ステンレスやプラスチックを発明するより、よっぽどましだろう。物質は時間と共に変化し腐る物である。この原則から離れた物を作ろうと考えない方がいい。ましてやクローンとか遺伝子操作なんてとんでもない話だと思う。
福島原発の後遺症が色々新聞を賑わしている昨今、言った言わないの議論がなされている人間界である。しかし、自然は全てを見ているのだ。「巧言令色鮮(すくな)し仁」、結局は必ず真実は暴かれるのだ。
人間のおごりは自然界の中ではとてつもなくちっぽけな存在なのだ。人間も自然の一員であるという観点に立つことが出来るはずなのに立てないでもがいている人間、はるか、彼方1万光年から眺めればおかしな話だと思う。しかし、これが人間だ。業を背負っている人間だ。「後悔先に立たず」これもまた昔から言われていることだが、業深き人間の性であり、現実さけることはできない。
今回、呪縛という言葉を使ったが、古きて新しき言葉だと思っている。この言葉は最近滅多に使われることがなくなった。古き言葉の中に人間の本質を含んだ含蓄のある言葉が沢山眠っている。最近の人は使わなくなっただけなのだ。それだけ、人間が軽くなったということかも知れない。歌謡曲にも昔ほど植物の名前があまり歌詞として出てこなくなった。益々人間は自然からこれでは離れていってしまっている。小学校の生活科も雨の日に外で授業をやってこそ本物だ。自然に近づく教育でありたい。
私は自然栽培で色々な野菜を育てているが、つくずく、考えることがある。自然にできたものは、形や芽が出る時期、成長する時期がみんな違っている。画一化されていないのだ。そして、成長も遅い。市販されている野菜よりも一月くらい成長が遅れるのではないかと思う。最初は、ひょろひょろしていて、これで、満足に育つだろうかと気をもんでいると、ある時期からぐんぐん成長していく。それが、自然だ。ナチュラルな生き方だ。最近の世の中はそれを捨てて、促成栽培のような世の中になってしまった。自分の畑の作物を見ていてつくずく思う。急いではいけない。その時期が来るまでじっと待つことの大切さを感じている。温かくなれば、雪はとけ小川には水が流れ、風が強く吹けば植物は背丈を短くして倒壊を防ぎ、水がなければ、シャボテンのように葉っぱに水をためる。雪が溶ければなんになる?と、いう問答がある。雪が溶ければ水になる。いえ、雪が溶ければ春になる。そんな感性が大切だ。植物はそうして、自然と共存している。