コロナ3年9月6日(ウクライナ侵攻元年)
日本語は何と奥行きのある言葉なのだろう。よくそう想うことがある。その言葉が出来て来るまでに、どれだけの年月を経ているのだろう。どれだけの人と環境の関わりがあったのだろう。大和言葉を調べて見るだけでも興味は尽きない。パトスとロゴスが入り交じっている。それに、リズムがつく。響きがある。肌触り感もある。
まさに、詩的表現としての言語としては、世界一奥行きがあると想う。口語体と文語体、かたかなとひらがな、現代文と古語の対比もある。俳句、短歌、実に表現方法が多彩な言語が日本語だ。
また、色の表現も凄いと想う。赤い、紅い、茜色、藍色、浅葱色、赤銅色、鼠色、鶯色、鳶色など、自然界と大いに関連している名前が次から次へと浮かんでくる。
醤油を「むらさき」「箸」を「おてもと」いう感性、寿司、鮨、寿しと表現する。「触れ合い」と「ふれあい」の響きの違い。私流では「ふれあい」表記にしている。ひらがなで書くと優しさが伝わる。「おやじ」と「お父さん」の響きの違い。わたしだったら、お父さんがいい。さて、あなたはどちらの言葉がお好きでしょうか。
そのこだわりがきょうも、自分の足跡となって残っていく。歩いた後にしかできない足跡、後期高齢者ともなると、私の歩みも確実に黄泉の世界へと向かっている。
こんな自分でもあるけど、長年連れ去った肉体とお別れの日も迫って来ているのだ。
ただ、いつも想うのは、お別れは次への旅立ちの日でもある。お別れに目がゆくと人はメランコリーになる。旅立ちに目を向ければ明るい未来が見えて来る。未来は末広がりになるのだ。私は、いつもそのようにポジティブにとらえるようにしている。卒業は進学、怪我は功名にもなる。そして、きょうも「人は毎朝生まれ変わる。」その連続が人生なのだ。人生はある面波動だ。リズムだ。色んな時がある。リズミカルにいこう。