想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

我が家の朝食

2019年05月29日 | 我が家の庭
震災9529
 
我が家の朝食です。この中で、ブロッコリー、レッドオニオン、ミツバ、イチゴは自家製です。
最近は、葉物類が沢山できますので、やや食傷気味になっております。筋力アップの為にタンパク質をもっととりたいと思うようになっています。
イチゴも毎日の様にとれます。イチゴ牛乳にしてよく飲んでいます。毎日の健康は食と運動だと思います。
今日は午前中は2時間の趣味の卓球をやって来ました。その後、初めてちょっとバトミントンもやってみました。案外やれるもんですね。
午後は放課後子ども教室で卓球指導のボランティアです。今年の子ども達は、よくやってくれますのでやりがいがあります。よく、私のお話に耳を傾けてくれます。助かります。
その後、野山を散策し、気になっていた笹百合を見に行って来ました。咲き始めていました。楚々と咲くピンクの花が周りの笹とマッチして、それはそれはきれいな花園という感じでした。
ときおり、吹いてくる風にかすかに揺れる笹百合に初夏の香りが漂っていました。後、数日で、もっと沢山の笹百合が咲き出す事でしょう。あの官能的な笹百合の香りがあたり一面に広がります。
 
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縁は異なもの

2019年05月26日 | エッセイ
震災9年5月21日
 
 縁は異なものといいますが、待っていても縁は来ますが、自分から縁を作り出していくことも大切なことです。私は縁にはこの両面があると考えています。
 
 縁と言う言葉が少し気になりましたので、今、思いつくままに書き出して見ました。縁日、縁台、合縁奇縁、縁側、因縁果、遠縁、縁談、縁起、縁は異なもの…が浮かんで参りました。

 調べてみますと、他にも気がつかないものが沢山ありました。熟語では、縁石、縁者、小縁、血縁、縁の下、縁結び、腐れ縁、絶縁、縁切り、無縁仏、縁遠い、縁絵巻、縁起直し、縁切り寺、縁台将棋、離縁、地縁、三世の縁、無縁仏、無縁社会、養子縁組、因縁をつける、信貴山縁起絵巻、縁もゆかりもない、縁遠い、縁は異なもの味なもの、袖触れ合うも多少の縁、釣り合わぬは不縁の基、縁と浮き世は末を待て…。

 このことからしても、世の中は見えない縁で結ばれていると言うことが、分かります。それが自分で分かるものと、分からないものがどうもあるようです。それには心眼を磨くしかありません。俗にいう精神修養です。
 
 手段としては色々あるでしょうが、仏門に入るのも一方法でしょう。ヨガや太極拳、東洋医学の勉強いいのではと想います。物事を俯瞰する思考法もいいでしょう。
 
 私たちは何ら意識してませんが、巷は縁で溢れています。その中で、意識してもしなくても生活しているわけです。周りは縁だらけの状態です。書いていて、ふと、学生の頃の教授のいった「社会科学は組み合わせの学問である。」といったことを想いだしています。それも見方を変えればありとあらゆる縁が組み合わさっている状態のことだと想います。

 さて、世の中を眺めて見ますと、人生とは成ろうとして成れるわけでもなく、成ろうとしなくてもどこかで大きな力が働いて成っている場合もあることがわかります。人生なるように成り、なるようにしかならないと言うことになります。ケセラセラなる言葉も生まれて来ます。
 
 結局、毎日の縁を大切にするということが、いかに重要だということでしょうか。自分で気がつかない縁に対しては、無知ですが、全てのことは因縁果により出来ているのでしょう。
 
 例えば、神についても神はあると言う人とないと言う人がいますが、これも神という存在に気づくかどうかという問題になります。目に見えない存在ですから、信仰と同じです。ある人にはその存在が見えますが、ない人にはその存在は無意味なのです。心の問題ですので、それを信ずるかどうかの問題になり、最後は信仰に行き着きます。
 
