コロナ元年8月29日
日本には「寄らば大樹の陰」という諺がありますが、まさにこれは、自分より大きな存在を信頼し、ついていけば安心だということだと思います。
私たちは今まで、この様な教育を受けて来た様に思います。この中からは、感謝や尊敬の意味もくみとれてきます。今までの日本の教育がまさに、この様な適用教育だったのです。
だから、そこからは、起業などという発想は出てこなかったのです。ましてや、原発の問題なども扱ってこなかったのです。今までやってきたことをそのまま踏襲する安易な生き方を選んできたのです。
人と、違う意見も言えず、本質論の展開などは意味のないもので、まあ、保守的な教育だったなと想います。
しかし、コロナをはじめ、世の中は時々刻々変化してきています。変化こそ、世の中の真理であるからです。
これからは、適応教育ばかりでなく、起業、創造し、その上に立ち、自分が、その大樹になろうとすることもまた、おおいに奨励されてもいいのではと、最近はよく考えるようになりました。
ここ、二十年、時代は変わり、生活科や総合的な学習の時間が特設され、教科ばかりでなく、総合的横断的な単元学習も入って来て、気づきが重要視され、気づきの連続が自分の人生を作るという考えも出て来ました。義務教育でも起業の萌芽は見られるようになりました。
しかし、教科学習はまだまだ、義務教育の本流ですので、本質から物事を考えたり常識を疑うことはまだまだのようです。
そうはいっても、時代は変化し、労働でも副業が認められる時代になりました。自分探しの旅が日常化され、幅広く物事を考えたり、実行する時代になってきたのです。
私も、生まれてこの方、知らず知らずのうちに適応教育の中で、何の疑問もなく過ごしてきた時期がありました。組織の一員となるのが、働くことだと刷り込まれてきたような気がします。
反面、私はどこの世界にいても、漠然と、1億分の1の人間になってはいけない。自分の良さを発揮できる世界で活躍したい。そのように世界は仕組まれているのだと、強い自己肯定感をもって、過ごしていたのも事実です。
教育は知能指数でなく、幸せ指数こそ大切ではないだろうかといつも考えていました。
また、二進数で低学年の算数を教えたらデジタル社会がどう変わるだろだろうかと、考えた時期もありました。
日本は法治国家ですので、行政は、それを根拠に動くのですが、その中でも運用でどこまで広く解釈できるのだろうかと考えてもいました。
順法精神はそれなりに大切ですが、法を杓子定規の考えるのではなく、もっと、柔軟に考えれないだろうか。法の趣旨とは何だったんだろうか、という側面からも考えて実践して来たつもりでした。法そのものがおかしいのではないかとさえ考えたこともありました。それは、国の行政に4年間携わった経験からも余計に感じていたのかもしれません。
学習指導要領ができ、教科書が発行されるまでのタイムラグも頭にいれ新聞やその他マスメディアも参考にし、先取りしてやってきたこともありました。
今後の残された人生を考えると、これからは、自由になった身でもありますので、大いに起業家精神を発揮し、「寄らば大樹の陰」ではなく、その大樹になるべく方策を探っていきたいと考えています。
そのベースとなるのが、健康です。できるだけ、健康寿命を永らえていければと想う今日この頃です。そのことこそ、神のみぞ知ることなのでしょう。