コロナ4年2月19日(ウクライナ、ロシア戦争2年)
今の時代はスマホがないと暮らせない時代になっています。ちょっとあいている時間があると、誰もがスマホをポチポチやっている姿をよく見かけます。一種の社会現象です。
昔の人間から見ると不思議な感じもしないわけではありません。現在はいつの間にか、そんな時代になったのです。
それと共に、お陰様、気づかう、思いやる、お天道様、ばちが当たる、察し合う、耐え忍ぶ、我慢する、以心伝心、石の上にも3年、自ずと、仕える、立ち居振る舞い、譲り合い、武士は食わねど高楊枝、清貧、けがれ、気位、瘦せ我慢等の言葉が聞かれなくなったと想いませんか。
代わりに出て来た言葉が、自主性、表現、個性、自立、権利、判断力、合理性、コスパ、タイパ、効率、効果、利害、利他、頭に来た、きもい、ださい、まじむかつく(MM)バズるなどの言葉です。
経済やインターネットがらみの言葉がずらっと並んでいます。そうです。社会の変化がもろに言葉に現れて来ているのです。これで、言葉は社会と密接に繋がりがあることが分かります。
ですから、若い人はお陰様とかお天道さま、ばちが当たるなどの言葉は多分聞いたり使ったりもせずに今を生きているのだろうと推測してます。
そんな中で私が気にしているのは、昔に比べると自己中が増えたということです。日本では昔は思いやりとか気づかいとか譲り合いという言葉が美徳になっていましたが、いつの間にか時代の流れが自主性や主体性に変わって来ているなと感じます。
その流れは私はある時、PCの進歩と大いに関連があるなと直観した時のことを想い出しています。私は社会学が好きですので、PCの発達と社会がどう関連しているかと時々考えることがあるのです。
それは、過去にはPCはアプリ(師匠)がデータ(弟子)を呼んで来ていたのですが、流れはいつの間にか、データからアプリを呼ぶ形に変わって来たこと事と大きな関連があるのだと気づいたのです。
電子機器の発達がいつの間にか、人を自己中にして来ているような気がしてなりません。
まあ、戦後の教育も社会も基本的人権が中心の憲法や権利意識を主体とした労働運動にもよるでしょうが、このデータがアプリを呼ぶという新しい電子機器の変化が大きいのではないかと思っています。
このようなことから、社会構造の変化は言葉や人の性格に大きく影響しているなと思わずにいられませんでした。そうです。私たちの生活は取り巻く状況に適応しているという事です。