 さて、私はどうかというと、自然の摂理そのものが神と考えています。これはもう、20歳の頃からの信念なんです。その考えで今まで生きてきました。自分の好きなことをやっているようでも、自然の摂理の前では逃れることのできないちっぽけな存在なのです。しかし、価値があるから私も存在しているのです。その私の良さをこれからも追い求めていくことでしょう。それが、私にとって生きると言うことです。

 他の人もたぶんそうなってこの世に誕生しているはずです。その意味を考えながらやってきたのが私の人生のような気がします。自我を持ち、自由にやってきたようで、実は仏様の掌の中で動き回っていたのです。そうです。孫悟空が私たち人間の存在なのです。

 これからも、自我を持ちつつ自我を超えて自我を見つめる目を高めるしかありません。今後もこういう視点で進んでいければ幸いだと想っています。
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AI時代を考える

2019年05月15日 | エッセイ

震災9年5月15日

 最近はITの時代だと思っていましたら、ITどころか、AIの時代のようです。AIはある面、凄い才能を発揮します。しかし、感情面というか心はありません。やはり、生物としての細胞を持ってない単なる機械なのです。どんなに処理が速くできても、そこに人の温かみとか、心が入っていなかったら、こんなにも寂しくも侘しいことはないのです。頭はいいが、何かが足りないと感じるでしょう。それが、機械と人間の大きな違いです。

 ですから、AIの最も苦手とするところは信仰心や感情がないということです。ここがこれからの時代を考えるときのキーワードです。効率と便利さを追求するあまり、この辺の人間性が欠けた人間が多数出てくる危険性があります。ゲーム依存症も同じような類でしょう。気をつけなければいけません。


 子守をゲームに任せている家庭があるように聞いていますが、後で、大変なことになります。親と一緒に遊んでいるならまだいいでしょうが、相手は感情が分からない物です。それでは、人を人として思わなくなる危険があるのではと、危惧します。しかし、そんなことをしていたら食べていけないという母子家庭も増えているのが気にかかります。

 これは、政治の問題として国も大いに考えなくてはいけません。今の政治はどうしても最大多数であるシニアの動向を考えてしまいがちですが、これからの日本を考えると、もっと、若い世代の政治を真剣に考えてもらわないと困ります。若者の政治離れもそうです。また、貧富の格差が広まっているのも問題です。富が偏り過ぎているのを是正してゆく法制度を考えなくてはいけません。政治の力も大きいですね。

 やはり、人はどんなに世の中が便利になっても人と人の間で育ってゆくものです。時間という時を人のぬくもりの中で育てていかないと人間性は育たないのではと思います。

 今の時代、便利な機械が次々と出てきます。大切なことはそれを使うのは人間なのです。そこにまごころや温かみを加えてその良さを最大限発揮して使えばいいのです。そして、それを人様の幸せに向かわせる、そこが大切です。そういう意識を持ってAI時代を生きていってほしいです。私たち団塊の世代は次世代に繋げていくわけですが、この点が気がかりです。

 ですから、これからはそれをどう使っていくのかというソフトの面に関心が向かっていくものと思われます。企業でいえばその優秀な機械をどう使ってどう人類の為に役立たせるかが大切なのです。それが、人間の役目になるのです。今後、益々そのような便利な機械が出てきます。そうすればするほど、人間とは何か、人間の尊厳とはが問われていくのではないかと思われます。否、そうして行かなくては大変なことになるのです。

 便利な世の中と人間の幸せとは根本的に違うということに気が付かなくてはなりません。機械でキャベツは速くきざめても、そこに人のにおいは感じません。費用対効果を期待するだけです。経済的側面からはいいのでしょうが、お料理は単に食べるのでなく、味わうのです。そこに作ってくれる人の温かみを感じながら頂くことに無常の幸せをかみしめているのです。ですから、どんなにAIが進んでも、そういうところに価値を見出している人はいるのです。だから、人の作る料理人は永遠になくならないのです。

   五感と人の温かみを感じながら食事はいただくものです。単に栄養価のみでもありません。そこに人間らしさがあるのです。どんなに、便利になっても、人間性溢れた社会にしてゆきたいものです。

