想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

腐らないいちごの不思議

2024年06月16日 | エッセイ
 コロナ5年6月16日
(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 4日前に農道脇の無人で妻が買ったアキヒメいちごですが、まだ、全然痛んでいません。

 私も苺を趣味で育てていますが、イチゴはとてもデリケートな果物です。しばらくするとすぐ痛んでしまいます。ちなみに私は紅ほっぺを無農薬で育てています。こんな長く新鮮だとは思えません。

 多分、色々な農薬を使っているのではと、思って、残念なが処分しました。

 日本の食品添加物や農薬の基準が、先進国の中では、特別にゆるいので、危惧しています。

 添加物や農薬には十分気をつけて天の恵みをいただきましょう。

 世界中が禁止するラウンドアップ 余剰分が日本市場で溢れ返っています。

 日本は食品添加物の天国です。気をつけて天の恵みをいただきましょう。

 もっと、日本も規制を厳しくしていかないと、益々医療費のいたちごっこは治らないでしょう。

 発達障害、アレルギー、大腸がん、前立腺肥大の増加が日本ではますます広がっています。

 予想の段階ですが、多分これらは食品添加物や農薬、化学製品などの影響が大きいと思われます。

 日本には古来、医食同源、地産地消、身土不二、食育という言葉があります。

 もっと日本の食料自給率を上げて行くことも大切ではないでしょうか?

 日本の食料自給率は低すぎます。昔はもっと高かったはずですね。やはり食べ物は地元で取れたもの、旬にいただくのが基本です。

 ちなみに、私は地元で無農薬野菜を里山農法で育てています。とても健康的で良いですよ。ときにはキジの卵を見つけることもあります。モグラも出ます。

 今後は現行の食品表示法や種苗法等の法改正が自然保護や国民目線で行われることが重要な時代になってきます。

買ったいちご

私が育てている紅ほっぺ



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インフォームドコンセントと今の医療

2024年05月26日 | エッセイ
コロナ5年5月26日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 私自身もいつしか喜寿を超え、最近は、健康についての関心が知らず知らずのうちに、ますます高くなってきたように思います。そこで今回は新しい医療のあり方について考えてみたいと思います。

 過去には「医療については専門家である医師に任せる」のが患者のためであるとし、任された医師は身を正し、愛情を持って患者の治療に努めることが強調されてきました。いわゆる「医は仁術」とされ、医師の慈愛の気持ちが、「医療の倫理」として2000年以上にわたり容認されてきました。

 先日も喉をやられ、治りが遅いので、常日頃は自然治癒力を最大限に尊重している私ですが、何かあってもいけないと思い、耳鼻咽喉科にかかりました。

 インターネットの予約に始まり、連休明けでもあり、私が予約を取ろうとした時にはもうすでに160名ぐらいの患者さんがいました。あまりにも多い患者さんにびっくりしましたが、それでも予約は無事取れました。

 久しぶりの病院通いでした。以前は2人だったはずの先生も、今では3人になっていました。なぜか私はベルトコンベアーに乗って治療を受けているような感覚に襲われました。昔の医療に慣れている私にとっては驚きの事ばかりです。

 今の人にとってはそれが当たり前のことなんでしょうけども、病院が忙しすぎです。なぜこんなことになったのかとちょっと考えてしまいました。

 医は仁術からいつの間にか、算術になっていたのです。病気が増えれば、医者や製薬会社が儲かる仕組みができてしまっていたのです。健康診断やワクチンなども個人の権利であることも忘れ、企業などの組織に入っていれば、なかば強制的に実施され、必要以上に薬と検査漬けになっています。

 血圧130以上は高血圧だという考え方が、日本高血圧学会、高血圧治療ガイドラインで決まり、年齢を考慮せず一律決まってきたのもおかしなものです。そのため、急に高血圧が統計的に増え、薬が大量消費されることになりました。昔の90+年齢の血圧基準からしてもおかしな話です。

  検査をすれば、医療機械会社が儲かり、薬を投与すれば、製薬会社が儲かります。そのことが日常茶飯事になり現代人はあたりまえだについて当たり前に思っているようでした。

 古来からある、食育の基本である身土不二、一物全体はどうなったのでしょう。今の対処療法的医療には危惧を感じせざるを得ません。

 もっと、診察に時間をかけ、症状の本質に迫る医療がまずもって、大切ではないでしょうか。今のお医者さんがかわいそうな気も致します。もっと、高邁な考えでお医者さんになった人は嘆いていることでしょう。何の為に、高額な学資をかけてお医者さんにしたのか親御さんとしても考えなければいけない問題でしょう。

 高血圧や認知症、心因性の病気とされているうつ病や自閉症なども病気扱いのようですが、これは症状であり、今、そういう状態だということです。病気と症状を一緒にしている風潮もおかしいです。

