左官屋さん気取りで赤煉瓦を並べてみた。というのも、ペットの犬が、毎日そこを掘ってしまい、困っていた。土であると、また、掘られるので、なんかいい方法を無いかと、考えていたが、そこに赤煉瓦を敷き詰めれば見た目にもいいしということで、早速40個ばかりの煉瓦を並べてみた。ちょっと庭らしくなった。
朝の犬の散歩を終え、ベンチに腰掛けふと空を見上げると、すがすがしい秋の空が白い筋雲と一緒に広がっていた。でも、今はなぜか初夏。
どこまでも続く広大な宇宙、すべての物を浄化し、飲み込んでしまう空、仏教では空とかいて「くう」とういう。空は心が広い、無限に続く宇宙。それに比べて自分(我)の存在のちっぽけなこと、空をみていると、無我の境地になれる。青い空はすべてを包み込む慈悲深さに満ち溢れている。今日も生かされている自分に気づく。永遠の命につながる空。
うちの親父は昔私にこんな事をいった。「幸せってどこにあるか、知ってるか。東にも北にも西にもない。南(皆実)にある。」今は亡き父であるが、時折このことを思い出す。父との思いでも色々ある。生きていれば現在99歳になる。。(1909年 明治42年3月31日生まれ)
光陰矢の如し、月日は流れ、一時として同じ時はない。いわゆる刹那だ。時の集積が時間作り、その流れは永遠に続いていく。私もその流れに乗って、どこにゆくのか、知るは神のみ。
昨日、兄の見舞いを兼ね親戚の者との会食があった。雨の中であったが、車のハンドルをにぎっていると、ラジオから「人は毎朝生まれ変わる。」という、言葉が聞こえてきた。なるほど、と、聞いていた。内村鑑三の「一日一生」という言葉があるが、その言葉より「人は毎朝生まれ変わる。」の方が自分にぴんと来た。毎日毎日生まれ変わり今日を生きる。すばらしい言葉に巡り会え幸せを感じた。
<秋のような初夏の空>それでも地球は青かった!
本当はもっときれいな筋雲がでていたが、カメラを用意している間に、雲の形が少し変わってしまった。そう、一時たりとも同じ状態は無いと言うことですね。この世も常々変化しています。
今、ユキノシタの花が美しい。白く目立たない花であるが、けなげにこの時期になると咲く。ダイモンジソウという花の原種のようである。ダイモンジソウというと、淡いピンクの花であるが、こちらは純白だ。それにしても、どちらも私は好きである。ダイモンジソウの園芸種はどこかに植えてあったが、種が園芸改良種のためか、自然のユキノシタに比べてちょっと弱いようだ。
下の盆栽には柿と一緒に植えてある。いわゆるアンサンブルである。音楽で言えば柿と、ユキノシタの二重奏であるといってもよい。そう考えると実に鑑賞の仕方も楽しくなる。
さて、柿の新緑も又、すばらしい「萌葱色」とでもいうのだろうか。昔は紅葉がいいと想ったが、紅葉の美しさもさることながら、新緑の萌えるような緑に最近は、心を奪われる。紅葉は晩年を意味し、静かなる終焉を想わせるが、新緑はこれからという感を抱かせる。しかも、その緑たるや緑と言ってしまえばそれまでであるが、実に色々な色に富んでいる。色とりどりという言葉はこのためにあるのでは無いかと想うほどである。日本には自然を元に実に色々な色の言い方をしてきている。日本人の感性の源はその辺にあるのかもしれない。
賀茂真淵の歌にこんなのがあった。私が好んで歌う歌である。「うらうらと、のどけき春の野山から匂い出でてたる山桜花、山桜花ばな」実に春の山の風景をうまく表現していると想う。しかも、情趣まで感じ取っているところに彼の感性を感じる。いや昔の日本人ならそういうものが、生まれながらにして身についていたのだと想う。そのことを想うとますます自然を大切にしなければと想う。私たちは一個人であると共に自然界の一員であるともいえる。
「幼子を胸に抱きて若菜摘む」菜の花の成長に例えれば、菜の花のつぼみ(若菜)はまさに新緑そのものである。生命そのものであるといってもいい。これからの人生を感じさせる。その先には成長点があるという。植物のその先にはウイルをも寄せ付けない生命力溢れたスポットがあるという、それが成長点だ。
家で草取りをしていると、突然ばさっと言う音と共にスズメのひなが落ちてきた。最初は少し逃げたが、捕まえてから、おとなしくなったのか、私が近くに行ってもにげないようになった。そこで、写真が大きく取れた。