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俯瞰して考えることの大切さ ある歯医者さんから医療を考える

2019年05月09日 | エッセイ
震災9年5月9日

 昨年来、かかっていた歯医者さんをやめました。それは、あまりにも、その方の治療が歯医者さんサイドからのものだったからです。歯医者さんの考える治療にその歯がじゃまになっていたのです。その先にある患者さんの歯であるという思いが、その医者にはまったく無かったようです。奥歯が邪魔になり、その前の歯の治療が進まないということでした。だから、短絡的に用もないと思われる親知らずを抜いてしまう論理は飛躍がありすぎです。いい歯ならできるだけ残しておいて欲しいのが患者さんの思いです。抜いてしまえば簡単かもしれませんが、抜いたらおしまいです。せっかく生えた歯です。できるだけ治療をして、最後の最後まで私としては残しておきたかったのです。その気持ちが無かったようで残念でした。

 私もその歯を抜かないで治療するように強く進言すればよかったのですが、歯医者さんの思いが抜く方向に強かったので言い出せませんでした。抜いてしまえば簡単です。ここでは奥歯の抜歯は口腔外科を紹介しているので、そこで、抜いて欲しいということでした。彼が言うにはほっておいても、いずれ、虫歯になってしまうから今抜いてしまう方がいいでしょうというお話でしたが、私は疑問に思い、今まで、半世紀も虫歯になってない歯が残り10年で虫歯になるのでしょうかと質問をしましたが、残しておいてもしょうがないし、いずれだめになるという一点張りのお話でした。もうこれではしょうがないなという思いで会計に行きました。レシートを見ると、点数があり、他院への紹介料でもお金がかかることを知りました。結局400円を支払いました。2割負担ですから、実質2000円も紹介料が掛かっていたのです。治療もせず、紹介するだけで2000円は高すぎるなと思いました。これが、日本の医療制度なのです。他の医院に紹介するだけで、点数がつき、お金が請求される仕組みになっていたのです。これでは、健康保険の財源が足らないはずです。患者はたまりません。結局、親知らずは抜かない決断をし、その歯医者さんとはおさらばをしました。それで、今では抜かないでよかったと安堵しています。やはり、抜歯は最後の最後の手段だと心得ている歯医者さんこそ、名医だなと思っています。抜いてしまえば終わりです。
 
 私も長い間教師として、人と関わる仕事をやっていましたので、先生と患者さんの子持ちもよく分かります。いつも私としては児童の方を向いて仕事をしていたつもりでした。自分の気持ちもあるが、子どもさんに寄り添いながら、ある方向へ導くのが私の仕事だと心得て長い間勤めて来ました。それが、その歯医者は患者さんの立場よりも自分の利益を優先しているように思えました。結局、私はその歯医者をやめ、他の歯医者を選ぶことにしました。その歯医者さんを見ていて、一体、医の倫理はどこにいったのでしょう。算術の論理にすり替わっているように感じました。また、そのことから、保険制度があることで、必要以上に医療費が無駄になっているように感じました。皆さんから集めた大切なお金です。無駄遣いのないように使ってもらいたいものです。

 また、先日、十数年ぶりに喉風邪を患い、ある医者にかかりました。かかる以上お医者さんを信頼したいのですが、熱もないのに、熱さましの薬が出ました。そこには副作用の説明も載っていました。ですので、熱が無いことを薬剤師に説明して、その薬はやめにしてもらいました。他にも数種類の薬が入っていました。結局、1週間薬を飲みましたが、一向に快方に向かいませんでした。結局、自然に治ってしまったようです。

 久しぶりにお医者さんにかかってびっくりしたことに、最近はやたらと多くの薬が出ているのです。昔は薬の量もそんな多くなかったと記憶しています。大半は待っていれば自然に治るものを、すぐ、医者に掛かり過ぎに感じます。その関連で患者さんも多いせいもあるでしょうが、診察時間は短く、質問する時間もあまり取れず、薬だけはたくさん出ました。医薬分業となり久しい訳ですが、その結果、薬の量が昔より遙かに多くなり、薬漬けになっている医療はいったいどうなっているんだろうと考えてしまいます。製薬会社の政治的な力も陰で働いているなと勘ぐってしまいます。

