、憂えることです。企業も個人もお金の遥か先に「万人の幸せの為に」を置いてほしいのです。また、何のためのお金なのか、企業がお金をため込んで何をしようとしているのか、その先にあるものが大切なんです。それを失ってしまったら本当の幸せは来ないのではないのでしょうか。尾畠さんの行動からそんなことをたくさん勉強させていただきました。
心の底に真心を持った人は、しゃべることすべてが本物で温かい心そのものでした。世のため人のためにすべてをささげた人でした。言葉の端々にその誠がほとばしり出ているお話がたくさん聞けました。マザーテレサやガンジーにも匹敵する人だと思います。しばらくそのようなタイプの人は出ていませんでしたので、特に驚きです。
お顔を何枚も見ましたが、どれをとっても本物の方でした。今があるのも、皆さんのおかげとおかげを連発していたのも印象的です。このおかげ様という言葉も最近はあまり言われなくなり、寂しい限りです。私が子どもの頃はよく聞きました。
今、誰もが、大学に行く時代にあって、彼は大変な家庭に生まれ、10歳のころにはお母さんをなくしたと聞きました。インタビューでも母の恩について語っていました。その中で「母に抱かれてあばら骨が折れるまで抱きしめてほしい。」と、涙ながらにいっていた尾畠さんの姿に特に感銘を受けました。やはり子育ては賢い母の力によるところが大だなと思わずにはいられません。OJTという言葉がありますが、尾畠さんは学歴こそありませんが、生活を通して生きた真っ当な処世術をたくさん学ばれたのだと思います。
78歳のおじいちゃんですら甘えたように母にあのような姿を見せるとは、まさに「母の恩は海よりも深し父の恩は山よりも高し」を地でいっているようでした。普段忘れていたおもいやり、感謝、畏敬に念がふつふつと沸いてきました。やはり、母はいつまでも、心のふるさとであり、心に生きているんだなと思います。
今、世の中で困ったことに、何でもできるように錯覚して、感謝、尊敬、思いやり、畏敬の念が薄らいでいるように思います。何でもできるのでなく、勝手にできると思い込んでいる独善的な自我があるだけだと思います。そんな姿を神様は天から見ておられるのです。
どんなにもがいても、どうにも自分だけではならないことがあるんだなという謙虚な姿が必要だと思います。「どんなにどんなにやっても、陽子の力では…で亡くなっていった三浦綾子さんの氷点」の原罪を思い出すのです。そこに個人だけでは解決できない、信仰の心がかかわってくるのだろうと思っています。
尾畠さんも特定の宗教には入っていないかもしれませんが、きっと、信仰心の厚い人だろうと推測されます。信仰ほど強いものはありません。知識は思想となり信仰へと昇華してゆくのです。そして、不動のものとなります。
天草の隠れキリシタンをみればわかります。人というのは、我以外の何かに支えられないと生きていけないものだろうと思います。だから、我以外皆師であります。そして、人様の喜びの為に生きてゆけるのが一番幸せなことではないでしょうか。いいことがあれば人さまにもそれを分け与え、一緒に喜びたいと思うのが人情ではないでしょうか。
今回の尾畠さんの素敵な出来事は日本中を明かるくしてくれました。尾畠さんありがとうございました。