震災6年6月12日
巷では恋と愛の言葉が氾濫してしています。安易に誰もがどこでも使っています。情報や物は大量で出回ると価値が下がります。これは経済学でいう限界効用逓減の法則でも明らかです。すべてがパッションで語られがちな今日、ちょっと、この恋と愛の違いについて私なりに考えてみました。
現在は情報が溢れている時代ですから、人の言葉を借りるのは簡単です。しかし、ここで、大切なことは、自分の言葉で考えることです。人は考える葦といったのはパスカルです。そうです。考える葦になって自分の力で考えてみます。今までの価値観、経験値から考えてみたいと思います。
恋とは一時的なものであり、熱病のようなものです。恋はとかく一方的なものであり、盲目にもなります。恋には倫理的な方向感がありません。線香花火のように四方八方飛び散るようなものです。相手のことより、自分の気持ちの高ぶりが優先します。ややもすると利己的です。恋は燃えやすく消えやすいものです。恋には嫉妬、我欲など、仏教でいう煩悩がついうて回ります。恋では好きになった方が負けです。余裕がなくなるからです。
きっかけは恋であってもそれが長く持続して行くうちに、やがて、それは深い愛につながっていく場合があります。それが究極的には永遠の愛につながっていけば最高です。例えば、クリスチャンになるということはキリスト教徒にとっては最高の愛なのかも知れません。愛には思いやりがあります。愛には上下も偏見も利害もありません。それを、超えているのです。愛は深く静かで深遠です。愛は奪ったり奪われたりするものではありません。愛は究極的には真理そのものかもしれません。
愛は遠くを見つめます。愛は永遠を求めます。仏教で言えば仏様に帰依するようなものです。愛は人ばかりでなくすべてあまねく自分以外のものへいきます。生きとし生けるものへの愛です
植物の好きな人はそれに愛を注ぎます。音楽の好きな人はクラシックの名曲を聴いて涙することもあるでしょう。愛は、高まると利己を離れ利他に向かうようになります。
愛は惜しみなく、与えても与えても減ることはありません。愛には質量がありません。愛は無限なのです。愛は静かに進行していきます。愛は相手に負担をかけません。巷に漂っている感じです。愛ある生活とはとは平熱の感じです。
恋が燃え上がり、表面的なものに対して、愛は思慮深く思いやりや慈愛に満ちちています。ですので、恋が愛に向かうベクトル線上にあれば、それは最高な恋です。そうなれば恋も本物です。
愛はパッションから恋に始まり愛に至るもあり、愛は愛に始まり愛に至るもあります。愛に満ちた地上こそ我々が究極もとめるものでしょう。そこにベクトルの流れを作りましょう。
そういえば、こんな時もあったな、こんな曲も愛といえるのかな、シューベルトのセレナーデ、シューベルトのアベマリア、グノーのアベマリア……。
クラシックは奥が深い、まるで天の声を聞いているようだ。心までもが浄化してゆく。