震災2年12月4日
とんでもない事故が起こった。テレビを見てびっくり、というのも、天井板は50~60メートルにわたり崩落。天井板は1枚あたり横5メートル、奥行き1・2メートル、重さ約1・1トン。横に2枚ずつ並べ、1・2メートルおきにトンネルの天井からぶら下げた長さ5・3メートルの金属製の棒で支えていたという。同社はこの棒が何らかの原因で外れた可能性があるとみて原因を調べている。と、あるが、このニュースを聞いて原発の事故を思い出した。どちらも似ている。原発事故は放射能の処置方法が確定してないままに、原発を動かしてしまった。絶対原発事故は起こらないという神話のもとに運転していた原発。だから、事故が起こってしまってどうしていいか分からず、右往左往した当時の東電の姿が目に浮かぶ。まだ、原発は最終処理ができていない。地球の奥深く埋め、何万年かけて放射能を減らして行くという。そんな未来のことに今の人間が責任を持てるのか。全くお話にならない。<o:p></o:p>
その最中、また、同じような事故である。なんと、目視検査しかやっていなかったらしい。打音検査も取り入れるのが常識なのに、どうしたことなのか。常識的に素人の私が考えたって、あんな細いボルト1本で1t余のコンクリートを支えているなんて考えられない。手抜き工事だと言われてもしょうがない。中国並みの土木工事がまかり通る時代に日本もなってしまったのか。仮に1本が抜けても他のボルトが数本植え込んであれば、崩落することがなかったであろう。ある1本が抜け落ちても他の数本で支える構造になっていれば問題はないはずだ。その1本が何らかの不具合がおきた時センサーが作動して知らせるシステムになっていなかったと言うことだが、素人でもその辺のことには気が付くはずだ。もう、お話にならない。専門家がやったから安心だと言えない時代だ。
二つの事故から言えることはどちらもエリートといえる一般的に頭のいい人達がやったことだろうが、その能力が問題である。ある一部の能力は優れているのかもしれないが、トータルに考えた時におかしくなっているのである。いわゆるバランスが悪い頭のいい人達が増えすぎてしまったようだ。どうも年々全体を鳥瞰することのできる逸材が減ってきている気がする。この辺に問題があるようである。
例えば、ある場面を見て水が南に向かっていると認識した。しかし、狭いその部分だけみれば、南に水は流れているのは事実であるが、もっと遠くから眺めればその大河としてのながれは逆に流れていることだってあり得る。そのある一部だけを見て判断することの危険があるのだ。<o:p></o:p>
どの勉強も突き詰めていけば、最後は哲学的なもっと深い所に到達し、そこから、新しい世界が見えて来るはずなのだが…。
若い頃、岡潔という数学者の話を聞いたことがあった。彼は数学者であったが、その道を究め哲学にも目覚めて行ったという。もともと、たぶん彼の中には生来そういう部分も多々あったのではないだろうか。数学を勉強して哲学に入ったのではなく、哲学的な物の見方をしていて、数学の勉強もしていたと思う。
どうも最近の高偏差値の人達の頭は短絡的になり、深みがなくなってしまった。誰もが大学にいくようになり、学問の価値も下がってしまった。大学も学問と言うより法人化され、どう儲けるかの方に頭が向いてしまったのかもしれない。<o:p></o:p>
さて、企業は営利を目的とすると平気でいう人がいるが、この考え方で洗脳されているとしたら企業の本質を見誤ってしまう。企業とて営利の上に人間の幸せがあるだろう。そのための手段に株式会社的経営があるのだが、その辺の道筋をしっかり押さえておかないとそういう次元の低い会社になってしまう。企業もNPOも手段こそ違うが同じようなものではないだろうか。ベクトルの先に人様の幸せがなかったら存立の意味がない。一時的に企業は利益を上げたからといって、その結果、幸せな人が増えなければ意味がないはずだ。
医療もしかり、やたら長生きの人間をめざしているが、人間には寿命がもともとある。この世の中、人間だけで生きているのではない。植物はじめ沢山の生命体の中に人間も生をもらっている。そのことをわすれると、とんでもないことが起こる。おごるなかれ人間である。最近は浅はかな人間が増えてきている。そんなに急いでどこへいく。ゆっくり自然の恵みをかみしめながら進んでいくのがよかろうと思う。<o:p></o:p>