 医者に行くと過剰な薬を処方されますが、管理栄養士や療法士、カウンセリングの力も借りて薬以外の運動や栄養、生活習慣の改善で直しことを、もっと、考えていかないといけないなと思っています。

 だいたい、その根本からの治療をすれば、減薬に大きな効果を発揮するでしょう。医食同源や食育という考え方もあります。このことを、なぜ、もっと奨励しないのでしょう。そして、人間が本来もっている自然治癒力も利用すべきです。

 医療がますます、自然から離れていっている現状を憂えています。これでは、いたちごっこで医療費は益々増大していきます。

 インフォームドコンセントという言葉が私の脳裏によぎりましたが、なぜ、医師法にもありますが、この考え方が広まらないのでしょうか。国民が周知してないのも、おかしな話です。医療従事者しか知らない言葉になっているようです。PRをして周知させる努力をしてほしいです。

 お医者さん主導でどんどん進んでいき、薬の副作用とか、治療の説明もそこそこに、薬がたくさん投与され、気が付けばお薬手帳はいっぱいです。患者は患者で、ちょっとしたことでもすぐ、医者にかかるので、いつも医者は満杯です。

 災害の時ばかりでなく、通常に時にも、医療のトリアージを進めた方がいいのではと思っています。

 こう考えていくと、今後は、医療改革がどうしても大きな社会問題となっていくでしょう。いや、していかないと困るでしょう。医療費の増大は際限がないようです。


※ インフォームド・コンセント(Informed Consent)とは、医療分野における重要な概念で、患者が自分の健康に関する重要な意思決定を行う際に、十分な情報に基づいて自由にかつ明確に同意をすることを意味します。

 具体的には、医療提供者が患者に対して治療の目的、方法、期待される効果、可能なリスクや副作用、代替の治療法などに関する包括的な情報を提供し、患者がその情報を理解した上で自らの意志で治療を受けるか否かを決定するプロセスです。 
 
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唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき) 

2024年04月24日 | エッセイ
コロナ5年4月24日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 最近は4文字熟語は、あまり使われなくなりました。ひょんなことから、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)こんな二つの言葉が出てきましたのでブログに書いてみました。

 唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)です。魑魅魍魎(ちみもうりょう)とか、艱難辛苦(かんなんしんく)、付和雷同などの言葉なら聞いたり使ったりしたことはありますが、唯唯諾諾(いいだくだく)と倜儻不羈(てきとうふき)初めてでした。

 そんなわけですが、どんな意味を持っているか、ちょっと調べてみました。そしたら、唯唯諾諾とは、言われるがまま従ってしまうという意味で、相手の言うことに少しも逆らわず、従うさまを言い、昔の書物ではかしこまって了承する時の応答の語としても使われていたようです。主体性のない協調性かな。

 倜儻不羈(てきとうふき)は個性的で自立心の強い人々を表す際に使われ、自由奔放で束縛されないさまを表し、この表現は、規則や慣習に縛られず、自分の信念や欲望に従って行動する人を指すことがあり、江戸時代には、よく使われていた言葉のようです。まあ、信念のある主体性というところかな。

 まだまだ、この年になっても、私の知らない日本語の言葉がたくさんあったのですね。もう、びっくりしてます。勉強のし甲斐がありますね。日本語は奥が深いとあらためて想いました。

 同志社の新島襄、早稲田の大熊重信、作家の司馬遼太郎なども、好んで倜儻不羈という言葉を使っていたことが分かりました。明治維新の流れを感じますね。

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人生、どこで差がつくか?気づく力

2024年04月20日 | エッセイ
コロナ5年4月20日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 学校教育というのは幼稚園(保育)に入ってから大学卒業するまでと考えると、およそ20年ぐらいありますよね。まあその中には先生と言われる人がいてその教えをこうわけですね。

 ところが、人生というのは80年生きたとして、まあ、あと60年は自分で生きていかなきゃいけないわけですし、自分で職業も決めることもできるし、居住も決めることができますよね。伴侶も決めることができます。

 まあ、何でも自分で行動しないとできないわけですですから、その60年という、そこで、その人の人生っていうのは決まってしまうわけですね。だからそこをどう生きるかということが非常に大切ですが、なかなかそこをどう生きるかってのは難しいですね。

 小学校一年生からやる生活科っていう教科が新設され久しいわけでありますが、この生活科は気づく力の連続、まあそういうようなことをやるんですが、やはりね、いろんなものと遭遇してるわけですね。人間って。

 で、これは、自分の意思で遭遇する場合もあるし、偶然に遭遇する場合もあるわけですよね。問題は、そこで遭遇することによって何を自分が得るか。何に気づくか。そのことで、将来が決まってくるんじゃないかと思いますね。

 その連続がまあ人生じゃないかな。まあその積分とも言えますよね。大げさに言うわけじゃないですが、その通りだと思いますよ。

 私はよく人生って、なるようになるし、なるようにしかならない。ケセラセラ、なんてことを言ってますが、このなるようになるには、後で考えてみると、どんなことをしたかが、現在の自分を作っているわけですよね。

