震災8年5月7日
年齢を重ねていっても、衰えを見せないのが、感情の部分ではないでしょうか。その部分は心と密接に関連がある部分です。肉体ではないので、老化がないのです。肉体は年齢と共に老いてゆきます。
ですので、認知症になり、衰えてゆくのは肉体と関連がある脳細胞の部分です。ですが、不思議なことにいくら記憶が衰えても、処理が遅くなっても、自分への好意や嫌悪はよく分かるといいます。
それは、精神には肉体がありませんので、衰えがないからだと言えます。ですから、認知症患者に接するときには、もう、記憶も曖昧でなんにも分からないからいいやということでなく、その感情に留意する必要があります。そこがキーポイントです。
介護者が発する声は感情そのものです。心を込めやさしくておもてなしをすることです。
昔から心臓に心があると考えていた時がありました。先日も、今まで、脳が各所に指令を出すと聞いていましたが、最新の科学では頭が体に指令するばかりでなく、体から脳へ指令がいくなどというお話も出ていました。先日のNHKでの番組でも放映されていました。腸の状態が脳の情動形成にストレートに影響することが明らかになったということで、内蔵感覚という言葉もありました。
このことは、明らかになったというだけで、事実としては解明以前に太古の昔から、あったわけで、何も新しいことでもありません。ただ、筋道たてて解明されていなかっただけです。
年を取ると、確かに記憶力は衰えて来ます。昨日、やったことを忘れてしまうこともあるでしょう。あれ、玄関の鍵をしめたかなと、確認に戻る記憶は誰にもあると思います。なぜ、そうなるかと考えてみますと、あれは脳からの指令で戸を閉めるのでなく、体が覚えていて、無意識に閉める行為だと思います。ですから、記憶に留めるには、意識して閉めないといけません。長く同じ動作を繰り返ししているとそのような行為が沢山出てきます。それは、脳を通して司令がでるのでなく、体から直接司令がでるのではと、私なりに仮設を立てています。だから、同じ動作は脳の負担もへるのです。脳も鍛えられることもなくなるので、同じ動作の連続は余計に脳トレにならないのです。同じことでも、その都度意識した新しく脳から司令を出すようにすると、忘れることは減ると推測されます。不思議な事です。なんでも頭で考えて行動していたら同じことの連続は大変ですものね。ですので、自然にそうなっているのだと思います。
学習をするということも、最初は脳で覚えるのもいいですが、身に付いてくると身に付いてという言葉通り、からだが自然に反応するように人の体はできているのだと思います。肉体に精神が加わって来ると、人体は益々不思議なもので、答えがないようなものです。それに、霊魂とかが入って来たり第六感などと言う言葉が入ってくれば、理解不可能です。だから、人間は奥の深い霊長類の頂点に立つ動物かもしれません。
私の推測ですが、同じ動作は最初は脳に記憶されるのですが、何回もやっていると、脳が考えなくても、体に染みついていて、体がその条件になると、自然に動いてしまうような事が起きて来ます。私はそれは肉体の細胞が記憶すると考えています。ですから、記憶は脳だけでするのではないと言う事実も近いうちに解明されるのではと想われます。
ですから、習い事は最初は頭で理解したり、考えたりすることはあるのだろうけれども、何回もやっているうちに無意識に体が動きそれを体が覚えているようなことになっていくのではと考えます。いわゆる昔からいう習うより慣れろです。
脳に記憶されたことは忘れるのも早いですが、体にしみこませた記憶はその体の細胞がしっかり記憶しているので、長続きするのではという仮説を持っています。幼少の頃、覚え自転車乗りや水泳は昔とった杵柄づかで、いつまでたっても忘れないのと同じです。何でも日常でも使えるようにスムーズにやるには脳記憶ばかりでなく、体の細胞に染みこませてこそ、生活力に結びついていくのだと思います。
単に記憶するということは、学校で学問として脳にしまっただけで、体の細胞にたたき込む体験があってこそ、現実に役立つ事になるのだと思います。
ですから、自分で苦労して、獲得した体験こそ、現実に役立つ物だと思います。その辺と感情は、密接に関連しているのだと思います。いわゆる知識の感情化です。
単に知識として、気億するのでなく、感情やそのときの状況と共に体に染み込ませたものは終生忘れません。単なる記憶は忘れてもそれに付随していた感情は最後まで残るものです。ですから、学問だけでなく、広く世間にもまれながらのOJT等が実際に役立つ事だろうと思います。
それは、頭だけでなく、体を通して覚えるのです。為すことにより学ぶという経験主義に似ていると思います。今の様に頭だけでなくもっと職能教育が見直されてもいいのではと思います。処理能力は優秀でなくても体験が伴う料理人や宮大工の仕事などは、どんなに頭がよくっても、速くできる物ではありません。心を込めて職人さんが作ってくれているから価値もあるのです。それは時間の流れという英人をへて成り立っています。だから、尊いのです。
