コロナ3年3月21日(ウクライナ元年)
朝、起きると、毎日簡単な柔軟体操をし、体をまずほぐします。その後、パンツ一丁になって裸の身体をタオルで乾布摩擦します。その後、2500歩位ををウォーキングするのが私の長年のルーティーンになっています。歩くときはできるだけ歩幅を広げて早歩きするように心がげています。
そして、また、歩いていると色々な想いが湧き上がってくるのです。不思議といえば不思議ですが、歩くという事はイメージづくりに非常に有効な気がします。これは、自分の気を上げるのに役立ちます。
ルソーは自分探しとしての歩き、カントは思考の訓練としての歩き、ハイデッガーは本 来ゆっくり考え、インスピレーションの源を生むためのものとしての歩き、ガンジーは神秘と しての歩き、などを挙げて,その重要性を示唆しています。また、日本では弘法大師が日本中を行脚し、仏法を説き、松尾芭蕉は紀行文『奥の細道』を通して「不易流行」を説き、永遠に変わらないものと、変化するものがあることを普遍の理念としました。
さて、今の知育偏重な教育に一番不足しているのが、その「気」の教育なのです。戦後、日本人はその崇高なる「気」というものを失っているのです。臍下丹田という言葉もあります。ITやデジタルばかりがクローズアップされている今日ですが、目に見えない精神や波動の世界を考え直してみましょう。一見万能であるかのようなAIの世界も何となく小さくみえます。
さて、歩くという事は実に私に色々な想いを想起させ気づかせてくれます。歩けば気流の流れや温度を肌で感じます。次々とイメージが沸き、生きる力がアップしてくるのです。このことは理屈を超えているなと感じます。
まさに、すべての事の情熱はこの気が支配しているといってもいいなと確信していきます。気力も充実し、泉のごとく沸いてくるのです。
だから、生きることはその気をいかに高めるかであり、気の充実を図ることだと分かります。気は知性や理屈を超え人間を情念の世界へと高めてくれます。
多分、古今東西何かをなしえた人は必ずこの気が高かっただろうという事は体験してみて容易に想像ができます。この気を高めることは知情意をそのものをも包み込み、大きくコントロールしているものだと想います。
私は時々詩を書いてもみるのですが、それには気が高まってこないとなかなか書けないのです。言葉と意識が一緒に成らないといい詩にはならないのです。まさに言葉は言霊なのです。使う一つ一つの言葉にもまごころが必要なのです。今のダークパターンのマーケティングには反対です。
知育徳育体育という言葉がありますが、それも、結局はそれを成就させるためには、その上に気の充実がなければできないことです。
昔から日本ではその気という事が色々な場面で語られていました。今、日本人に一番欠けていることはその気だと思います。
戦後の教育は基本的人権思想が根底にあり過ぎて、包み込んだり、流れたり、シームレスに繋がったりするゆとりがないように想います。
「気」はその言葉からも、古くから日本に根差していたと気が付きます。
今、気が付くだけでも、こんなにも沢山の「気」のつく言葉があるのです。
本気、やる気、気骨、気合い、気位、気色、気休め、病気、気概、気功、気候、雰囲気、気力、根気、大気、気象、気性、気持ち、気まずい、臭気、その気、気違い、気づき、気分、大気、呼気、換気、勇気、短気、気分、気丈、気色、寒気、など、自分で想いついただけでもこんなにたくさんの言葉があったかとびっくりします。まだまだ、調べれば気が付かない言葉があるのでしょう。
昔の日本人にはITは未知のものです。しかし、この「気」に満ち溢れていた人が沢山いたことでしょう。先人の書物や映像は残りますが、この「気」だけは不思議なことにその人が死んでしまえば消えてしまいます。不思議といえば不思議なことです。だから、その人の事を本当に学びたければその人について、その「気」を感じなければなりません。
「気」は目に見えない精神的な波動ですので、生きているその人のそばでないと分からないのです。だから、本で学んでいたのでは、理解はできたとしても、その人の身にはならないのです。
今の人は何でもでき、何でも分かっているつもりでいるでしょうが、真の理解とは人である限り、生のその人に接し波動や「気」を通して自分の身体で感じない限り真の理解にはならないでしょう。
今の日本に不足しているのはその「気」であります。気や波動そのものには寿命はありませんので、永遠に続いて行きます。人間の肉体は物ですので、やがて変化し、消滅して死を迎えます。
「気」精神の問題であり、物ではないので、形も容積も場所もとりません。なくなりもしません。
人間の生命と言うものは突き詰めて行くと実に不思議であります。肉体と精神が混在してできているといえます。そこには気が関連してきてます。だから、病気は病が半分、気が半分なのです。
今のウクライナの方々の事に及んでは命を賭し戦う祖国愛もそんなことから起こっているのかなとも想えます。そこには命を超える崇高なものが人間には宿っているのでしょう。