暁の超特急という言葉が昔あった。昔の日本のスプリンターである。その名も吉岡隆徳である。以前にもこのブログに暁という言葉を載せた覚えがる。朝6時過ぎ犬の散歩で外へ出たときのこと、まだ、太陽が出る前のときのことである。世が白々あけるこの時のことを言うらしい。最近、この言葉も使わなくなったなとつくずく思う。というのも、自然のサイクルから私たちの生活がどんどん遠ざかっているということである。自然から学ぶことはたくさんある。いにしえのころから、人は自然とともに生活し、時には自然を神とたたえ、自然を大切にしてきた。特に、日本ではそのことが尊ばれてきた歴史があるのだ。
目を言葉に転じても、そのことがよくわかる。昔は自然を対象にしたことわざや言葉がたくさんあったのだ。それが、最近ではあまり言われたり使われることが少なくなり、めったに口にもしなくなった感がする。暁という言葉もしかりである。暁などという言葉であのときの状態を表現する日本人の感性にも感心する。
ここで、昔から言われている言葉や文章で最近使われなくなってきたものをあげてみる。
あけぼの 星がまばたく きらめく 満天の星空 紺碧の空 紫の黒髪(黒い髪を紫という所の感性がすばらしい、醤油のことも「むらさき」という。あの微妙な色の違いがわかる日本人の感性の深さには感服してしまう。今の日本人なら、醤油の色は黒だといってはばからない。微妙に色はちがっているのだ。また、昔から鶯色、萌黄色、小豆色、鼠色、浅葱色などと色を自然界のものに置き換えている。日本人の自然に対する感性のすばらしさを思う。)
春雨だぬれてゆこう(最近はあまりこのような雨が降らないらしい。) なんともいえない細い柔らかな春のような雨である。ぬれると、むしろ心地よいきがする。雨が降れば傘をさすのが常識なのに「ぬれてゆこう」と、言っていることが光っている。今で言えば逆転の発想ということだろうか。なんとなく、そのときの情趣が漂ってくるのだ。いわゆる粋ということかな。 夕立 麦わら帽子 風呂敷 おかげさまで 針のむしろ 辛抱する 石の上にも三年 三日坊主 角隠し リヤカー 一升ます ばちがあたる 閻魔様 壁に耳あり障子に目あり 腹八分目 三日三晩 往還 つるべ もんぺ 割烹着…。
また、時間があればじっくり考えてみたいと思う。