また、直感力がいい人がいます。一瞬にして、すべてのことを総合して新しい答えを出してしまいます。ああなってこなってというデジタル思考でなく、時間の超越しての一瞬がすべてなのです。これには、精神が関連しているとしか言いようがありません。本の一瞬なのです。時間があってないような世界です。これが、教祖のひらめきというか信仰の本質を言い当てた根本教義に当たるのかもしれません。こういう思考をする人が世の中にいるのも解明されていないけれども事実だと思います。キリストや釈迦やマホメットなどです。
その世界こそ、永遠に私達が求めている信仰の世界かもしれません。
とにかく、人間の体は分かっているようで複雑怪奇なんだなと思いました。特に心の部分が入って来ますと、霊魂などとも関連があり、複雑怪奇であります。近年、分かって来たことも沢山ありますが、分かったといえ、分かった一部が見つかっただけです。すべてが解明されたわけではありません。
人間は解明したいという意欲はあるのは認めますが、未来永劫心も含んだすべてが解明できると考えるのは人間としてのおごりそのものです。すべてが人の幸せにつながるのが肝要だという考えに立つのなら未知な部分があるからこそ、光る部分もあるのだと思います。すべてが分かってしまったら、人は幸せになるのでしょうか。いや、そうでないと想います。いつの時代でも未知数な領域があるからこそ、人間の尊厳がありますし、それを超えたらもう、神の領域です。
ですから、宗教や信仰があるのです。人を信じるとか安らぎを求めることは、分かるできる事とは次元が違います。同列ではありません。人とは実に不思議であり不思議であるから尊厳される存在でもあります。すべてが白日にさらされたら、もう、個人の尊厳もありません。
ですから、私は自分の寿命は自分が握っているのでなく、神に決めているのだと信じています。私が誕生したのも神様の意思があったからだと思います。そして、この世に誕生し今を生きながらえています。
神様の御心を見つけようとするのが人生であります。神様がその人の肉体としての終焉を決めてくださるのですから、寿命というのです。
一応私のいう神様とは自然の摂理を指します。自然の摂理そのものが神様なのです。森羅万象を司る大きな力といいますか、意思です。私はその意思により使命を持って生きると共に、今、こうして生かされています。ですのでその使命を今生でやり遂げるが私の人生です。
今の医学はそれなりにがんばっていますが、人の幸せという観点と少しずれがあるのでしょう。健康保険のあり方、製薬業界と医者の関係など、その仕組みに問題がないかも、他で考えたいと思います。
医学の進歩はとどまる所を知りませんが、今の高齢化を見てみても、単なる長生きより生き甲斐の医学であって欲しいです。その方面の統計も厚労省にに是非お願いしたいところです。製薬業界との癒着などあってはならないのです。ただ、年々増加している国民医療費ですが、40兆円を超えていることを考えると多すぎだと思います。一人あたりですと、平成27年度統計で33万ほどかかっています。莫大な金額が医療費に使われているのです。生きるとはどういう事なのか、週末医療を考えてしまいます。果たしてこの金額が人の幸せにつながっているだろうかを健康年齢も踏まえて、じっくり考えてみたいと思います。
ですから、私は、病気なども症状を大切にします。その症状がどこから、何の原因で起こっているのかとよく考えます。因があるから症状が出てきているのです。その辺すぐ薬を飲むのんだり通院したりするのでなくなるべく自分なりに生活を反省したり、原因を考えたりするようにしています。今の医学を否定しているわけではないのですが、安易に医者や薬に頼りすぎる現況は心配しています。
学習塾の問題も同じようなものです。勉強ができないと、すぐ何も考えないで塾に行こうとします。しかし、なぜ、学力がつかないのかをその前に十分に考える事が大切です。今の時代、すぐ塾へ行きたがりますが、それがすぐ風邪を引いただけで、毎日の生活習慣を何も反省しないで、通院をしようとする風潮があり、私はこのことを塾通いと共に憂慮してしています。もっと、熟慮する力はどこへ行ってしまったのかと、嘆かわしくなります。まだ、医学が今ほど発達してない昔の人が聞いたらびっくりすると思います。コンビニ感覚で薬や医者を頼りすぎです。医者や薬は最後の砦です。どうしようもなくなり万策尽きたとき感がえるのが私流です。
はやく温まる金属は冷えるのもはやいですが、水はどうでしょう。温まりにくく冷えにくいのです。ですので、そこには人間的な葛藤や時間経過がありません心が入ってこないのです。苦節10年何て言葉も死語となりましたが、まだまだ、どこかには生きています。一朝一夕という言葉もありましたが、今では瞬時瞬改でしょうか。そんな言葉も聞こえてきそうです。スピードがすべての世の中ですから…。
また、心臓を移植された人が移植元の人の夢を見るというお話も聞いた事があります。ということは、その人の肉体には脳とは違う記憶機能があると考えても間違えではないと思います。俗にいう体で覚えるということかもしれません。