震災8年3月21日
昭和41年3月高校を卒業して地元の河合楽器に採用が決まりました。そして、面接があり、最初は、プログラマーとして切磋琢磨する計算センターはどうかと、勧められました。
そこにはIBMの電子計算機がたくさんあって、キーパンチャーの女性もたくさん働いていました。当時の計算機は穴のあいた紙が回っていたように思います。計算機も大人の背丈より大きな機械でした。
今のノートパソコンも、もとは、あれだけ大きなマシンだったのですから驚きです。紙を巻いた輪が少しずつ動いて計算をしているようでした。それが、当時のコンピュータです。その穴を打つのがキーパンチャーです。
最初、その部署の仕事はどうかと、お話がありましたが、内容を聞くと、当時、プログラマーになるには10年かかるといわれていました。家に帰り色々考えてみましたが、毎日、毎日プログラムという記号だけを眺めている自分を想像するだけで、嫌気がして、その仕事は向いていないとお断りしました。
結局は、電子楽器事業部に配属されました。当時は父も同じ会社に勤めていました。父はもともとは家具職人でした。生産ラインにのる前の試作品としてのピアノを作る仕事をしていました。試作ですので、そこでOKが出れば生産ラインにのるわけです。
父は明治42年生まれで、80歳で他界してもういませんが、彼との思い出は尽きません。根っからの木工職人で個人で家具職人をしていた時期もありました。自宅で家具を作ったり、ヤマハピアノやディアパソンピアノを作っていた時期もあったようです。
私が幼少の頃は座卓や花台等を作り、ニスで塗ったり膠を使ったり、いろいろなかんなで削ったり、白いご飯を練って接着材ににしていたこともありました。
電子楽器事業部では大卒と高卒が混じって1年間の実習をやりました。電子オルガンを組み立てたり、その仕組みを覚えたり、電子楽器の製造から、技術に関することを沢山学びました。
この会社に定年までいても、高卒の私たちはせいぜい課長どまりだろうということも考えました。自然律と平均率などの理論は先輩が音楽理論の本を貸してくれて、概略覚えました。
平均律だと、どの調にも移調できることも分かりました。電子オルガンのオクターブの関連が発信周波数の分割でできていることも分かりました。その後の教師になってからも、そこでのことは大いに役立ちました。
また、半音が100セントと称することも知りました。職場の電子オルガンを気持ちよく弾いている先輩も見ました。私もあんなに上手に弾けたらいいなと思った時期もありました。
その後、音楽教室に行き電子オルガンを少し学び、初めて弾けた曲が月の砂漠です。そこでは、ビギンのリズムでブンガワンソロを弾いたのも思い浮かんできます。右手と左手を別々に弾き足でベースを刻むことが初めてできた時のことも今思うと、昨日のような気がします。
今、為すことにより学ぶという言葉が浮かんで参りますが、まさに、当時は体を通して色々学んだなと懐かしく思います。
アフター5で学ぶこともたくさんありました。ダンスの同好会が社内であり、社交ダンスも学びました。近くに河合楽器音楽教室の講師養成所もあり、そこには音楽教室の講師になる方がたくさん学んでいました。彼女らともお話をする機会があったことも懐かしい思い出です。
さて、やがて、本社での仕事も1年が過ぎてゆきました。そこで、大きな事件が起こりました。それは、関連会社を買収した影響で、同期の技術系社員は必要がなくなり、全員営業へ異動するというお話です。二年目は営業所へ転勤となりました。
私は当時北海道か、京都なら行ってもいいと漠然と考えていました。旅行でもする気だったろうと思います。営業が自分に合うかどうかも分からないのですが、なんでも経験し見てやろうということでしょうか、興味津々の境地ではありました。
その後はどうしようかと思案していましたが、結局、特販事業部京都営業支所に転勤になりました。そして、初めて、親元を離れ、寮生活が始まりました。宿舎は西京極にありました。そこにも、先輩たちもたくさんいました。大卒のお兄さんもたくさんいて、将来のことについて私なりに色々考えさせられました。京都の町も魅力的で色々な体験もしました。
やめる時、先輩からも色々アドバイスがありました。"今迄に何人の人と会って来たの?この縁を大切にしたらどうかな…"結局、営業は幸せに繋がらないと結論付けて、わずか三か月で退職を決意しました。と、同時に、社会福祉関連に進み人様の為に働いてみたいと強く思うようになりました。そのためには、大学の資格が必要だということもよくわかりました。今となっては、自分の思う道を進んで来て、悔いはありません。
また、同じ寮の大学生のお話を聞いているうちに心理学や論理学も学んでみたいという強い気持ちも高まってきました。今までは、勉強は苦学だと教え込まれて来た感がありましたが、自分で学びたいことが沢山あるということが、分かりました。そうだ、大学に行ってもう一度しっかり勉強したいという気持ちはどんどん強くなっていきました。
ついに、辞表を提出することを決めました。わずか、3か月という短い期間でしたが、二十歳の私にとって大きな転機になりました。その3か月は心理的にはとても長く大きなインパクトのあるものでした。そして、退職し実家へ帰りました。帰るところがあったことは不幸中の幸いでした。そこから、新しい自分の未来が見えてきました。それ以来、想いを持つことの大切さを実感して来た気がいたします。
また、じっくり自分史の中でいつか述べてゆきたいと思います。