想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

頭のいい人は増えたが賢い人が減った

2016年05月18日 | エッセイ

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震災6年5月18日

 最近、ノウハウやプレゼンの技術が上がり、いわゆる表面的に頭のいい人が増えたが、人の心に無知な人も比例して増えているように思います。心が深い人、思いやりのある人、思慮深い人…先人が持っていた賢さや知恵がなくなったのではないかと思います。

 確かに自分を発信する技術は、すごく上がってきていると思いますが、受信する能力や察する力がその分減ってきています。

 問い合わせをしているときなども、どちらが、質問者か分からなくなるような回答者がまま見られます。回答者が主体になってそのペースで物事が進んでしまい、回答者が満足する答えで、納得されてしまい、その件は終了なんておかしなこともよく起こっています。それなども、どちらが質問者か、という、本質が見えなくなっているいい例です。

 情操値が高く、倫理的にも優れている中に、その手段として頭の良さがあるならいいのですが、それが逆になり、頭の良さばかりが目立ち、情操面や倫理観に欠ける人が増えてきたのには困ります。

 今、話題になっている桝添問題も現行では、法的には問題がないらしいですが、倫理的、道義的に考えたらどうかなということです。それで、マスコミで叩かれているのです。法規制がなければ、合法だからいいという理屈はないのです。
  
 これは、将来の日本を考えたとき、大きな損失だと思います。何が人生で一番大切なものか、それは、頭の良さでなく相手の気持ちが分かり、理解できるかだと思います。

 それが、できれば、単なる成績は後に付いてくるものではないでしょうか。最近の風潮は勉強さえできれば、後のことはどうでもいいようになっていると危惧してます。

 スポーツでも同じことでしょう。勝たなければ、意味がないではないでしょう。スポーツを通して人を磨き、健康を維持し、生活に潤いを与えるのが目的です。その方向が大切でしょう。

 経済でも金儲けが目的ではないはずです。社会に有為な物を生産し人様の生き方や幸せを満たす手だてとなるのです。

 消費が美徳などはもっての他です。そこに、無駄があってはなりません。幸せを得るためにある物を消費するのです。消費は目的でなく手段です。無駄な消費が美徳であるはずがありません。GDPが増えるのが最終目的ではありません。誰にも幸せ感が増えるのが目的です。

 サッカーは、昔、貧者のスポーツだと言われていました。そうです。ボールさえあればできたのです。それが、今はどうでしょう。靴から、ユニホームまでそろえないと、できないようになってしまいました。お金がかかるスポーツとなってしまい残念です。

 ウォーキングはどうでしょう。服装も靴もきにしないと歩けなくなり、最近ではポールウォーキング等といってスキーのポールまで使うことが奨励されています。これも、単なるスキー販売グッツ屋だけが儲ける為に考え出したのかなと勘ぐってしまいます。

 歩くことは人の健康の根源的な問題なのです。親からもらった素晴らしい体があれば、後はそれを続ける意志力の方が歩く道具よりどれだけ大切なことかは誰もわかるでしょう。

 これでは、未来の日本は危ないと思います。金はないよりはあった方がいいのでしょうが、金はあくまで幸せを得るための手段です。それを間違えると大変なことになってしまいます。

 

 古来日本には程差加減とかいって、加減といういい言葉がありました。それには、バランスというものがあったのでしょう。そのバランスが崩れると、今回の桝添騒動のような大きな金権問題になるのです。

 湯加減、いい加減、何でも程々が大切です。それが、どこかで、たががとれて暴走し始めたのです。ファーストクラスでなく、ビジネスクラスにとめておけばよかったのに、欲が出て、その上まで言ってしまったことに端を発して、ないこと、あることがマスコミにリークされてしまったのです。

 本当に知恵のある人は、見せようとしません。それは、自然とにじみ出てくるものなのです。それが、本物です。富士山のわき水も長い年月を経て、わき上がっているから価値があるのです。工場で化学の数式で大量生産されても、価値は半減です。人間的にみれば、歳月が非常に重要なのです。

 難しい計算は一瞬でコンピュータがはじき出しくれますが、心はエイジングという時を経なければ育ちません。ですので、そのときは誰も平等です。道徳性や、人生の価値観を身につけるには誰も、その時という洗礼を受けなければ育まれてこないのです。時という永遠に平等に与えられているものをどう、味方につけるかに人生はかかっているのです。

 最近ムヒカさんのいう質素という言葉が妙に新鮮に響き心を離れなせん。貧しいとは無限に物をほしがることだという言葉を今一度かみしめてみたいと思います。必要最低限なもので生活する「質素を楽しむ社会」に世界も変わっていって欲しいです。必要以上なものはもういらないと思います。そろそろ、国民もそのことに気が付き始めているのではないでしょうか、だから、いくら消費を煽っても物価指数も上がっていかないのも分かるきもします。

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1 コメント

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Unknown (60yearstarts)
2024-02-23 11:00:42
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人間が人間じゃない状態です
僕は嘆かわしいです!

情けないです!
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