これは、遙か昔、私が6歳くらいのことである。空を見上げ、飛行機を見て「あっ二機。」と、叫んだ子がいた。高林君という2歳ぐらいの近所の子である。何だろうと思って私も一緒に空を見上げた。飛行機が空を飛んでいた。
その子は飛行機を二機と言っていたのだ。
飛行機のことを二機と言ってるんだなと、当時思ったことを今、新聞の「空を見上げている子供の写真」から思い出した。
言葉と言うものは、飛行機であれ何であれ、たまたま、二機飛行機が飛んでいる場面を見て、誰かが、それを二機飛んでいるという飛行機の数で表現しているのを、彼が勘違いして、あの飛行機のことを二機と思っているらしい。と、気がついたことを思い出した。
小学校の生活科では「気づき」を大切にする教科だが、まさに、そのことが、「気づき」そのものだなと、今、回想している。「気づき」の連続が生活科の本質である。
昔は、そんな教科がなくても、色々と生活していれば、何かと気づくことはあったろうと思う。その足跡の上に自分の生き方も見えてくる。人生は「気づき」の連続であるともいえる。ならば、この世の旅立ちまで、「気づき」の連続の人生であろう。
生活科も本来、気づきの空間さえ与えれば、自分で気づいていけるのかも知れない。気づきは内面の問題でもあるので、なかなか、その力を育てるのは難しい。教育も、そのきっかけを与える程度かも知れない。
湖畔をウォーキングしていて、ふと地面に目をやると、栗のいがが目に入った。もう、秋が近いんだな。そう、思わずに入れなかった。
そう、これから秋がくるんだな。実りの秋が、そんな感じだった。それにしても、この時期に栗のいがを見つけるのもめずらしいなとも思った。まだ、立秋も迎えてないこの暑い時期に、なぜ今頃いがが落ちてるのだろう。
そういえば日本には二十四節気といって1年を24に分けて季節を表現する考えがある。7月23日頃が大暑なので、今日は立秋に向かう一番暑さが厳しい期間らしい。冬で言えば、大寒1月20日頃から立春の間に相当するだろう。
「栗のいが 暑さの中に 秋の色」
そんな感じかな。そういえば、20代の頃、「感じで仕事をやってはいけない。」と、上司に言われたことを思い出しました。仕事はある程度数量化してやらないと、出来ない部分が多々あるなと、今でも感じています。
しかし、人生はどう感じるかの感覚的な部分が大事なように思います。そうですよね。幸せ感は感覚感性の問題ですものね。それが、なくなったら、生きる価値もなくなってしまいます。その感覚、今後も大事にして行きたいです。
感性は 生きてる証 いつまでも
宇宙の彼方 どもまでも
西の空があまりにもきれいなので、フォーカスしました。蒸し暑い日が続いていますが、こんなにすがすがしい写真が撮れました。左に浮いているのが月です。この時刻のことを日本語で何て言うのだろうと、一瞬浮かびました。日本語は情緒的な言葉でも多くの表現があるのは知っていましたので…。黄昏、夕暮れもっと他にないかな。
夕暮れて 西から出ずる 月夜かな
白夜にも似て 今日も終わりぬ
紫の 空を染めゆく 西の空
すがすがしさに 暑さ忘れぬ
先日、久しぶりに玄関前の庭の手入れをしました。笹を刈ったり、垣根のシロカシの余分な木をカットしたりして、だいぶ玄関前がすっきりしました。
左上の木の根本にあるものが葉蘭です。昔はよく、おにぎりはこの葉蘭や竹の皮で包んだことを懐かしく思い現在も植えてあります。その中に包まれたおにぎりのおいしかったことを今でもよく覚えています。
下は分譲住宅を買ったばかりの頃の庭です。松の木が植わっていますが、いつのまにか枯れてしまいました。現在ではその代わりに南京ハゼがメインツリーとして植えてあります。
そのうしろによしず垣根がありますが、現在は代わりにシラカシが植えてあります。また、玄関横のツゲも当初は植えましたが、今は虫にやられてしまい。そこは現在駐輪場ににかわりました。
庭も家を購入した当初とだいぶ景色が変わりました。懐かしいので、昔の写真を載せてみました。 当時は、庭園にこっていて、スギゴケを植えたり、千鳥に庭石を置いたり、竹垣を作ったりして楽しんだことがきのうのように思い出されます。つくばいを買い、ししおどしを作って茶庭らしきものをと考えたこともありましたが、そこまではいきませんでした。
この写真は平成4年の2~3月頃の玄関前の庭
南側のメインの庭です。石を千鳥に組んでみました。手前左下にあるのは和紙の原料になるミツマタという植物です。今では枯れてなくなってしまいました。春先に可愛いオレンジ色の花が咲きます。
竹垣は自分で作ってみました。右の玉のようになっているのはドウダンツツジです。今でも庭にあります。左上には夏椿の木が植えてあります。これも、今では枯れてなくなってしまいました。代わりに現在はモチの木が植えてあります。