コロナ2年5月13日
一介の職人から最後は楽器会社でピアノ作りに励み、定年をむかえてリタイヤした大好きだった父の面影が時たま浮かんでくることがある。
80歳で他界して、今、生きていれば、112歳になるのだろう。私も後、6年もすると父の鬼籍の年になると想うと感慨深い気もする。
歌とお酒が大好きで会社で宴会があると「俺がいないと、座がしらける。」と、いっては、飲んで帰ってきた。母はそれが嫌でよく喧嘩になっていたことがあった。兄弟の多い父と、一人娘の母という事も影響しているのだろう。もうちょっと、母も会社人間としての父を理解していてくれても良かったのかなと、大人になって想ったことがあった。
「お父さんは意志が弱い。お酒に飲まれてしまうから」と、よく言っていた。会社勤めを終え、家路に着くと母に謝っては、また、宴会があると懲りずに飲んで帰って来ていた。
母の事を想うと、私が将来偉くなってお酒のない世界にしたらと想うこともあった。母に取ってはお酒を飲む父が許せないらしかったが、不思議と暴力をふるう事だけはなかった。まあ、子ども達には優しい父であった。
朝になると、酒を飲み過ぎた医師の弱さを反省でもしているのか、決まって、仏前で般若心経を唱えていた。もっと、他にも何か意味もあったらしいが、そのことは、最近妹から聞いてわかった。父の人生も大変だったなと想う。
そんなわけで、般若心経を横で聞いていて育ったので、いつの間にか、それを諳んじてしまい、今では、朝のウォーキングでは私も一人で歩きながら唱えるようになってしまった。
酒に飲まれ、意志の弱い職人肌の父ではあったが、信仰心のあった父だったなとと、しみじみ想う。時にはこんなことも、私に行ったことがあった。「幸せはどこにあるか、分かるか、東にも西にもない。南にある。そう、皆の身だ。」なんて、言っていたことも懐かしく想う。
退職してからは、般若心経の写経を毎日筆で書いていた。
裕福な家庭で育ち、頭は父よりもよかった一人娘の母とは違うものを父の背中から沢山学んだ気がした。
そんな父が晩酌をすると、決まって酒の肴にするのが、食べた後の骨だけになった魚にお湯を注ぎ、それをうまそうに飲む姿だ。
実は、この魚の骨にお湯を注だスープのことを骨湯ということを、今、初めて知った。ある地方では郷土料理にもなっているそうだ。
また、父は、お風呂の蓋を使ってそのうえで、よくうどんを作っていたこともあった。それから、すいとんが得意でよく私も食べたものだ。
当時としては、誰でも、簡単にできる料理であったらしい。うどん粉さえあれば、それを醤油仕立てのスープに野菜と共に入れればいいのだから、簡単だ。今でいえば日本版ボルシチだったかも…。
もともとは、家具職人で父の18番は芸者ワルツという歌でいつの間にか聞いていて、私も覚えてしまった。他にも、近所の友を集めてよく我が家で蓄音機でうたったりして飲むのが大好きだったようだ。今でも、でかんしょ節、ノーエ節、炭坑節が懐かしく想いだされる。蓄音機の針も鉄や竹のだったと記憶してるが…。
今想うと単なる知識でなく、大切なことは、人間としてどれだけ経験を積んだか、その経験値の豊かさが、その人の魅力になるんだなと父から学んだ気がする。やがて、私もいずれあの世で父と再来することになるだろう。