 持論ですが、薬は多く飲み過ぎると、何が原因で病気になったのかが分かりにくくなるようです。薬の結果、直ったのか、ほっておいても自然治癒力で直ったのかの見定めができなくなるのです。はてまた、薬の種類が多いとその薬がどう関連しあっているのかもわかりにくくなります。ですので、私は基本的にはちょっとの事では、あまり病院には行かないように心がけています。薬を飲めば飲むほど、本来人間が持っている自然治癒力が分からなくなってしまうからです。親からもらった大事な体が薬漬けになってしまっては申し訳がないのです。しかも、その薬を飲んでも効果がない場合が多々あります。効く薬か、効かない薬かを試されているのはごめんです。その結果、やたらと、薬の種類も多くなるようです。医療の無駄もここまでくると困ったものです。知識のない患者さんがいいかもです。その薬が効かなければ、次はこの薬をやってみましょう。などと、およそ、診療でなく、薬の人体実験をやらされている感じです。薬でなおすなら、医者はいりません。薬剤師だけでいいことになってしまいます。今のやり方ですと、もっと、薬剤師にも権限を与えて、薬だけの病院もあってもいいなと感じてしまいます。そうすれば、お医者さんの多忙化の改善にもなるでしょう。医療の規制緩和が必要です。

 また、病気も益々複雑化し、得体の知れない病気も増えて来ています。医学の進歩も追いついていかないようです。患者さんは生まれた時から、自分と共に成長して来ていますので、もっと、もっと、医学について見識を高めておく必要があるなと、この年になって、感じています。結局、自分の体のことは自分が一番分かっているのです。そこに、医者や薬がどう関わって来るかが大切なことではないでしょうか。そういうスタンスで、病院に行くことが大切です。何でも医者や薬に任せるのではなく、自分なりの識見を持って臨むことです。

 最近の記事では人間ドックの正常値の値も色々変化しているようです。40歳の頃、人間ドックで中性脂肪が多いので、すぐ病院にいって処置をしてくださいと言われたことがありました。しかし、それを無視していました。その結果はどうでしょう。72歳になった今でも、健康ではありませんか。あのときの、ことはなんだったのかと今でもよく思い出されます。最近、中性脂肪値が多い方が長生きしているという論文も出回るようになって来ています。何が正しいのか分からないことだらけです。中性脂肪値が高くても健康な人もいますし、正常値でも不健康な人もいます。また、血圧も一斉に130以上が高血圧といっていますが、現実には150位の高血圧の方が長生きしている説も出回っています。血圧だけで人は亡くなるのでもありません。血のめぐりが悪くて認知症になったら元も子もないです。人間の体は血圧ばかりでなく色々な要素で成り立っています。そのことを考えることが大事です。健康な体なら、自分の中で薬に相当する物質も作りだせるようです。それこそが一番のその人にあったくすりでしょう。

 今の世の中は何でも専門分野が決まっていて、その専門から、物を考えます。一番大切なことは人間そのものを俯瞰してとらえることです。その中での血圧であり、中性脂肪値でもあります。やはり、自分の体は常日ごろから自分でしっかり管理するのが王道です。人には寿命という神様が決めてくださったものがあります。この寿命を快く受け入れてゆく度量こそ、一番大切なことではないでしょうか。過剰医療の問題もその辺にあるのではありませんか。

 また、50歳位のときでしたが、糖が出ているからと言うことで再検査があり、女房も呼ばれ、食事療法の指導もありました。その後、今迄、何の問題も無く、検査値も正常できています。多分そのときは検査方法に問題があったのでしょう。心配しただけ馬鹿を見た思いでした。あれ以来、検査結果に一喜一憂する方が体に悪いということを学びました。最近は自分の寿命は神様に委ねることに決めました。それ以来、気持ちはだいぶらくになりました。人生は為るようになり、為るようにしかならないのです。後は人智を尽くして天命を待つ心境です。

 
 
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