想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

風になって

2007年01月21日 | インポート

 今年の新年会で「始めの言葉」をしゃべる羽目になって、こんな俳句を披露した。「門松や 合わせるその手を 風が吹く」門松に手を私が合わせて、お願いをしていると、風がふっと吹いてきたんだよ。と、言うような意味である。その風により、色々なことが起こりうると、いうようなものだ。今年はその風になってどこにでもいき、色々な自分を試して見たい意味もあった。また、今年は確固たる新年の決意もないので、「風」というテーマが一番自分の気持ちにぴったりであると思う。
  そんなことを考えていると職場で『○○さん「千の風になって」という歌の歌詞を知っていてその話をしたとおもった。』という人がいて、そういえば今年は風が結構トレンドになっているんだと思った次第である。

<千の風になって>

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています

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地球温暖化から思う

2007年01月21日 | インポート

 年末年始からの暖冬のせいか、連日地球温暖化のことがマスコミの話題になっています。もと、アメリカ副大統領のゴアさんの番組も食い入るようにみてしまいました。私のような一凡人にでも、できることから少しずつやっていくしかないと思います。自分一人でできることではないのですが、みんなでやらねばいけないタイムリミットまで来ているのだと思います。このまま、いくと、安倍さんの美しい日本が自然の面からもなくなっていくしかないところに来てしまっているようです。

 私も美しい日本は大好きです。特に日本の四季の移ろいの変化は言葉では言い表せないものです。情趣があります。わび、さびなど言葉で言い表せない中に日本の良さがあったはずですが、最近はやたらと表現だとか行動目標だとか、外面に表さないと意思疎通ができない人間ばかりになったような気がいたします。教育もその辺に益々加担しているような気もします。東洋的な発想をもっと持つべき時代に入ったといえるでしょう。そうでなければやっていけないと思います。

  言葉で人と人との関係を気づくやり方は人中心の世の中だけに通用することでしょう。地球号には人ばかりではないはずです。その辺の考えを根本的に変えていかないと、この先人類も危ないと思います。言葉だけでやりとりしようと思わないで、言葉のない世界の中からコミュニケーションする能力をもっと磨いていかないと、人類は危ないと思います。そこに、気づいて行って欲しい時代になっています。美しい日本もそのような考えがあって初めて成り立つのではないのでしょうか。ですから、私は、自然と言う言葉が大好きです。自然、おのずとしかるべきすがた、現在の自然をしかと見届けよう。そこから、新たな展開が生まれる。人類は生かされている、他の森羅万象と共存していく以外に道はないのです。

  たとえば、どの学校でも「大きな声であいさつをしましょう。」その通りですが、どっこい、人間は色々な感情で動いています。また、身体的に生来声の小さい人もいるでしょう。その辺のことをおもんぱかってあげる気持ちが思いやりを育て人の痛みを分かって上げられることになるのだと思うのですが、どうでしょう。大きな声のあいさつよりもっと大事なことがあるでしょう。その辺を私は言いたいのです。

 この温暖化の問題は現在の色々なばらばら殺人事件とかいじめ事件などの広く教育問題とも密接に関わっていると思います。ましてや経済優先の世界情勢の中で長く遠くを見つめなくてはいけないものがないがしろにされている結果だと思います。

 温暖化も、心の貧しい問題も結局は早く答えを出したい、そんな焦りの中から必然的に生まれたのだと思います。こと、教育と環境の問題はすぐ、答えが出るものでなく、時間という悠久な自然の摂理の中にしか、解決策が見いだせない問題なのでしょう。そういう悠久なことこそ問題としなければならないのに、目先の利益に目がくらんでいる結果だと思います。時間というエイジングを必要とすることを最優先して行く社会に変えて行くしかないのですが、その旗をどうやって振っていくかが問題です。長いスパンで考えていくしかないと思います。私も、微力ながら頑張りたいと思います。

 多分、ここ数年のうちに「南海の楽園の小さな島が沈んでいく」「極の氷山が大きくなくなる等」のテレビ放送が衝撃的に何度も映し出されるのでしょう。でも、世界の歯車は、まだ、効率、利益等という名の下に進んで行くでしょう。BRICSという国々の問題もありますし、世界の経済の考えや生きる価値観を根本的に変えていかないと解決はないと思います。やはり、人類を救う強大な指導者がでないと無理ですね。今後の指導者は単にキリストのような聖人だけでなく、経済的な側面や実務的な面にもたけていないと無理でしょう。とにかく、世界の経済の仕組みを根本的に変えていくわけですから、精神論だけではどうしようもないですよね。現実は?どうにかならないのですかね。

 さて、確かに今年の冬は特に地球温暖化のことを意識せずにはいられなかったと思います。普通は冬になると遠州の空っ風がもっと吹いていいのに、あまり、今年は吹かなかったようですし、寒い日も少なかったようです。そして、雨が多くなり冬型の配置が崩れるとともに低気圧の通過も多かったようです。この辺では芋切り干しや干し柿に困ったと思いますよ。

 そして、外で花壇等の手入れをしていても、昔に比べると、太陽が出ているときは気温が低いにもかかわらず、直射日光というか日差しが強くなってきていると感ずることが多くなりました。そして、日がかげるととたんに寒く感ぜられることも多いように思います。この辺の異変は私としては随分前から肌で感じていました。マスコミではそのような体感的なことは、あまり、行っていないみたいですが…。この辺はオゾン層が薄くなってきていることと案外関連があるのではないかと推測されます。

  現在、小学校に勤務しているのですが、最近の学校でも数値目標だとか、PDSCだとか、時間数の確保だとか、やたらと、評価の問題や分析が入り益々現場が忙しくなってきています。その分、時間のエイジングを必要とする心の問題をどう見るかというか生き方を問うという時間が減ってきていると思います。この辺とのバランスが大切だと思うのですが、すぐ、結果を出そうとする風潮が教育界でも見られるようです。由々しき問題だと思うのですが、どうしようもないというのが現状です。この辺の問題と温暖化の問題も微妙に関連があるように思えてなりません。

 もっと、学校や地域でも自然と自然にふれあえる仕組みを整えることが大切だと思います。教室の床磨きも糠でやるとか、校庭の草も取るとか、学校にビオトープをつくるとか、生き物が身近に見える環境にするとか、なるべく有機物を使うとか、また、たまには太陰暦の暦で生活してみるとか、給食の残飯を肥料にする施設をつくるとか、校庭をすべて芝生化するとか、とにかく化学物質とのふれあいを極力少なくし、有機物というか命を感ぜられる物とのふれあいを多くすることを考えることの大切さがもっと大いに奨励されてもいいと思います。その中から人間以外にも命があるし、言葉のやりとりを超えて命は人とつながっていると言うことが体感できると思います。いじめ解消のヒントも案外この辺にあるように思えてなりません。

<わが家に来た糸トンボ>

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