 まあ、行動による気づきの連続が人生だと言うこともできるわけですね。まあ発見の連続だとも言えますよね。発見するというのも、気づく力があってこそです。そこに、直観とか、感性いうのも重要なファクターですね。

 まあポスト生成AIということも考えますと、芸術的にものを考えたり感じたりする力も大きなものもありますよね。人生というキャンパスはこう描かれているわけですが、学校教育というのは基本的には学習指導要領というのがありまして、国の方針に従って、先生がこう指導しているわけですね。

 ところが、人生というのは、それを元にして自分で切り開いて行かなければなりません。学校教育の知識に安住していてはいけませんね、そこには勇気、行動力というのもまた大きな力になってきますね。

 まあそのようなことは、個人でできることです。ただ困ったことに人生は個人で対処できるものと個人では到底対処できないような大きな事件に遭遇することがあります。例えば、戦争、大震災、コロナの出現みたいなものですね。

 今の古老の中には太平洋戦争をくぐり抜け、財産や家族を失い、満州から命からがら逃げ帰り、シベリアに出兵し、生死をさ迷った人もたくさんいますね。

 私の母なども嫁ぎ先の都会の広い土地を空襲のドサクサでなくしてしまったとよくいっていました。

  どうも私たちというのは戦後、基本的人権と称する個人の問題として考える事は多々あるわけですが、個人を超えて国家とか人類とか祖先とか子孫、そういう大きな捉え方をするのに、どうも慣れてないようですね。

 ですから今回のコロナの問題は、個人を超えて人類というものを考えるのに大きな影響を与えたと思いますよね。

 ある意味人間が一人ひとりわがままになっていたのかな。もっと私たちは日常、今あるのは祖先のおかげであり、将来禍根を残さないように子孫に良い社会を残して行くという考えも常に持って行くといいのかなとも思いました。

 私たち団塊の世代は、 日本においては大きな戦争もなく、やてきましたが、周りの国々ではきな臭い話も多くなってまいりました。特に日本の周りでは考えの違う国が多く、ますます今後注視していかなくてはならない時代です。
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お金持ちより心持ち

2024年04月07日 | エッセイ
コロナ5年4月9日
(ウクライナ、ロシア戦争3年)

   最近、相対的貧困という言葉をよく使いますよね。今、貧困層が増えてると…。しかし、これをよく見るとね。今の貧困と言うのは軽自動車やテレビは持っていても、貧困になってますよね。だからこれは一面、心理的なものでもあるわけですね。

 そして,昔の絶対的貧困っていうのは、もうほんとに物もない、食うものもない、そういう時代だったと思います。だから、今の貧困というのは、どうもピンとこないですね。想いは考えようでどうにでもなりますもんね。私のうちなども、バラック建てでひどいものでした。特に伊勢湾台風の時は、家が飛んでしまうかと心配をしたものです。もう、遥か昔の出来事になってしまいました。

 周りみんなが豊かになっているのに、自分だけという疎外感が心に響くんですよね。だけど、太陽は誰にでも光を与えてくれてるし、空気もただですよね。時の流れも、誰にも平等に与えられています。それこそ、天下の周り物です。そう考えれば、自然や周りの環境に恵まれてさえいれば、案外、内面は豊かだという考え方もできますね。ないものをないと嘆くのでなくて、あるものに気づきそれに感謝する気持ちが大切ですね。

 そういえば、お天道様とか罰が当たる、閻魔様に舌を抜かれる、壁に耳あり障子に目あり、月明かり、ほのぼの、良心の呵責、おかげ様で…などの言葉が使われなくなって久しいわけですが、寂しいですね。そこには自然への畏敬の念や、感謝がありますね。

 どうも、今の貧困は、物の豊かさで決まっている部分も大きいですね。心の貧困、それこそ、一番心配しなければならないことではないでしょうか。心が満たされること、心持になることが何より大切です。心は永遠ですし、形もないし、場所も取りません。お金持ちより心持をめざしましょう。

 昔、「名もなく貧しく美しく」と、いうタイトルの映画がありましたが、まさに、そんな考えが漂って、輝いていた昭和の時代が懐かしく想い出されます。そういう私は古い人間でしょうかね。今の時代が変わりすぎてしまって、一種のノスタルジアを感じるのかもしれませんね。夜中でもこうこうと照明がつき、田舎でも、闇夜がなくなり、植物の生態に影響があるかもしれません。やはり、自然と共に人間も生きるのが一番良いのではないかと想います。自然こそ最大の師匠ですから。

 相対的貧困という言葉も最近使い始めたんですよね。まだ私が子供の頃は、もう、貧乏といえば、お金がなくて、物もかえない。それだったんですね。そうそう、近所にも恵んでくださいといって、浮浪者がまわって来ていました。そんな時代を知っている世代が私たちかな。

 
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